私が「君」を知らない世界
「さっちゃん、今日のノート見せてぇ……!」
「また授業中寝たの? まったく……はい、どうぞ」
「やったぁ! さっちゃんのノート見やすくてさっ!」
さっちゃん、と呼んでいるその子は、クラスで一番の優秀者で、私の親友だった。顔付きがきついせいで、なかなか友達と仲良くなれない私に声をかけてくれた、優しいさっちゃん。
「千紗はそろそろ真面目にやらないと、留年するよ?」
「まだ大丈夫!」
そんなさっちゃんに、実は彼氏がいるという噂を聞いた。
放課後、静かな教室。これは是非さっちゃんに聞いてみるしかないと、ノートを書き写しながら一言目を考える。……まぁ、なんでもいっか。
「さっちゃんって、彼氏いるの?」
「……はぁ!?」
肩がびくっと跳ねた。まさかいきなり聞かれると思ってなかったのか否か、少しの間の後に、大声で聞き返された。
思わず顔を上げると、何か言いたげに口を紡いでるさっちゃん。その頰は夕日のせいなのか、うっすらと薄紅色に染まっているように見える。
「……誰から聞いたの」
「えっ……と、噂してたのを耳にしただけ」
言ってはいけないことだったかな、と少し不安に思う。真実じゃないとか、もう何人にも聞かれてうんざりしてる、とかだったら怒られてしまうかもしれない。
ひとつ溜息を溢したさっちゃんの顔を、恐る恐る覗き込む。目を逸らしたさっちゃんは、頰を膨らませて答えてくれた。
「いるよ……。次、千紗と遊ぶときに紹介しようと思ってたのに……」
「えぇー!? 本当にいたの!? この学校!?」
さっちゃんは質問にも、次々と答えてくれた。おかげで私の心の高ぶりはすぐには収まらず、ノートを写すことも忘れ、恋話に熱中してしまった。
*
翌週の祝日、午前10時。さっちゃんと、さっちゃんの彼氏はもう来ているのだろうか。
今日はカラオケに遊びに来た。それは、さっちゃんに彼氏を紹介してもらう為。どんな容姿だとかは聞いていない。性格については、ちょこっと聞いただけ。
当たり前だけど、私はさっちゃんの彼氏のことを何も知らない。
「あ、さっちゃん!」
待ち合わせ場所に既にさっちゃんの姿はあった。そのさっちゃんの隣に、背の高い男性の姿。あれが彼氏なんだなと、私でも瞬時に理解できた。
「初めまして、千紗です!」
「初めまして。沙由香の彼氏の、日向です」
お互いに自己紹介をして、軽くお辞儀をする。背の高さを感じさせない、柔らかくて優しい笑顔が印象的な彼氏だ。
自己紹介を交わしている間、さっちゃんは嬉しそうで恥ずかしそうな顔のまま、一歩後ろで私達を見守っていた。
「ねっ、早速カラオケ行こうよ!」
「沙由香、そのカラオケここから近いの?」
「歩いてすぐのところにあるよ」
さっちゃんと日向くんの間で流れる空気はゆっくりとしていて、温かい。心が休まり、楽になる。
「懐かしいなぁ……」
足を止め、口元を抑える。私、今、なんて?
「千紗?」
――君を知らないままで良かったのに。
自分の声が、頭の中に響く。何も言ってないのに。突然の訳が分からないことで、不安と恐怖に襲われる。
知っている言葉。だけど記憶に無い。言ったことも、聞いたこともない。だけど私は、その言葉を知っている。
「千紗。ねぇ、千紗?」
出会えて良かった。嬉しかった。楽しかった。それでも君に私は釣り合わないと。
そう思った、ことが……あった……? 頭が痛い。ぼーっとする。周りが見えない。
――会いたい。
名前も容姿も分からない君にもう一度。