【プロローグ】勇者と魔王
「ウゴアアアアアアア!」
獰猛な獣の叫びに俺は顔を顰めた。
全身から血を噴出させ、それでもその場で荒れ狂うあの化け物、魔王。
あいつがそう呼ばれる以前はただの心優しい人間だったなんて、一体誰が信じられるだろうか。
ぐびり、と思わず飲み込んだ生唾が喉を鳴らした。
血で滑らないように布で手に固定した剣の先が馬鹿正直に震える。それは恐怖からか、それとも・・・あいつに相対することに抵抗があるからか。
もしも後者ならば、俺はまだ人でなしには堕ちていないということだろうか。そうであってくれたらと、少しホッとする。
「コウ……っ!」
この長い救世の旅に付いてきた騎士であるアレクシオンが苦痛に染まった声で俺の名前を呼んだ。彼を含め他の仲間たちは既に満身創痍だ。
なんとか動けるのは既に俺一人だけだった。辛うじて声を出せたのもアレクシオンだけで、他の2人の仲間や、付いてきた兵士たちはもうピクリとも動かない。死んでいるのか生きているのか、その確認をしている余裕さえない。
そんな隙を見せれば殺される。
獣と化した魔王が、殺意を込めて俺を睨みつけた。
「ウガアアアアアアアア!」
放たれる咆哮と共に、奴が両手に魔力の弾を作り出す。触れた瓦礫が分子レベルで崩壊している。食らえばヤバい……!
何の躊躇もなく放たれた魔力の弾は、容赦なく俺に向かって飛んでくる。もしも俺が避ければ倒れている仲間たちに当たる。もう俺には考える時間は無かった。
「イクステンションブラスト!」
横一文字に聖剣を振るった。斬撃が宙を飛び、魔力弾とぶつかり相互爆発を起こす。多くの魔物を、敵を屠ってきた必殺技だ。
「うおおおおおおお!」
それを目くらましに突っ込む。恐怖からか、口をついて出た叫びに後を押されながら、全身を魔力で満たした俺は光の速度まで達し、魔王との距離を一瞬で詰めた。
あとはこの剣を振り下ろすだけ、そうすれば戦いは終わる。たった、それだけだったのに。
「グガァ!!」
「ぐっ、うあああっ!?」
奴が、咄嗟に手刀を突き出した。人間だった頃とは異なる鋭い爪が俺の肩を突き破る。
勇者として加護を受けていなければ失神してしまうと思える激痛が電流のように全身を走った。
痛い、熱い、手が痺れる、意識が麻痺する……
だけれども、止まるわけにはいかない。俺は……俺は勇者なんだ!
幸いなことに突き破られたのは左肩、利き腕である右腕はまだ動く。この聖剣を振るうことはまだ出来る。
俺は突き破られて既に死にかけの左腕に鞭打ち、奴の腕を掴んだ。
「グガァ!?」
払い飛ばそうと腕を振る奴だが、そう易々と離すわけにはいかない。一度離してしまえばもうこの腕は使い物にならずしがみつくどころか、在るだけで大きなハンデとなる。
片腕を失いバランスを崩した俺が一旦距離を取られてしまえば、もう近づくことさえ適わないだろう。
「この身が砕けても離さねぇ……バルログ!」
俺は意識が吹っ飛ぶギリギリのところで魔王が人間だった頃の名前を呼んでいた。
バルログは魔法が人を助ける力になると信じていた。
新しい魔法が成功すると子どものように嬉しそうにはしゃいでいた。
俺のこの世界で一番の親友だった。
しかし、そんなバルログの思いを踏みにじるように、人間の欲望が愛する人を殺した。残虐に、残酷に、凄惨に。
その怒りから、バルログは悪に身を堕とし、魔王となって人間を滅ぼそうとしている。こんな姿になっても止まろうとしない。
「俺は、止める……止めるんだ!」
「グガアアア!」
「絶対に離さねぇっ!俺は、一度お前の手を離しちまった……この世界に呼び出されて、訳が分からずにいた俺に親身になって助けてくれたお前が苦しんでいるのに耳を塞いで……もう二度とあの時みたいな後悔はしたくないんだ!!」
涙が溢れた。視界がグワングワンと暴れる。意識が吹っ飛びそうになる。それでも、死にかけの左腕が俺の想いに合わせて強くなっていく。
「俺は、お前を助けたかった。でも、こんな力じゃ、化け物になったお前を助けることが出来ない!勇者なんて言われても俺には壊すことしか……奪うことしか……!それでも、それでも俺は!お前を!!」
――コウ
かつての、あいつの声がした。
――ありがとう
「うあああああああああああああああああああああ!」
それはただの叫びだった。苦しみと、悲しみと、怒りと、絶望と……あらゆるものがない交ぜになった醜い獣のような叫び。
その叫びに背を押され、勢いのまま、無我夢中で聖剣を振り抜いた。
聖剣は、魔王の、バルログの頭を、体ごと真っ二つにした。
――これで、僕もライラのところに行けるよ
まるで魔物のように、死を迎え、砂のように崩れ落ちていくバルログの体。
――背負わせて、ごめん
「馬鹿やろぉ……」
そのまま砂の山になってしまったバルログの上に落ちる。彼の遺灰がクッション代わりになって痛みが無いなんていうのは、なんという皮肉だろう。
「俺は、勇者だぜ」
涙が零れた。溢れ出て、止まらなかった。
「だから、これは使命なんだ」
もうあいつの声は聞こえない。俺は涙をボロボロと零しながら、肺が、全身が悲鳴を上げているのも無視して叫んだ。
「なんで……なんでお前が魔王だったんだよぉ!!」
俺は親友を殺した。たとえ化け物になっていても、親友だったあいつを。
俺は、殺したんだ。
「勇者よ、よくぞ魔王を倒した!よもや、あの神童と呼ばれたバルログ・オルターが魔王に成り果てるとはな」
誰が俺を助け上げたのか、気が付いた時には馬車の上で回復魔法による応急処置を受けていて、そのまま休む間もなく王城へと召還された。
仲間たちの傷は既に癒えていた。俺は勇者の加護が回復魔法さえ邪魔をするから、未だ全身傷だらけだ。血くらいは止まっているが、体は上手には動いてくれない。
だが、きっと体がまともに動いたとしても、俺には関係無かった。
国王の言葉なんて入ってこない。殺した親友の影がどうしても頭にちらついて離れてくれない。
「コウ……」
仲間の僧侶であるエレナが心配そうに俺の名前を呼ぶ。
ここに来るまでほとんど休まずに回復魔法をかけ続けてくれた彼女は、傷こそもう無いものの魔力不足に陥って顔色を悪くしている。
今までの俺ならそんな彼女に無理してでも笑って、「何でもない。俺は大丈夫だ」と優しい声をかけただろうに。今はどうしても口が動いてくれない。
「さて、勇者よ」
国王は改めたように咳払いを挟んでから俺の名前を呼んだ。
話は殆ど聞いていなかった。おそらくベラベラとバルログの悪口を並べていたのだろう。
「お前はもう用済みだ」
そう、冷たい声が聞こえた。
「なっ!?」
「どういうことですか!」
俺の代わりに声を上げたのはアレクシオンとエレナだった。
二人は咄嗟に、盾になるように俺の前に出ようとしたが、
「やめておけ、アレクシオン。エレナも」
もう一人の仲間である、レンジャーのブラッドに止められる。
「ブラッド!? どうして止めるんだ!」
「離してください、ブラッドさん! 陛下、用済みって一体どういうことですか!?」
叫ぶ二人に対して国王は冷たい声色ではっきりといった。
「勇者はここで処分する」
ひっ、と息が詰まる音が聞こえた。
動揺するアレクシオンとエレナに対して俺はどこか冷静だった。
おそらく既に部屋の外には多くの兵士が武器を携えて待機しているのだろう。そういう気配を感じた。
「心配するな。アレクシオン、エレナ、そしてブラッド。お前たちは英雄として称えられる。当然、褒美という褒美を与えよう」
「何を、言って……」
「だが、勇者。貴様は駄目だ。予言では魔王が生まれた時に勇者も生まれる。勇者が生まれれば魔王が生まれると出ている。貴様と魔王はいわば運命共同体なのだ。貴様がいる限り第2、第3の魔王が生まれることとなるだろう。それでは困るのだ。再び魔王に現れられてはな」
入れ、と国王が指示すると扉という扉から兵士たちがこぞって入ってきた。その手には長槍が握られている。
「なぁに、心配するな。貴様も英雄として称えられるだろう。ここで死ぬという最後の役目を果たせばなぁ! やれっ!」
鬨の声を上げて囲んでくる兵士たち。アレクシオンとエレナはブラッドが引っ張って退避させていた。そんな彼らの姿もすぐに兵士たちの壁によって見えなくなる。
周囲を完全に囲むと、兵士たちは俺を殺すために槍を突き出してきた。そんな姿を眺めながら、それでも俺の心は冷めきっていて……どうしようも無い現状を受け入れるためにゆっくりと目を閉じた。
暗闇の中にいれば、周囲を取り巻く騒音も余所の世界のことのように思えた。
死ぬのは怖くない。ずっと怖かった筈なのに、死にたくないと必死にやってきた筈なのに。どうにももう、そんな人間らしい執着すら枯れてしまっていたようだ。
「はは」
乾いた笑いが口から漏れ出ていた。
もう……どうでもいい。殺すなら殺してくれ。
なぁ、バルログ。俺は本当に正しかったのかな。
俺は、どうすればよかったんだろう。
教えてくれよ、親友……