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「おい、これ何だ?」
「……はい、なんでしょうか」
部長の言葉に佐和は自分の席から立ち上がって、部長の席の横に立ちなおした。
部長が手に持っている書類は三日前に頼まれていた書類だ。
「どこが違うと思う?」
渡されてもわからない。そもそも大丈夫だと思って出しているのだから。
「……わかりません」
佐和の返事に課長がわざとらしく溜息をついた。その音がやけに脳裏に響く。
「ここ、こんな状態で取引先に渡して良いと思ってるのか。見られる書類だって意識が欠けてるんじゃないか」
「……すみません」
部長が指した所は間違っているわけではない。だが、言われてみれば体裁の良い状態ではなかった。
「直してきます」
「おい、家族を心配するのはわかるが、仕事は仕事できちんとやれ」
席に戻ろうとした佐和にかけられたその言葉に頭が沸騰したかと思った。
「……はい」
心にも無いことを答えながら、体の中は荒れ狂っていた。
海音が行方不明になってから今日で五日目。始めは会社を欠席していた佐和だったが、もう休むわけにはいかず、仕方なく出社してきた結果がこれだ。
それはそれ、これはこれ?
どこの世界に家族が行方不明になって平気な面して仕事できる人間がいるんだ。
それは人間じゃない。人の形をしただけの化け物だ。
自分の席に戻り、怒りに震える身体を懸命に抑え込む。
今、あのバカに何を怒鳴ったって変わらない。職を失うだけだ。海音が返ってくるわけでもない。それでも理不尽な言われに目頭が熱くなった。
パソコンで作業をするフリをしながら、佐和の頭の中は止めようとしても止まらない想いでぐちゃぐちゃになっていた。
もしも犯罪に巻き込まれていたら、もしも悪漢に襲われていたら。あらゆる心配がぐるぐる廻る。
そして、最悪な事態をひとしきり考えて、考えて、不安になるだけなったら芽生えてくるのは違う考え。
海音を心配するたびに蘇る彼の言葉。
彼が好きな人に告白すると決めた日。一緒にいたのは海音だった。
そこから、導き出される答えは一つ。
―――彼の好きな人は海音だったんだ。
その結論に至ると、途端にぐるぐると違う考えが佐和の中をめぐり始める。
返事は聞いたのか。
海音はどう答えたのか。
そもそも、海音は無事なのか。
また考えが振り出しに戻る。
海音がいなくなってからの五日間、ずっと付きまとう嫌な考えを振り払うために、佐和は無心でキーボードを叩いた。
***
それから更に一週間が経っても海音の行方はわからなかった。
毎日ニュースでは海音の顔写真が流れ、手がかりを求めるようにニュースキャスターが告げてくれていた。
それにもかかわらず、有力な情報は何一つ入ってこなかった。
その間大学時代の友達も、高校時代の友人もみんな佐和の所に交互に連絡をくれるようになっていた。
「佐和は大丈夫?」
「ご飯食べてる?」
多くはない友人は、それだけ佐和のことを本当に思ってくれている。
決して海音のことには触れない。けれど、佐和を案じてくれていることのわかるメールをもらうたび涙が溢れた。
私は大丈夫なの。
でも、今頃海音がどんな目に合ってるか、想像するのも怖い。
いつだって笑い声に溢れていた家族もすっかり変わった。
母親は佐和の家に付きっきりになり、一日中頭を抱えて座っているだけになった。
仕事から帰るとそんな母親を無理矢理寝かしつけた後、母親と全く同じ格好で頭を抱えながら電気を落とした部屋で一人佐和は座り込むようになった。
仕事の合間を縫って来てくれる父親も顔色は悪い。
以前ならいつだって笑い声が溢れていた彼らが笑い声をあげることはなくなった。
うちの中心はいつだって海音で。
ちょっと抜けた所のあるあの子が、何かやらかす度に笑い声が溢れる。それが日常だったのに。
佐和は暗闇の中で、机の上に置いておいた携帯を取った。
携帯には何も届いていない。
液晶の不思議な明るさを見つめながら、佐和は彼のお母さんからの電話を思い出していた。
彼もまた佐和の両親と同じように衰弱していると彼のお母さんから連絡があったのは海音が行方不明になってから三日後のことだった。「責任を感じている」と。
あの日、海音と二人で出かけた彼は海音を玄関まで送り届けたという。ただ海音が家に入る前に自分は帰り、海音は彼を見送って手を振っていたと、彼が警察に話しているのを聞いた。
その後、海音は行方不明になった。
海音が家の玄関を開けるそのわずかな時間で何かが起こったのか。それとも海音がそれからどこかへ行ったのかもわかっていない。
それに。
それに、告白の結果もわからない。
それどころじゃないことはわかっている。けれど、あの日からずっと海音を心配するたびに影のようにそのことが頭をちらつく。
彼は海音に思いを伝えたんだろうか。海音はそれを受けたんだろうか。そして、もしも受けたのだとしたら、彼の苦しみは。海音の苦しみはどれだけ深いんだろう。
ふと、目線の先に机の上に置いてあった本が飛び込んできた。あの日、借りてきた恋愛小説。
「私は……」
近寄ってその本を胸に抱えた途端、嗚咽が零れた。
「こんな非日常を望んだんじゃない……!」
確かに海音は物語の主人公向きかもしれない。だけど、神様。
何もこんな物語の主役にしなくていいじゃないか。
自分の中にこんな醜い感情があるなんて知りたくなかった。
大好きな人の大好きな人が自分が大好きな身内だなんて。
そして、その身内がいなくなるなんて。
海音を心配する気持ちと同じぐらい。言葉にできない黒い感情がぐるぐると自分の中を巡っているのがわかる。
海音に消えろと思ってるわけじゃない。死んじゃえばいいなんてそんなこと絶対に思わない。
けれど、きっと以前と同じようには海音の帰還を素直に喜べない自分は、なんて罪深いんだろう。