記憶消しゴム
木を軽く叩く音。小声で返事をすると、母親が部屋に入ってきた。手には小さな白い箱を持っている。
「悠人、これ届いてたの。何か頼んだ?」
「は? ……俺なんも頼んでねぇよ……まぁいいや」
母親に心当たりが無いなら俺宛か……父親か。だが父親も何かネットで頼んだりする人じゃない。届くとしたら俺くらいだ。
俺にその箱を投げるように渡した母親は、すぐに部屋を出て行く。相変わらず家事で忙しい様子だ。俺には関係がないけど。
宛先などは何も書いていない。不審に思いつつも、好奇心に釣られて箱を乱雑に開ける。中からは、一枚の紙切れと普通の消しゴムが一個出てきただけだった。
紙切れはよく分からないから捨てた。説明書を読まずにゲームをするような感じだ。そもそも、消しゴムに説明書も何もないだろうが。
白い消しゴムに白いケース。唯一色が違うのは、「記憶消しゴム」と書かれた文字だけ。
「記憶消しゴム……?」
会社名などにしては新しいというか、違和感がある。捨てた紙切れをゴミ箱から漁った俺は、丁寧にそれを開いた。
『使い方――消したい記憶を紙に書き、それをこの消しゴムで消して下さい。もう二度と思い出せないくらいに綺麗に記憶を消すことができます』
読んだ感想としては、訳が分からないというか、早く使いたいというか。早速試してみようと、数年放置されたノートに文章を連ねた。
小学校時代、全校生徒の前で転んで恥をかいたこと。いけると思った異性に、告白してフラれたこと。頭にバッタが乗っかって、慌てて取ろうとしたら潰してしまったこと。
思い出すだけで恥ずかしくなるし辛くなるし寒気もしてくる。俺は早速、消しゴムで連ねた文章を一文ずつ消していった。
一文目、恐る恐る消しゴムを動かす。文章を消し進めていくと同時に、段々と記憶が擦れていくような気がした。
二文目、少し勇気を持って半分程を一気に消した。思い出そうとすると、記憶が断片的にしか思い出せないことに気付いた。
三文目、普通に消しゴムを使うようにいきなり全部を消した。そしたら何を書いたのかさえも覚えてなくて、本当に何も思い出せなかった。
「これ……ガチなやつだ……」
非現実のようなこの消しゴムが、俺の元に届いたことが嬉しく思えた。次々と嫌な思い出を消していく。
大嫌いなアイツの顔とか、言われた言葉とか、されたこととか。過去の失敗したことも全部全部消していった。
「あーあ、明日久しぶりに学校行くかな」
最後に学校に行ったのがいつだか分からない。というか今まで学校に行かなかった理由も分からない。なんで俺、学校行ってなかったんだっけ。
部屋を出て、洗濯物を畳んでいた母親の元へ来た。俺のことを見た母親は、目を見開いて呆然としているように見えた。
「母さん、明日学校行くから弁当宜しく」
「え、あっ、そうなの……わかったわ……?」
宙に浮いてるような返事だが、いいやと部屋に戻る。明日久しぶりの学校だ。楽しみで仕方ない。
*
記憶消しゴムを手に入れてから1ヶ月……もうすぐ2ヶ月か。俺は嫌なことがあればすぐに消すし、おかげで楽しい学校生活を過ごしていた。
そんな学校帰り。1人で帰路を歩いてたときだった。
それは、つい欲に負けてスマホを弄っていたせいだった。横から来た車が視界に入ったときにはもう遅くて、俺の体は空を飛んだ。
ふと目覚めたときには、白い天井と白いベッドと白い部屋。ハッと辺りを見回したら、すぐ隣の棚の上に消しゴムが置いてあった。ポケットに入れておいたのを、しっかりと取ってくれたみたいだ。
「悠人……目が覚めたのね、良かった……」
「母さん、紙ある?」
「紙……? ちょっと待って、すぐ持ってくるから」
安堵の表情を見せた母親を無視して、紙をお願いする。俺が交通事故に遭ってしまった事実が、どこか恥ずかしくて許せなかった。完璧な人生でいたいのだ。
何処からかノートを持ってきた母親。シャーペンも持ってきてくれた母親に対し、一種の感動を覚えながら、ノートの1番最初のページを開いた。
『交通事故に遭ったこと』
奇跡的に無事だった右手で書き殴って、紙が破れそうな勢いで消した。ノートの上に消しゴムを置くと、深呼吸をする。俺のためだけの楽しくて完璧な人生を壊すわけにはいかない。
――あれ、俺はどうしてこんなところにいるんだ。白い天井に白い壁に白い布団に……病院? 一体何故。俺の両足も動かない。なんで?
「母さん、俺の両足なんで動かないんだよ」
「骨折してるだけよ……きっとすぐに動くわ……」
「骨折? なんで!」
「なんでって……それは悠人が……」
訳が分からない。なんで両足骨折してるんだ。なんでこんなとこにいるんだ。理解できない。本当に分からない。俺の身に何があったんだ。
……もしかして。
もしかしてあの、消しゴムのせいなのか。消しゴムのせいで俺の両足は骨折して動かないのか? 完璧な人生を歩んできた俺が、なんでこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだ。
こうなったら、こいつ自体を消してしまおう。
俺はノートの上に置かれた消しゴムと、シャーペンを握りしめる。消しゴムがあった記憶さえ忘れてしまえば、二度とこんなことはないはずだ。
『記憶消しゴムのこと』
勿論、名残惜しい。俺が完璧な人生を歩めたのは、記憶消しゴムのお陰である。それなのにこいつの存在を忘れてしまうというのは、勿体ないように思えた。
だけど、俺の両足がこいつのせいだとしたら。途端に憎悪が湧き上がって、シャーペンを壁に投げつけた。消しゴムを折りそうになって、危うく止める。
ノートを破りそうになりながらも、俺は記憶消しゴムのことを消した。
「あれ。なんだ、この消しゴムは。……記憶消しゴム?」
記憶消しゴムのことを記憶から消しても、その消しゴムが前にある限り、再度興味は持ってしまうものです。
記憶消しゴムを捨てるか、落とすか、はたまた誰かに譲ってしまうか。とにかく目の前から失くしてしまわない限り、悠人は記憶消しゴムで、また素敵な人生という記憶を作りあげるでしょう。
そんなループ落ちです。




