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なんだか心地いい涼しい風が吹いている。こっちの季節は佐和のいた世界とは違う春の陽気だった。ちょうどいいぐらいの涼しい風だ。
マーリンが窓でも開けてくれたのかな。
深い眠りから浅い眠りへ意識が浮上し、微睡の中で気持ちよく寝返りをうった。
ああ、やっぱり窓が開いてる。
月明かりの差し込む窓が開け放たれていて、そこから風がそよいでいるんだと思った佐和はもう一度目を閉じようとして、覚醒した。
「――――マ」
「しっ」
マーリンと叫ぼうとした口を手でふさがれる。開け放たれた窓の前に男が立っていたのだ。
その男は佐和が声を上げるより早く佐和に駆け寄ると、佐和の口と動きを封じた。
「んん!!」
なんとか暴れようと試みるけど男の腕はびくともしない。混乱する頭でとにかくがむしゃらに動き回りながら頭の中でサイレンが鳴り響いた。
やばい。これはやばい。いくらなんでも夜中に女が襲われるなんて。
ぞっと背中に冷や汗が流れだし、佐和はそこで初めて自分の動きを封じ込めた相手を見て息を飲んだ。
「さっきぶりー。俺のこと、覚えてる?」
見上げた先でささやいたのはさっき酒場で佐和に絡んできた胡散臭い男だ。
人にのしかかり女を襲っているとは思えないほど余裕の笑顔で佐和を見下ろしている。
「ごめんねー、君に恨みはないんだけど、ちょっと協力してね」
「んー!!」
そのまま抵抗するまもなく、さるぐつわをされ、手も縛りあげられる。そして、男は佐和を抱き上げると窓に向かって歩いていく。
視界にソファで寝ているマーリンの背中が飛び込んできた。
「んーんん!!」
気付いてマーリン!!お願い!!
男が窓枠に足をかけ、外に出ようとした瞬間、
「……サワ……?サワ!!」
寝ぼけた声から、状況を把握し、マーリンが飛び起きる音がした。その音に振り返った男はわざとらしい溜息をついた。
「あーあ、起きちゃったよ。悪いねえー。ちょっくらお姫様借りてくよ」
「サワを放せ!!」
「あははは、いやー、定番のセリフだー。だけど無理。じゃ!」
嘘でしょ!?
男は佐和を抱えたまま窓から勢いよく飛び出した。
ここ二階!!
佐和はあまりの怖さに目をつむった。
「よっ」
身体に衝撃を感じたが思ったほどではない。恐る恐る薄目を開けると、男は一階の突き出た屋根の部分に飛び移り、そこから地面にジャンプして降りた。
「じゃねー」
二階の窓から身を乗り出しているマーリンにウィンクした男は佐和を肩に担ぎなおすとそのまま駆け出した。人を担いでいるとは思えないほど男の足取りはしっかりしているし、速い。
あっというまにマーリンの姿が遠ざかる。信じられない身軽さだ。
「んんんん!!」
「サワ!!」
マーリンの声が遠ざかっていく。一本角を曲がるともう姿も見えなくなった。
「んんん!!んんんん!!」
懸命に足をばたつかせ抵抗するけど、男は愉快そうにしているだけで、一向に足は止まらない。
とにかく道だけでも覚えようと周りを見渡してみると、さっきまでいた街の様子がどんどんと変わっていくのがわかった。
何、ここ……?
木造の建物が進めば進むほどぼろくなっていく。軒先に干された洗濯物もぼろぼろになった布ばかり。そして辺りは異常な静けさにも包まれていた。
「おっと、ここだー」
男は一本の路地裏に入ると佐和を丁寧に地面に下ろした。
「手荒くてごめんなー」
そう言いながら男は佐和のさるぐつわを外しはじめる。
さるぐつわが外れた瞬間、佐和は大きく息を吸った。
「きゃあああああああああ!!!!!!!助けてえええええええ!!!!!!ちかんんん!!!!!!!!!!」
「ちょ!!」
辺りに自分の声が響き渡る。
目の前の男は唖然として佐和を見ていたが、やがて口元を押さえて笑い出した。
「よりにもよって痴漢って……」
「変わんないでしょ!!」
いきなり部屋に忍び込んで女を攫う相手を痴漢といって何が悪い。
佐和は男を精一杯睨みつけてやった。
「早く逃げた方がいいんじゃない?人が来る前に」
「んー、残念だけど、来ないと思うぞー。ほら、人の来る気配なんてないだろ?」
余裕綽々の男の言葉に佐和は驚愕したまま動けなくなった。
確かに、あれだけの大声で叫んだにもかかわらず誰かが駆け寄ってくる気配はみじんもない。
「何で……」
「まあ、ここはいわゆる貧民街って所だからなー。悲鳴なんて日常茶飯事。いちいち関わってたら自分の身が危ないっつーこと」
「そんな……」
佐和の叫び声の残響ももう聞こえないほど辺りは静まりかえっている。男の話は本当のようだった。
「ま、身の安全は保障できないけど、うまくいったらお礼もするし、許してな」
「なんのことを言って」
「おい、カイ。そいつが例の商品か?」
佐和を攫ってきた男とは反対側から何人ものガラの悪い男たちが現れた。どの男たちもいやらしい目つきで地面に座り込む佐和を見下ろしている。
「ええ、そうですよー。いかがです?異国の娘。それも若い!」
「まあまあだな」
「またまたー」
何、これ。
混乱する頭でなんとか冷静になろうと思いながら、佐和は頭上で交わされる会話を交互に見た。
「高く売れますでしょ?」
「ふん。まあ、いいだろう」
売れる。商品。異国の娘。並べられた単語から推察できる事実は一つ。
こいつら、もしかしてお店の人が話してた奴隷商人!?
なんで、どうして。私を。
別段、目を引くほどの美人でもないし、どちらかといえば顔のレベルはクラスにごろごろいるぐらいだ。それなのにどうしてこんなことに巻き込まれてしまうのか。
「じゃ、交渉成立ってことで。おたくのボスに取り次いでくれよ」
「いいだろう」
逃げなきゃ。そう思うのに足が震えて立ち上がれない。手は縛られたままだし、こんな人数を振り切って逃げるなんて芸当絶対に無理だ。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「おい、立て」
なんで、そりゃ、冒険譚は好きですけど、ネット小説なんかでもこんなピンチは定番イベントですけど!でも、こんな冒険は勘弁被る!!
ああ、こんな時、運命の相手が助けに来てくれるのが定石かもしれない。だけど、きっと自分にそんな幸運は存在しない。
運命の王子様とか、贅沢は言わないからお願いマーリン、助けに来てえええ。
混乱したまま乱暴に男たちに立たされたその時、複数いた男たちの後ろから悲鳴が聞こえてきた。
「なんだ!?」
「おい!何があった!?」
まさかの、マーリンか王子様登場!?ご都合主義展開!?
男たちの人垣が割れ、まだ余計なことをごちゃごちゃ考えていた佐和の目に飛び込んできたのは男たちの一部が地面に倒れていて、その上で野犬が三匹唸っている光景だった。
凶悪な顔つきで唸る野犬は男たちに真っ赤な目を向けている。
「くそ!!犬畜生が!!」
残った男たちがおもむろに隠し持っていた武器を抜いた。そのまま野犬に振りかざすと、野犬は三匹バラバラに駆け出し、男たちの攻撃を華麗に避けながら、男たちの腕や足にかみつく。
「いてええ!!」
「くそお!!」
野犬にひるんだ男たちが一斉に逃げ出した。逃げ出す男たちは佐和を通り過ぎて走り去って行く。
そうなると狂暴な野犬と佐和の間を隔てる物が何もなくなり、その凶悪さがまざまざと視界に飛び込んできた。
やばい。どうしよう。
男たちに無理矢理立たされたおかげでかろうじて立ててはいるものの、とても走れそうにない。膝が笑って野犬をただ震えて見つめるだけだ。
嘘でしょ。助かったのはありがたいけど、救世主が野犬なんて、冗談きつい。
絶対かまれたら痛い。ていうか狂犬病とか。ワクチンなんて絶対ないし。
思考がどうでもいいことを現実逃避で考え出す。そんな佐和を見た野犬は三匹同時に佐和に向かって駆け出してきた。
「きゃああ!!」
噛まれる!と立ち竦んだ佐和には目もくれず、野犬は佐和の後ろに向かって突進した。
「え?」
「ちょ……!!タンマタンマ!」
野犬たちは佐和には襲い掛からず、佐和の背後にいた佐和を攫った男を路地の壁際に囲んで追いつめている。今にも跳びかかりそうな殺気を放ち、男に唸っていた。
「サワ!!」
男たちが逃げて行った方向からマーリンが息を切らして駆け寄ってくる。
その姿を見た途端、体の力が抜けた佐和はその場にへたりこんだ。
「マーリン……」
「大丈夫!?怪我は!?」
「……ない。ありがと……」
マーリンは膝をつくと佐和の両肩をがしっとつかんで体のあちこちを見てくれている。安心したせいで一気に力が抜けてしまった。
「おー、ナイト登場だー」
野犬に囲まれるという非常事態にも関わらずあいかわらず男はのんびりと構えている。佐和を背中に庇ったマーリンは立ち上がると男を睨みつけた。
「お前、一体何なんだ?なぜサワを狙う?」
「んー、いや別にその子じゃなきゃいけない必然的な理由はないんだけどー」
頭をぽりぽり掻きながら答える男の態度に業をにやしたマーリンの殺気が一層増すのが佐和にもわかった。
「ま、今日の所は退散するよー」
「逃げられると思うのか」
男の周りは牙をむき出す野犬だらけだ。逃げられるわけがない。
「ま、ねー」
そう軽く男が返事をした瞬間、三匹の野犬が真っ二つになった。
「な!!」
絶句する佐和とマーリンの前で男は腰の鞘に剣を収めると軽やかな足取りで、傍の木箱に飛び移り、そこから民家の屋根に登った。
「じゃあね、サワちゃんー。またねー」
男は佐和に向かって手を振ると屋根伝いに走り去っていった。
すぐにその姿は闇夜に紛れて見えなくなる。
「な、何、今の……」
切られた野犬はまるで黒い霧のように霧散すると辺りにまた静けさが蘇ってきた。
「今のって犬ってマーリンの術?」
「ああ」
誰もいなくなったことを確認したマーリンは懐のローブから小さい杖を取り出し大きく戻すと、佐和の手にあった縄に当てた。するすると見る間に縄が解けていく。
「ありがと」
「悪い。すぐに助けられれば……」
申し訳なさそうに目を伏せるマーリンの目は佐和の手首に向けられている。抵抗したせいかちょっと手首に赤いあざができていた。
「しょうがないよ。マーリンが魔法を使うとこ、見られちゃうわけにいかないし」
だから宿で佐和が攫われた時、マーリンは何もできなかったのだろう。
もしも魔法使いだとわかれば相手がどんな極悪人だろうと処刑されるのはマーリンの方になってしまう。野犬の幻術で佐和を助け出したのも同じ理由だということぐらいは佐和にもわかる。
「でも何だったんだろうね……さっきの」
起きた事象を整理しようと話し始めた佐和の頬にそっとマーリンが手を伸ばしてきた。そこで初めて自分がぽろぽろ涙を流していることに気付いた。
「え……あ……気付かなかった。ごめ……安心して……」
ごしごし目をこするがなかなか止まらない。
いきなりの展開で本当は泣き叫びたいくらい怖かったし、混乱した。
こんなの元の世界にいた時には絶対に会わない目だった。びっくりしてわけがわからなくなった。
マーリンが助けに来てくれた途端、ほっとして気が緩んだ。
「……ごめん」
「なんで、マーリンが謝るの?もう」
思わず笑ってしまい涙がひっこんだ。
佐和がマーリンに笑いかけるとようやくマーリンもほっとしたようだった。
「とりあえず、宿に戻ろう」
「うん」
立ち上がったマーリンが佐和に向かって手を差し伸べてくれる。その手を取って立ち上がった佐和はゆっくりと歩き出した。




