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暁の夢路

作者: 六条藍



雨露あまつゆに濡れた瞳は、 月影つきかげに輝きて、 私を焦がし。 さらりと落ちる絹糸の如き――さて、 どう続けようか」

「また、 下手な詩でも送るつもりですか?」


 開け放たれた障子にもたれ掛かり、 まだ夜の色濃い空を気だるげに見上げながら朗々とうたう男の言葉に、 冷え冷えとした声が続いた。

 留紺色の源氏香に、 常盤緑の帯をだらしなく絞めた男がゆるりとした動作で振り返れば、 随分と愛想の無い顔で、 盆を掲げる使用人風の少女が一人。 上に載った湯冷ましが、 こつんと音を立てて男の横に置かれた。


「下手って……芙蓉ふよう、 お前ね」


 主人への言にしては、 随分と乱暴な口振りに男は苦笑交じりで笑う。

 一見して三十路ほどの男の顔に、 そうすると笑い皺が色濃く浮かんだ。

 良く、 笑う男であるのだ。 どのような時でも。

 ひっそりと柔和に細められた双眸の先、 まるで対局かのように人形の如き少女のかんばせが僅かに傾く。


「何か異論がございますか、 右京うきょう様」


 少女――芙蓉はそう言いながら、 長い睫毛に縁どられた瞳を真っ直ぐに彼女の主人を見つめ返す。

 鈴の音のような愛らしい声色も、 抑揚に欠ければ無機質に響く。

 右京、 と呼ばれた男は黙って肩をすくめた。


「そうは言ったって、 何か送らなければならないだろう?」


 一人寝にしては大きく、 二人で寝るにはやや幅の狭い布団の乱れ。 二つ並んだ枕と僅かに残る白粉おしろいの香。

 右京が床を共にした商売女は、 まだ夜も更けぬうちに出て行った――否、 出て行かせた。

 事の終わりに交す睦言の鬱陶しさを、 彼は心底、 いとうていたから。

 そんなつれない態度を詫びるかのように、 一夜限りの女に何かしらの贈り物をするのもまた右京の常であった。


「金銭でも上乗せした方が余程宜しいでしょう」


 右京の矛盾したような立ち振る舞いも何かしら彼の思うところがあるのだろうが、 芙蓉は其れを意にも介さない様子ですげなく両断する。


「また、 そんな愛想の無い」

「だって詩を貰ったところで、 腹が膨れるわけでも」


 お前は情緒がないね、 と芙蓉の言い様に右京は呆れたように首を横に振った。


「情緒がないのは右京様の方かと。 そんな詩句しか紡げないのは、 感性の問題かと」

「――一応、 私はお前の主人のはずなんだがね」


 随分生意気になったものだ、 とごちる右京は、 言葉の割に何処か楽しげそうにも見える。

 しかし芙蓉は額面通りに受け取ったらしい様子で、 何やら恐縮した風に頭を下げた。 その動作に相まって長い黒髪をさらりと芙蓉の横顔を覆う。 

 使用人としては日々の雑事を行うには甚だ不便であろうが、 この風貌は芙蓉の主たる右京の命であった。  鴉の濡れ羽の如き髪艶が扇のように広げ伏せたまま、 芙蓉は主に問うた。


「お気に障ったようでしたら、 お暇いたしますが」

「また極端な。 第一、 暇乞いとまごいしたところで、 お前、 あてはあるのかい?」


 意地悪く付け加えた右京の言葉に、 芙蓉は顔を上げ、 はてとうそぶく。

 先の振る舞いは戯れであったらしく、 右京も端からそうと了承していたのか別段慌てた素振りもない。


「お優しい右京様のことでございますから、 暇を出す前に、 わたくしの行く宛くらいはお世話くださるものかと」

「調子の良いことだ、 全く。 厭だよ、 そんな面倒は。 それにお前が居なくなったら、 私も新しく人を探さなければならないじゃないか」


 右京はうんざりしたように言った。


「人を雇うというのは面倒なんだよ。 身元やら仕事ぶりやら何やら、 色々と調べなければいけないからね」

「わたくしの時は即決即断でらしたと記憶しておりますが」

「それはお前、 芙蓉には調べる身元もなかっただろう?」


 芙蓉、 という名を少女に与えたのは右京であった。

 異人との間に生まれたらしい少女は、 年端もいかぬころに捨てられた。

 射干玉ぬばたまの黒髪に、 翠玉の瞳。 この国の人間らしい顔立ちと、 そうらしからぬ白皙の肌。

 そんな少女を右京は奇特にも使用人として取り立てた――周囲の反対を跳ね除けて、 蔑みから守るように生家より離れた地に居を構えてまで。

 そうまでして少女を己の側に置かんとした右京の心内を知る者は少なく、 芙蓉とてそれを完全にかいしているわけではない。


「右京様に拾われて十四年と少し。 助けられたのはわたくしばかりと思っておりましたが、 よもや右京様の御身をお助け出来ていたとは」


 さりとて由縁はどうであれ、 事実は事実。

 些か大仰過ぎる物言いで頭を下げた芙蓉に、 右京が厭そうに顔をしかめた。


「意地の悪い子だね。 此れだから嫁の貰い手もない」

「貰うことの出来ない主人に似てしまいましたから」


 間髪入れずに答えた芙蓉に右京が喉の奥で笑った。

 そうしているうちに大分低くなってきた月が地上近くの雲に隠れ、 右京の表情に一時の陰が差す。

 煙管きせるでも、 と右京が呟くや否や、 芙蓉は予め分かっていたかのように漆塗りの煙管盆を差し出した。

 慣れた仕草で火皿ひざらに刻み煙草を詰め、 火入れ盆は使わずに芙蓉のつけたマッチにて遠火で火をつける。

 くゆらせた煙が上るのを、 眺める右京がそのままぽつりと零す。


「辛辣な口振りだ――虫の居所でも悪いのかい?」


 芙蓉が沈黙を守れば、 右京は視線を彼女の方に移す。

 人形のような面差しには一見感情の色薄く、 けれど右京は常人に読み取れぬ其れを正しく理解したようだった。

 主の視線からつい、 と顔を背けた芙蓉が言う。

 

「見知らぬ人間は、 あまり」

「別にそう珍しいことでもあるまいに。 今日は一際、 機嫌が悪い」


 何があった、 と穏やかに問いかける右京の顔には、 詰まらぬ言い訳は許さぬと。

 ならば何も語るまいと言うように視線を逸らし続ける芙蓉を咎めるように、 彼が 「芙蓉」 と少女を呼ぶ。


「――お耳に入れるにも値しない詰まらぬ、 ことですので」

「それを決めるのは私だよ」


 どうした、 とさらに重ねた右京を見やって、 芙蓉はしぶしぶと言った様子で紅を塗った唇からか細い言葉を押し出した。


「今宵いらした女性は――笑いましたので」

「笑う?」

「わたくしを見て」


 帰り際、 玄関先で客人を見送る芙蓉。

 一見はただの愛想のようで、 けれどそこから滲む優越じみた色合いが芙蓉の心を黒く汚したようだった。

 求められた女と、 求められない女。

 あからさまな差異は、 残酷な上下を二人の間に生み出したのだと。

 芙蓉のただ一言から、 大方を悟った風に右京は頷く。


「それならもう、 あの女性を呼ぶのは止めようか」

「いえお気に召したのならば。 主人は右京様ですので」

「ならば尚のこと」


 ただ一夜限りの情など捨ておいたところで、 と続ける右京に、 芙蓉が何も言わずにこうべを垂れれば、 黒髪が揺れる。 その艶やか輝きに手を伸ばした右京は、 ひと房毛先を取って指を絡めた。

 何も言わず、 ただ主人のなすがままを芙蓉は受け入れる。

 絡めては解き、 絡めては解きを繰り返し、 右京がそっと唇を寄せたとき、 芙蓉の睫毛が僅かに揺らいだ。


「女性というのは、 良く分からないものだ――お前の方が余程、 美しいのに。 一夜の情が全てを覆すとでも?」

「……愛でられぬ花は、 朽ちゆくだけと存じますれば」

「一目見て、 お前を愛でずにいられる者がいるはずもない」


 そのような者、 決して――と、 睦言のような密やかさで重ねた言葉と共に、 右京は己が指に絡めとった絹糸に口付ける。

 諾々(だくだく)と其れを受け入れていた芙蓉は、 指先が離れるその際までぴたりとも動かぬまま。 右京の手が、 彼の立てた片膝に戻ったのを見とどめてから、 濡れた双眸を向けた。


「それならば、 どうして」

「どうして?」


 先の言葉に詰まる芙蓉の言、 右京が穏やかに問い返す。

 言えるわけもない。 使用人の、 女性の、 どの立場であっても。

 芙蓉が沈黙すれば、 右京もまた同じくして。

 暫く静寂のみが闊歩する空間を夜風がよぎる。

 双方微動だにせず。 ただ通り抜けていくものが甘い花の匂いを残した。

 良い香りだ、 と呟いたのは右京であった。


「芙蓉」

「――はい」

「花が変われば愛で方も変わるもの――そう、 心得ておくといい」


 下がりなさい、 と命じた右京の其れは、 絶対的な否のように響いて、 芙蓉は向けた横顔に悲哀を滲ませた。

 既に芙蓉を視界の外に置いた右京に、 けれどそれ以上言い募ることも出来ない様子で、 暫しの逡巡ののち、 彼女は静かに場を辞した。

 かたん、 と襖を閉める音と共に芙蓉の気配が一室から遠ざかる。

 宝玉の如き瞳を潤ませて、 花弁のような唇で嗚咽を堪えるその様を認める者はいまい。

 しかしながら、 かの少女の主人は其れすらも分かっているかのように、 沈鬱な面持ちでまだ明けぬ空を見上げた。



***


 ただ一人、 右京のみが残った部屋で只管続いていた寂寞せきばくの合間に、 煙管の灰が落とされる音がした。

 長いこと物思いに耽っていたのだろう。 濃紺の空は徐々に薄まりつつあり、 夜の帳を上げようとしていた。

 そんな暁にのぞむ男は、 やがてゆっくりと口を開いた。


「雨露に濡れた翠玉・・は、 月影に輝きて、 私を焦がし。 さらりと落ちる絹糸の如き黒髪に絡む指先の劣情を汝は知らぬ――知らぬ、 ままで良い」


 かの少女は知らぬ。

 己が主が詠う詩句の意味を。 送られる相手こそ違えど、 真に言葉を向けているのは少女自身であると。

 かの少女は知らぬ。

 触れて愛でることまかり通らぬと、 自身にかした男の真意を。



 右京はやがて静かに身体を横たえる。

 その頭を丁度芙蓉のしていた辺りに置いて、 僅かに残る熱を縁に――せめて、 暁の夢路でと願う。

続編があるかもしれないし、 ないかもしれない。

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