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アーサーが生まれてすぐ、イグレーヌ王妃が魔術師に呪をかけられた。
そのことで城内は蜂の巣をつついたような状態となり、とても王子を育てられるような状況ではなかったのだと、ケイは語りだした。
「そこでお鉢が回ってきたのが俺の家だったんだ」
混乱を極める城内で王子を育てることは難しい。さらにイグレーヌ王妃もとても子育てができるような状態ではなかった。
そこでアーサーは当時、ウーサー王の最も腹心の騎士だったエクター卿つまりケイの父親に預けられることになった。
ケイの母親は預かったアーサーを実の息子のケイと同等に可愛がり、愛情を注いで育てたと言う。
「ま、アーサーが生まれた当時、俺は三つか四つかぐらいだから、何にも覚えてないんだけどな。だからアーサーは俺にとっては王子っていうより、単なる弟だったんだ」
その後も、アーサーはケイの家ですくすくと育った。特に特筆すべきこともなく、アーサーはエクター家の愛情を一身に受けて成長した。
「あいつはどこにでもいるような子供だったよ。ちょっと、やんちゃだったけどな。よく俺とアーサーで色々やらかして親父に絞られたっけか」
遠い過去を思い出しているケイの表情は優しい。
青空の下、エクター卿とその奥さん、そしてケイに見守られて元気に走り回る小さいアーサーの姿が目に浮かぶ。
「イグレーヌ王妃も大変だったけれど、それだけじゃなくて、ウーサー王も魔術師への復讐に燃えていて、とてもアーサーを戻せるような状況じゃなかった。あいつが城に帰れたのはあいつが、十歳になった時だった。そして、あいつが城に戻る前日の夜、俺は夜中にこっそりアーサーにたたき起こされたんだ」
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「おい、ばれたら親父にまた絞られるぞ……わかってるのか?」
「わかってるって。だから、こうやってばれないようにしてるんだろ」
暗くなった屋敷内を先行するアーサーからは楽しさがにじみ出ていた。
抑えきれない興奮が眩しくて、ケイは呆れながらもわくわくする自分を感じていた。
「何か用事があるんだったら、昼間に済ませればよかったのに、なんでわざわざ夜に屋敷を抜け出すんだ?」
「いいから!黙ってついて来いよ。良い物見せてやる」
さっきからアーサーはそれを繰り返すばかりで、何が良い物なのか全く教えてくれない。
始めはそれが不満だったのに。
今は何が飛び出して来るのかという期待の方が上回っている。
屋敷をこっそり抜け出したケイたちは裏手にある小高い崖に向かった。
エクター家の屋敷は崖の下に立っている。屋敷から崖に登ることはできるが、反対側からこの崖に登るのは勾配が急すぎてできない。守りに向いた土地柄だった。
「なー。こんな崖に何があるんだよ?いつも遊んでる所だろ」
「今見なきゃ見えないんだよ!」
声を抑える必要がなくなったアーサーは、はしゃぎながら先を駆け上っていく。ケイも負けじとアーサーを追いかけて崖を昇った。
今日は新月のせいであたりはかなり暗い。崖の頂上は普段アーサーとケイの遊び場所になっているが、暗い林のせいで、まるで未知の場所へ進んで行くような感覚に陥った。
遠ざかるアーサーの背を見失わないように昇っている内に、気付けば頂上に着いていた。
少しだけ明るくなった視界に近くの木が飛び込んでくる。木には父親がアーサーのために作ったブランコがぶら下がっていて、風に穏やかに揺れていた。
アーサーはケイに構わずぐんぐんと崖の先の方まで走っていく。元気に飛び回るアーサーの背中を見たケイは、明日から使い主のいなくなるブランコを見つめた。
「おい、早くしろって」
「だから、なんだよ。こっから見えるのなんて、森ぐらいだろ……」
そこまで言って、崖の先端に近づいたケイは、自分の視界に飛び込んできた光景に息を飲んだ。
「なんだ……これ……すげえ……」
そこに見えていたのはいつも見ていた自分の家の領地ではなかった。
まるで足元が真っ暗な海になったようだ。
何も見えない漆黒が揺れていて、そして、その波間で優しい橙の光が輝いている。
夜空が落ちてきたのかと思って、焦って見上げてみれば、下の真っ黒な空よりも青い夜空が広がっていて、そこには白や赤、色とりどりの星が瞬いている。
「空が二つある……」
「な!すごいだろ!!」
得意げに言い放ったアーサーは崖の淵に腰を下ろすと、足をぶらぶらさせて自慢げに、夜空に見とれるケイの顔を見つめた。
「今日じゃなきゃ、見れないんだ。今日は新月だからな」
いつの間にこんな景色を見つけていたのだろう。
ケイは景色をしっかり瞼に焼付けようと、しばらく無言で立ち尽くした。
今まで見知っていたはずの土地が全く見たことのない未開の地になったような錯覚を覚える。
昼間見れば、ただうっそうと木が蔽い繁っているだけの景色が今は神秘的に見えた。
「…あの、星みたいのはなんなんだ……」
「あれ、民家の灯りだ」
こともなげに答えたアーサーの横にケイは腰を下ろすと、拳を握って反論した。
「民家なんてここから見えないだろ」
「昼間はな。夜は見えるんだよ。灯りが。キレイだろ?」
「……全然、気付かなかった……」
ケイの反応に満足したアーサーも静かに景色を見た。その横でケイも静かにこの真っ暗い空と海を堪能した。
どれくらいそうしていただろう。
しばらくして、アーサーが静かに口火を切った。
「……帰る前に、見せたかったんだ……」
「……お前、一体いつこんなの見つけてたんだよ。さては俺に内緒で夜、一人で冒険してたな?」
ケイがにやりと共犯者の笑みを浮かべると、アーサーも笑った。
「……緊張してるのか?」
城に戻ることになったと聞いてからもアーサーの様子は何も変わらなかった。
けど、何も感じてないはずがないとずっと思っていた。
記憶もない、本来自分がいるべき場所に帰るというのはどんな気持ちなのだろう。
「緊張っていうよりは……そうだな……こう……やってやるぞ!っていうか。遂に!っていうか……わくわくするっていうか……うまく言えないけど、たぶん。この景色見た時と似てる気持ちかもしれない」
「そっか……」
この景色を見た時、すごいと思った。
けど、同時に深い闇に飲まれてしまいそうな、すこし怖い気もした。
ただ、単にきれいな景色をケイに見せたかっただけではなく、きっと言葉にできない気持ちを伝えたかったのだろう。
ケイも余計な事は言わず、ただ頷いた。
「王宮ってさ……ちちうえ……エクター卿にはどんなとこか聞いてるけど。想像つかないし。わくわくもするけど、ちょっと怖い」
「そうだよな……」
弱冠十歳でもうこの国を背負うことが決まっているのだ。そのために今まで厳しい教育も受けてきた。
王の子だからということで自分の父親はアーサーを甘やかしたりはしなかった。
ケイと同じように厳しくアーサーに教育を施し、王として、貴族として、騎士としてなんたるかを問い続けてきた。だから、アーサー自身も王子として自分が果たすべきことはわかっているだろうし、それを放棄しようなどとは考えてもいないだろう。
父親がアーサーに許した唯一の甘えは自分を「ちちうえ」と呼ぶことだけだ。それも城に戻ることが決まってからは禁止している。
それを忠実に守ろうとするアーサーはすでに王子としてちゃんとしているとケイには思える。
それでも、彼はたった十歳の少年なのだ。この暗闇のように、未知の王宮が怖く見えても仕方ない。
「……でもさ、ケイ。俺は良い王様になりたい」
「……アーサー?」
自分よりも小さい手をアーサーはしっかりと握りしめると、両手を静かに見つめた。
「エクター卿に色々教わって、暮らしている中で、土地や人を統治することはたくさん大変なことがあるってわかってる。でも」
アーサーは立ち上がると前方の暗闇を見据えた。
「でも、この景色を見ると思うんだ。この暗闇は怖くて真っ暗だけど、小さい灯りが灯ってる。それを見ると俺も頑張ろうって思えるんだ。あの優しい光の下で、民は色々な事情や想いを抱えながら、それでも懸命に今日を生きてる。俺がその灯りに勇気づけられたように、今度は俺が誰かの光になりたいんだ」
アーサーは拳を握りしめ、暗闇に向かって堂々と立っている。
ほのかな星明りに照らされたアーサーのまぶしい横顔に目がくらんだ気がした。
「一つ一つの灯りは敵対してるかもしれない。味方かもしれない。でも、皆一生懸命生きてることに変わりはないんだ。ここから見た灯りに違いがないみたいに。皆幸せになりたいだけだよな。そしたら、俺はその幸せを守りたいんだ。エクター卿や母う……アテナ様、ケイが俺に教えてくれたことで」
この景色を見て、ケイは同じことが思えるだろうか。
そう自問自答して、すぐに無理だと悟った。
自分はただ景色に感動するだけだ。灯りのことも不思議には思えども、家の灯りだと聞けばそれで終わる。そこに暮らす人間にまで思いを馳せたりはしない。
世の中の人間はきっと皆そうだ。
アーサーの言う通り、人々は懸命に今日を生き抜いている。戦争と飢餓が渦巻くこの世界で、明日も知れぬ身で、そこに他人を思いやる余裕など存在しない。
でも、ケイにだってわかっているのだ。争いが起こるから飢餓が起こる。飢餓が起こるから争いが起こる。二つは密接にからまっていて、両方を解決しない限り、世界は変わらない。
しかし、自分の領地ですら思うようにいかない領主が大勢いる中で、国がうまく行くわけがない。たとえ上手くいっているように感じたとしても、それは一部の人間だけが感じる感覚で、立ち場が違えば幸せは異なる。
アーサーが望むような皆の幸せなんて絵空事だ。それでも。
それでも……お前が眩しいよ。
誰もやらなければ、世界は、国は、人は、民は苦しくなっていくだけだ。
例え解決しなくても、誰か一人でも多くの人を幸せにしようとするアーサーの決意はなんて重いのだろう。
でも、土地や財産や名誉や権力じゃない。あの灯りの下に生きているのも同じ血の通った人間なのだと理解している王が創る世界はきっと――――今よりも優しいはずだ。
「……アーサー、剣を貸してくれ」
「いいけど……なんでだ?」
不思議そうにアーサーが抜いた剣を受け取ったケイは、刃を持ち、自身の胸に切っ先を向けた。
「ケイ?」
「アーサー殿下」
アーサーに跪いたケイは未来の王に首を垂れた。
「俺は来年、騎士学校に入学します。そして必ず―――殿下の理想を支える騎士になってみせます。だからその時は―――どうか私を殿下の騎士に」
呆気にとられていたアーサーもケイの決意を感じ取ったのか、向けられた剣の柄を握ると、ケイの両肩に一回ずつ当てた。正式な騎士の叙勲式での所作だった。
今はアーサーはまだ王子ではないから騎士任命権はない。でも、それでも良かった。
「―――待ってるぞ。ケイ」
新月の暗闇の中でもアーサーのブロンドの髪が輝く。
小さな灯りを背にした未来の王の堂々たる姿に、ケイの中の考えが確信に変わった。
いつか。いつかアーサーは、この国を新しい時代に導く王になるだろう。
自分はその王に仕える栄誉を手に入れられる人間なのだ。
―――必ずこの王の力になる。
ケイは目の前にいる自分が生涯を捧げる王と、この景色に震える胸の中で、誓いを立てた。