天使になった僕
僕は昔、天使に告げられた。
「辛かったら死んでもいいんだよ」
嘘か本当か、自分でも信じられない話。その時の僕は何の疑いもない無邪気な笑顔で、幸せだよ。そう答えていた。
天使の言葉の意味を知ることになったのは、僕が中学2年生。兄が17歳の時だった。
*
離婚した父親は、兄の少ないアルバイト費に頼って生活していた。かろうじて家賃が払えて、ガス代や電気代などは大抵諦めている。それでも酒を飲んで、毎晩自暴自棄になる父親。その矛先が、僕だった。
殴られて、蹴られて、叩かれて。挙句の果てには瓶を叩きつけられた。背中が血塗れになって、痛みに悶えた日。兄は怯えながらドアの向こうで僕を見ている。数日間、笑いながら僕は痛みに耐えていた。
勉強はどんどん頭から抜けていき、何も手につかなくなる。いつの日か父親に殴られ始めると意識が飛ぶようになり、気付くと、全身から伝わる鋭い痛みが一気に襲ってくるのだ。
生きてても、仕方ないな。
アルバイトが出来ない僕は、兄を助けられない。むしろ折角稼いでくれたお金を、給食費などで持っていってしまう。その額は結構大きくて、毎回兄に伝えるのを躊躇する。
僕がいないほうが、きっと兄は楽になれる。きっと、いや、絶対に。僕のためのお金の浪費が無くなって、もっと生活に回せるようになって、そしたら、もしかしたら、父親だって落ち着きだして、また仕事してくれるかもしれない。
ふと、天使に昔告げられたことを思い出す。夢だったのかもしれない、その言葉。だけど今は、それが僕の中の引き金になった。
夕方。オレンジ色の光が眩しい4階教室。窓から入ってくる風が、廊下の向こう側へ抜けていく。
何も考えてなかった。周りの確認もなにもしないまま、開けた窓の反対を覗くように、頭から落ちていく。
迎えにきてよ、天使。
ふと頭に浮かんだ言葉も意識も、僕の体も心も、ばらばらに散って飛んでった。
*
『久しぶり』
「あ……ほんとに、いたんだ」
『夢だと思ってたでしょ、知ってるよ』
「僕、死んだの?」
『死んだよ。だけど、君のお兄ちゃんに良い影響は無かったみたいだね』
空中に映し出される映像。痩せこけた兄の姿と、暴力を振るわれる兄の姿と、そして……。
「僕の分まで、犠牲になっちゃったの……?」
『そういうことだね。どうする? 僕が迎えにいっても良いけど、君が行く?』
「迎え……?」
『背中、見てみなよ』
目の前の天使と違う、極端に小さな純白の羽。
「お兄ちゃんを、迎えにいける……?」
『そういうこと』
「行く。僕行くよ」
『それじゃ、行ってらっしゃい』
白い世界から白い世界へ。周りの風景は変わらない。でも場所が変わったことを感じる。
ボロボロな白い羽を生やし、座り込む兄の姿。
「迎えにきたよ」
そこで僕は久しぶりに、兄の笑った姿を見た。




