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出発の朝、佐和にいつも通り起こされ、朝食を給仕してもらい食事を取り終えたアーサーは佐和に手伝ってもらって武装を終えた。
こいつも……もう手慣れたものだな。
他の国から来たせいか、初めは鎧の着せ方も全くわからず、マーリンと二人でアーサーを取り囲み、四苦八苦していたサワの姿が懐かしい。今ではすっかり一人で完璧に仕上げてくる。
ある意味、可愛げが無いがな……。
まぁ、サワにその手のものは期待していない。しかし、それを口にすれば、また小うるさくぴぃぴぃ喚くだろうと思うと、からかいたい気持ちに駆られる。
案の定、脱いだアーサーの服を片付けていた佐和に言ってみたところ、アーサーに対してサワは期待通りぎゃあぎゃあ喚き、怒りながら食事の後片付けを持って部屋を出て行った。
今日がついに出陣ということで緊張していればまだ可愛げもあるのだが、サワの顔色は伺いにくい。緊張しているのか、いないのかよくわからなかった。
「そういうところも可愛げが無いな」
アーサーはテーブルに置いた聖剣を撫でながら先ほどのサワの様子を思い出していた。
可笑しくて思わず小さく声を漏らしてしまう。
そのタイミングで部屋の扉を誰かが叩いた。サワならばノックなしで戻って来るはずなので客人だ。
このような日の朝に……?
不思議に思いながらも従者は今、一人もいない。アーサーは扉に向かって問いかけた。
「誰だ?」
「殿下、おはようございます。アテナでございます」
意外な人物の声に驚きながら、アーサーが入室を許可すると本当に部屋に入って来たのはアテナ1人だった。
アーサーの私室には基本的にアーサーの騎士、従者、例外としてエクター卿、ボードウィン卿、急ぎの伝令以外の立ち入りを禁じているが、この貴婦人にそういった『無駄』な制度は通用しない。
アテナの格好は訓練に明け暮れていた昨日までのパンツスタイルではなく、普段着のドレスだ。落ち着いたベージュに水色の刺繍が入ったドレスを着ている彼女は、本当に普通の貴族女性にしか見えない。
「アテナ様、おはようございます。どうかしましたか?」
アーサーに面会するのであれば、本来乳母であるアテナですら手続きが必要となる。今は緊急事態ということでそれらの手続きは省くよう厳命しているが、未だに慣習に捕らわれる者は多い。しかし、彼女はそういった事を昔から煩う所がある。だから直接アーサーの元にやって来たのだろうが、解せないのは出陣当日というこのタイミングで訪ねて来た事だ。
何か……大事な話があるに違いない。
「おはようございます。殿下」
きっちりと王子への礼式でアテナが頭を下げる。
……ほんの少し、寂しいと感じるのは間違っているとわかっていてもどうしようもなかった。
昨日までが特別だった。アテナは剣の師としてアーサーに厳しく当たっていたが、あちらの方がアテナの素に近い。それでも人目は多少憚っていた。
昔は、家族だった。
アーサーにとってアテナは会ったこともない本当の母親よりも母だった。
しかし、今はどうする事もできない絶対的な身分の差が二人の間にはある。この挨拶がその証だ。
アーサーが用事を聞き出すよりも速く、アテナがテーブルの上のエクスカリバーに目を移した。アーサーもその視線を追う。
「結局、抜けませんでしたね」
「……あぁ」
アテナの猛特訓も虚しく、聖剣はアーサーに沈黙を守ったままだ。
湖の妖精は、聖剣が鞘から抜けない原因はアーサーの心の内にあると告げていた。極限の戦いを想定した訓練の中で刃を交えれば何か掴めるかもしれないとアテナを呼び出したが……。
「申し訳ありませんでした。アテナ様にご足労いただきながら結果を出せず」
軽く頭を下げたアーサーをアテナは寂しそうに見ているだけで何も言わない。何も言わないままアーサーに近づいて来たアテナがアーサーの肩のマントのずれを直し始めた。
「アテナ様?」
「少しずれてしまっていますよ、ほら」
サワがやってくれた時には完璧に出来上がっていたはずだが、今日はアーサーも自力でやった部分がある。どうやら自分で結んだところはあまり見栄えが良くなかったようだ。
「こちらも。これから皆の前に立つのですから、しっかり身支度を整えなければ」
「はぁ……」
ただされるがまま、アテナに服を整えられる。最後に全体のバランスをチェックしたアテナが満足げに頷いた。
「はいっ、完璧です。後は……」
「アテナ様……?」
「アーサー」
唐突な呼び捨てに驚いたのは一瞬だった。
懐かしい気持ちの方があっという間に驚愕を打ち消して、アーサーを満たす。
幼い頃。まだ王子という立場をあまり自覚することもなく、ケイを兄と慕い、エクター卿を父上と呼んでその背に憧れ、アテナ様を母上と呼んで甘えたり、叱られたりしていた思い出が一気に蘇ってくる。
アテナが突然、めいいっぱいの力でアーサーを抱きしめた。
驚いて、声が出なかった。
理解は一拍遅れてやってきた。
「アテナ……様……?」
もう、自分の方が背が高いのだと初めて知った。
遅れて服越しでもわかる温もりが伝わってくる。
……懐かしい甘い匂いがする。
「立派になりましたね」
「アテナ様……」
アテナは苦しいぐらいアーサーをしっかりと抱きしめてくれている。
……こんな風にしてくれたのは、後にも先にもきっとアテナ様だけだ。
王の器として育てられたアーサーに対して、幼い頃は時々エクター卿に隠れて、アテナはこんな風にアーサーを甘やかしてくれることもあった。
「久々にあなたに会って、すぐにわかりましたよ。あぁ、立派になったのだと」
「いえ……私は……立派なんかじゃ……」
エクター家で、騎士とは王とは人の上に立つとはどういうことなのか。たくさん、たくさん大切なことを教わったはずなのに、アーサーは何もできなかった。
王宮という泥沼に足を取られ、正しいとわかっていることも為せず、他人に責任を押しつけ、自分は悪くないと耳を塞ぎ、罪もない命を犠牲にしてまで、目を瞑り。
今までの自分の行いをアテナが知れば幻滅するに違いない。実際、アーサー自身も過去の自分を恥じているのだから。
「アテナ様は知らないだけです。私が王宮に入ってから何をしでかして来たのかを。アテナ様が聞けば、鉄拳が飛んでくること間違いなしの愚かな事しか為せませんでした……」
「アーサー」
アテナはアーサーを少し放すと、その両手でアーサーの頬をそっと包み込んだ。優しい茶色の瞳が愛おしい物を見るように覗きこんできてくれる。
それだけで、胸がいっぱいになったような気がした。
「……知っています。あなたが王宮に行ってからどうしていたのか。何をしてきたのか」
「……そうですか」
膨らんだ幸福感が萎んでいくのを感じた。
……この人はきっと俺を見限るだろう……。
そう考えると、暗い井戸の底に突き落とされたような感覚に陥る。
「では……この後、私に飛んでくるのは鉄拳ですか?」
「いいえ」
アーサーの自虐にアテナは首を振り、優しく、優しくアーサーに笑いかけた。
そして、次にアテナの口から出てきた言葉はアーサーの予想とは真逆のものだった。
「辛かったわね」
……何も、言えなかった。
「苦しかったわね」
それは、想像もしていなかった言葉だった。
「思い通りにならない事に憤ったでしょう。思い通りにならない己を責めたでしょう。何もできないと己の無力感に打ちひしがれたでしょう」
その通りだった。
本当にその通りだった。
何もできなかった。何も変えられなかった。何も救えなかった。
何も。
王になんてなるべきでは無いと、父は言った。
最初から過ちだったと、母は言った。
そこから始まったアーサーの行い。過ちの数々。どうしようもなかった事。どうしようもできなかった事。
数え切れないほどの裏切りと絶望に何度も嘲笑われ続けただけの生涯。
「でもね」
アテナの声に、温かい手に、アーサーは顔を上げた。
「あなたは、私の自慢の息子だわ」
「ア……テナ……様……?」
「あなたは、私の、自慢の息子。血の繋がりは無くても、あなたは、私の自慢の息子なの」
「……」
「あなたは過ちや救えなかった人達に心を砕いている。思いやりに溢れた優しい子」
「……」
「過去を反省し、悔やみ、諦めず、次に活かすことができる。とても強い子」
「アテナ……様……」
戸惑うアーサーの額に、アテナが自分の額をこつんとくっつけた。
温かく、ひどく懐かしい匂いがした。
「アーサー、あなたが――――産まれてきてくれて良かった。私の元に来てくれて良かった」
王になるなと父は言った。
産まなければ良かったと母は言った。
「夫も同じ気持ちよ。あなたの事、手紙で私にいろいろ伝えてくれていたの。あなたのことを王になるべき人だと何度も何度も褒めてたわ」
「恥ずかしがって直接言えないのよ、男の人ってそういうところはお馬鹿さんよね」と付け足して、アテナはアーサーから離れるとテーブルに置かれていた聖剣を両手で持ち上げた。
戸惑うアーサーの腰に聖剣を差し込み、見栄えが良くなるよう角度を調整する。
「王宮に来て、直接見てやっぱりわかったわ。あなたがどれほど頑張ってきたのか。どれほど苦労してきたのか。でもね」
「完成っ」と満足げにアテナがアーサーから一歩離れる。
「貴方の事を理解してくれている人がいる事を忘れてはだめ。貴方の事を愛してくれている人がいる事も。貴方は―――今、必要とされている人なのよ」
アテナは微笑んだ。
昔遊んでいた時に、何かを拾ってきたアーサーを見て笑った時と同じ笑顔で微笑んだ。
そして彼女は聖剣を携えたアーサーを見て瞳を滲ませた。
「アーサー、産まれてきてくれてありがとう。母として、貴方を誇りに思います」
背後の朝日がアテナの微小を柔らかく照らす。その微笑みに胸が詰まった。
……あぁ。
そうか、マーリン……。
お前も、こんな気持ちだったのか?
アヴァロンの島でマーリンは、アーサーを導くのが自分の運命ならば周囲を不幸にし続けた自分をようやく許せるような、存在を許されるような気がしたんだと叫んでいた。
こんな……気持ちだったのか。
王になるなと、父は残した。
産まなければ良かったと、母は去った。
ならば最初から存在する意味も努力する意味もなかったではないかと、俺は思った。
記憶に存在している肉親は……何よりも心の支えにしていた母の笑顔は偽りだった。気を失う前に見たイグレーヌの温度の無い表情が、ずっと脳裏から消えなかった。
彼女にとってアーサーなど無理矢理産まされた疎ましい存在でしかなく、愛情どころか最早興味すらないのだと。自分は始めから必要の無かった人間だったのだとあの時の表情に思い知らされた。
しかし、そうではない。
もう、そうではないのだ。
目頭が熱い。
言葉にならないほどの感謝と、幸福が満ちていく。
充たされている。
「アーサー、貴方は私の自慢の息子です。誰がなんと言おうと私は貴方の母親です」
「……はい」
溢れそうなものを堪える自分の声は情けないほど掠れていた。
ようやく「母上」と小声で口にしたアーサーを、アテナがもう一度強く抱きしめてくれる。
喉の奥に支えていた何かが、すうっと溶けて消えていった気がした。




