買ってください
私は困り果てている。その場を去ろうとしても、男性特有の圧倒的な握力で、腕を掴まれて逃げられない。そのくせ、子犬のような瞳で私を見てくるのだから、たまったもんじゃない。
「僕のこと、買ってください」
「いやだから人間を買うなんて……」
「どうせ貴女、独身でしょ? だったら僕と暮らそうよ」
「ほんとに……どういう商売なの……」
およそ30分前、仕事帰り。雨が突然降り出し、傘を持っていなかった私は路地裏へと逃げ込んだ。そしたら……不審者に捕まってしまった次第だ。
不審者とは言えども、どちらかというとホストのように見える。暗い路地裏でも分かる程に染まった、銀色の髪。チャラチャラしたネックレスとピアス。長い睫毛に、薄い唇。唯一ホストに見えないのは、その服装だけか。
結構な頻度で着ているのか、すっかり伸びてよれよれになったパーカーと、泥で裾が汚れたジーンズ。新しい服を買うお金も無いのかと、可哀想になってしまう。
「寂しい人を癒してあげるのが僕のお仕事。ってことで、どう? 初回限定、1週間で5万円です」
「たっか……」
つい声が漏れてしまった。人間なんて買ったことないから、それが安いのか高いのか実際分からないけど……高い。私にそんなお金はポンと出せない。しかも見知らぬ人間に。
あと、私は寂しい人間なんかじゃない。やりたいことはやっているし、友達との付き合いも結構続いていて、時々遊んでいる。充実はしているはずだ。
「僕らの業界……おっと。僕からしたら安いけどね。いくらなら買ってくれるの?」
「悪いけど……他を当たってくれる?」
見た目が好みか好みじゃないか、と聞かれたら好みだと答えるけど……買うまでの余裕は無い。それになんか、人間を買うって、危ない香りがする。
けど断った瞬間、今にも泣きそうな顔をされて戸惑ってしまった。素直に他の人に声をかければ良いのに。絶対そっちの方が早い。
「僕最近、誰に声かけても買ってもらえなくて……。ねぇ、そんなに僕、魅力ないのかなぁ……?」
「うっ……」
服装がどうであれ顔立ちは美形な彼だ。目を潤ませた上目遣いされて、私は思わず唾を飲み込む。子犬みたいに縋ってくるようで、切ない。心なしか、掴まれていた腕の力も弱まっているように思えた。
心の表では、それでも買うことはできないと思い続けているが、裏では大きく揺れ動いている。買ってあげたい、ではなく、買いたい、という気持ちが湧き出ているのだ。
「そんなに僕の魅力が無いなら、1週間で2万円でも良いよ……。だからお願い、僕のこと買って……?」
私と同じくらいの身長なのに、それを思わせない。不意に顔を近付けられて、心臓がどきっと跳ねてしまった。こんなことは、一体何年振りだろう。
分かっている。これが恋愛に進展することは決して無くて、彼は今も演技で、商売で、私に買わせるためだけだと。
だけど私は、放っておけない性分だった。
「……1週間3万円で良い。仕方ないから……買ってあげる」
「ほんと? やった、嬉しいなぁ。これでも貴女が買ってくれないようだったら、僕、泣いちゃうところだったっ」
いきなり弟を持った気分だ。こんな美形で、可愛らしい子犬のような弟なんて、私にできるはずがないんだけど。
先程とは打って変わって、彼は心底嬉しそうな笑顔で元気に話し出す。
「僕のこと、マキって呼んでね! 僕は貴女のこと、なんて呼べば良いかな?」
「私は……楓って呼んで」
「わかったよ、楓っ。今日から1週間、よろしくねっ!」
キャラがコロコロと変わる子だ。見ていて落ち着きがないというか、飽きないというか。
私がそんなマキに虜にされてしまったと気付くのは、丁度、1週間後のことだった。