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多少の流血表現があります。
ご了承ください。
***
その景色は悲惨という他には形容できないものだった。
馬を走らせ続け、ようやく眼下の平野に戦場が見えてきたのだ。
その光景は日本に暮らす佐和にとっては映像かゲームでしか見たことのないモノだったが、想像以上にひどかった。
馬に乗った兵士が槍を持って激突し、落馬した兵士の死体がごろごろと転がっている。草はどこもかしこも血でにじみ、雨でその染みが広がって草原全体が紅で染まっていた。怒号が飛び交い、鋭い空気がぴりぴりと肌に刺さる。
「ひどい……」
「ああ」
吐いたり、気持ち悪くなったりするかと思ったけど、目の前の光景が異質すぎて何も感じられない。
それにまだこの距離では予想していたような悲惨な光景は良くは見えないで済んでいる。
今はこの状況を悲しんだり、苦しんだりしていることはできない。
これよりももっと悲惨な状況を生み出さないためにも一刻も早くマーリンに会わなければ。
「いた!」
後ろのミルディンの声に佐和は前方を見つめた。遥か遠く平野のど真ん中に立ちくしている黒いローブと茶色い髪。背格好からして間違いなくマーリンだ。
「降りるぞ」
ミルディンの合図で馬は丘を下り始めた。マーリンの所まで敵の姿は見当たらない。一気に平野を駆け抜けた佐和たちはマーリンの少し手前で馬を下りて、マーリンに駆け寄ろうとした。
「マーリン!!」
叫んだ佐和に気が付いたのか遠くでマーリンが振り返る。その頬には雨に濡れて滴る返り血が流れていた。
近づいて行くにつれ、マーリンの周りに人が倒れているのが見えてくる。
「ああ、来たんだ。ミルディン」
にっこりと笑ったマーリンに近寄った佐和もミルディンもその姿に絶句した。
マーリンは倒れている敵の頭をつかんだまま、穏やかな笑みを浮かべている。そして足元には無残な状態になった敵兵が何人も倒れていた。
「マーリン……何を……」
驚愕したままミルディンが佐和の前に立った。ミルディンの背後から見たマーリンは穏やかな表情のままだ。
「何って……敵兵を倒しているだけだよ?何かおかしいかな?」
まるで今日の服装のことでも話しているかのようにマーリンは自分の姿をきょとんとしながら見下ろしている。場違いな空気に佐和は体中が冷えていくような感覚に陥っていた。頭の中で直接心臓がなっているような感覚がする。
もしかして、マーリンは……。
「おかしいって……これは倒してるんじゃない、殺してるんじゃないか!?」
ミルディンの悲痛な叫びを聞いてもマーリンは首を傾げたまま、理解できないといわんばかりに掴んでいた敵の頭をぽいっと投げ捨てた。
「だから?」
「だからって……!?」
「君こそ何を言っているんだい?ミルディン」
一歩一歩近づいてくるマーリンは今まで人を殺していたとは思えないほど穏やかな空気をまとっている。それに気圧されたようにミルディンが後ずさった。
「君だって知っているはずだ。どれだけ人間達が愚かか。恐怖に駆られて自身の心の安息のために魔術師をやり玉にあげ、院長先生を殺した村人も、魔術の偉大さも知らずに魔術師を虐げる王家も」
「だからって……」
「人を殺す免罪符にならない?人間は魔術師を魔術師というだけで殺すことが許されるのに?逆は許されない?それは道理が通らないよね?」
後ずさることもできなくなったミルディンの顔を至近距離で覗き込んだマーリンが優しくミルディンの手を取った。
「ねえ、ミルディン。僕はね、嬉しいんだ。だって」
ミルディンの背中越しに見るマーリンの瞳が歪んだ。
瞳に宿ったその暗い影を私は知っている。ついさっき教室でミルディンが操られた時と同じ瞳。
まさか、マーリンまで……。
「やっと、僕は君に復讐できるんだから」
マーリンがミルディンを握る手に力を込めた。
苦痛にゆがんだミルディンを見たマーリンの笑顔が狂気に満ち、高速で何かをつぶやきだした。佐和に聞き取れたそれは授業で習った人に害を及ぼす呪文だ。
「ミルディン!!」
地面に縫い付けられたように動けなくなったミルディンに体当たりを食らわして、無理矢理マーリンから引きはがす。雨にぬかるんだ地面に勢いよく倒れた衝撃で泥が散った。面食らったマーリンがこちらを見下ろしている。その表情にぞっとした。
笑ってる……!
狂ってるとしか思えない笑顔に佐和は慌てて隣に倒れたミルディンの腕を取って、引き起こそうとした。
「ミルディン!逃げなきゃ!ミルディン!」
「やっぱり……殺したいぐらい、俺を恨んで……」
「ミルディン!殺されちゃう!早く立って!」
いくら引っ張っても打ちひしがれたミルディンの力のない体は動かない。そうこうしているうちにマーリンがこちらに近寄ってくる。
「ミルディン!」
「ミルディン、この子は一体誰だい?君の大切な人なのかな?ということは君を殺す前にこの子を殺せば君はもっと苦しんでくれるのかな?そうだと嬉しいな。僕がこの子を殺す甲斐があるってものだよ」
いきなり方向転換した殺意が向けられてくる。まるで今日一日生きれたことを神に感謝するように恍惚とした表情が逆に不気味だ。
どうして、どうして。
混乱する思考をさらにかき回すような激しい雨が顔を流れていく。
本来、マーリンはこの世界を導く人になるはずなのに。それが大量殺人者になって、今、佐和を殺そうとしている。
これが、これが杖の言っていた「運命の逆流」なの?
海音ではなく、佐和にニムエの役割が移ったことでマーリンの運命すら変わってしまったの?
だとすれば、こんなにもミルディンが深く傷つくことになってしまったのも、命を奪われることになってしまうかもしれないことも私のせいなの?
全部全部、私のせいなの?
「サワは関係ない!!」
うつむき、地面に向かって叫ぶミルディンの声にマーリンの歩みが止まった。
「頼む、こいつは関係ない……殺さないでくれ……」
絞り出した声はまるで佐和の心の声を慰めてくれるような言葉だった。
けれど、その言葉を聞いた途端、マーリンの目がさらに冷えていく。
「あるね。ミルディン。キミがそんなことを言うなんて『大切だ』と白状しているようなものだよ。でも残念だったね、ミルディン。キミはきっと魔術師という色眼鏡でキミのことを決して見ない、蔑みもしない彼女の存在に救われた気持ちになったんだろうけど、彼女はキミに善意で優しくしていたわけじゃないよ」
その言葉に佐和だけでなく、うつむいていたミルディンも顔をあげた。
「どういう……ことだ……?」
なんで……知って……?
「彼女はね『マーリン』にどうしても会いたかったんだよ。だから君を利用しただけだよ。別に君の人間的魅力がどうとかいう問題じゃなく、たとえ君がどんなに酷い人殺しでもご機嫌を取ってマーリンに会わせてもらう魂胆だっただけさ」
こっちを向いたミルディンの顔が信じられないと語っている。でもマーリンの言った事は嘘ではない。
いや、それよりも、どうしてそんなことをマーリンが知っているのか。
確実にマーリンは佐和の「湖の乙女」としてマーリンを導く役割のことを理解して、示唆している。
強くなった雨脚の音がやけに頭に響いて、くらくらした。
「サワ……」
「ほら?彼女何も言えなくなっちゃったでしょ?図星だよ?最初からミルディンなんて必要とされてなかったんだよ。とんだ悪女だよね?だから僕が殺してあげるよ、安心して。ああ、大丈夫。ミルディン。キミが罪悪感に苦しまないようにすぐに後を追わせてあげるから。喧嘩なら地獄に落ちてから仲良くやってね」
「おい、男の方は殺すなと命じたはずです」
マーリンの滔々と流れる言葉をせき止めた主がこちらに向かってやってくる。雨の中の戦場にまったく似つかわしくない燕尾服の主はマーリンをたしなめながら近寄ってきた。
「コンスタンス……!!」
「やはり貴様がニムエだったか。あいにくだが、マーリンはこちらの手の内にある。諦めるがいい」
コンスタンスのセリフに佐和は言葉を失った。
コンスタンスは今、確かに私のことをニムエって言った。そしてマーリンは手の内にあると。
この言葉が指し示す二つの事実に体が震えた。
「なんで知ってるの……?しかもマーリンが手の内ってやっぱりあんた……マーリンにも洗脳魔法をかけたの!?」
予感はずっと在った。この戦場に来てからのマーリンの瞳の異様なかげりは、教室で操られていたミルディンと同じだったから。
佐和の推理に横にいたミルディンがぎょっとした顔つきになる。
「それがどうした?」
「あの施設はそれが目的だったの?保護という名目で集めた魔術師を死も恐れない軍団に仕立て上げることが」
せめて挑発的に言ってやったがコンスタンスは教室にいる時とは全く異なる冷ややかな目でこちらを見下ろしているだけだった。
「いいや。あの施設とイグレーヌの理想自体は言っていた通りだ。だが、なぜこれほどまでに優秀な魔術師という存在を集め、ただ保護するだけで終わる必要がある?私は全ての魔術師たちに生きる意味を与えただけだ。それにいまやこの男の心もこちら側にある。貴様は役目を果たすこともなく死ぬがいい」
その言葉に頭が真っ白になったまま動けなくなる。
ただコンスタンの几帳面に撫でつけられた髪が雨に濡れて額に張り付いているのが目に入ってきた。その視線を遮るようにゆらりとマーリンがコンスタンスの前に立ちはだかった。
「ごめんね、君自身に恨みはないんだけれど、君が生きていると困るんだ」
「どうして……だって、マーリンは私と一緒にこの世界を救うんじゃなかったの?」
「……そうだね。でも僕は王家が憎い。聞いていないだろうけど、僕の本当の家族はね、一家そろって魔術師だったんだ。でも、ウーサー王の弾圧にあって家族は皆、僕の目の前で処刑された。僕はなんとかブリーセンと生き延びたけれど……次に得た安息の地が院長先生の所だった……。わかるかい?魔術師というだけで大切な家族を、家族替わりだった人を、奪われたんだ。たった……それだけで」
マーリンの言葉を責めることはできない。
佐和だってこの数日間魔術師の中で過ごしてきたからわかる。彼らは何も危険な存在などではない。同じように考え、傷つき、悩み、笑う人間なのだ。それを畏怖し、むやみに魔術師というカテゴリーに当てはめ、個を見ることもせず殺していくのが正しいとは佐和にも思えない。
「それなのに、君はこの希望のかけらもない世界を導くのかい?どうやって?どんなに正しいことをしようとしたって、結局は無理じゃないか!?周囲の圧力がどれほど巨大か僕は知ってる。たった……たった一つの村人ですら、真実を捻じ曲げて、自分の気持ちを優先させて!少数の犠牲を優先する結果にしかできなかった世界を!」
「マーリン……なんのことだ……?」
マーリンの叫びにのろのろと立ち上がったミルディンの消え入りそうな声が雨音を縫った。
「……ミルディン、キミは知らなかっただろうけど、あの村の疫病の一回目の原因は院長先生じゃない。院長先生はキミや僕を守るために……わざと猟奇殺人者の振りをしたんだ!」
「な……なんで……そんなこと……うそ……だろ……」
「こんなこと嘘をついてどうするんだい。……村人達は皆もう狂ってた」
ここから遥か遠くのカーマ―ゼンを見ているようなぼんやりとした瞳で空の厚い雲を見るマーリンの頬を雨筋がいくつも流れていく。
「あの時には病気への恐怖で皆正気じゃなくなってた。とにかく理由をつけて安心したかったんだろう。そんな時生贄に選ばれたのがキミだった。キミはよそ者だったし、うまく魔術を隠せなくて、前々から村人に魔術師じゃないかと疑われてたからね。それを知った先生はキミを守るために、わざとあんなことをしたんだ」
空を見上げていたマーリンはこちらを向くと、今にも泣きそうな顔で笑った。
「村ですら正しいことができないのに、ましてや国で、世界で正しいことなんて成しえるって本当に思うのかい?」
「……」
佐和の世界ですら毎日流れる理不尽なニュースや頼りない政治家の討論が頻発し、希望なんて感じられない世界であることを考えると、マーリンには何も言い返すことができなかった。
なにより、佐和自身今まで生きてきて、絶対に正しいはずなのに、できなかったことなんていくらでもある。働いていれば、そんな事は日常茶飯事だ。そう思うと二の句が継げなかった。
「だから、僕は壊すんだ。既存の価値観を、国を、人を、政治を、全部リセットする所から始めなくちゃ、変革なんて成しえないんだ」
マーリンの握った拳に力が入るのを見つめたまま、佐和は立ち尽くした。
マーリンの言っていることは何一つ間違ってはいない。間違ってはいないけれど。
「そんなのは……」
佐和のかすれた声にその場にいた全員の視線が刺さる。けれど、冷え切った体ではその鋭さも怖くはなかった。
「そんなのは……悲しいやり方だよ」
確かにこの世の中は理不尽で暴力的で利己的なのかもしれない。それでも。
「……ミルディンは見ず知らずの私を助けてくれた。思いやってくれた。院長先生だってミルディンを守るために命を張ったんでしょ。そんな風に人を思いやることをできるから人間なんじゃないの?皆そうなれる種は持ってるんじゃないの?」
「サワ……」
横に立ったミルディンがこちらを信じられない目つきで見ている。
でも何も信じられない事じゃない。
最初は勘違いだったのかもしれない。それでも、私が魔術師じゃないとわかってからも、ミルディンは困っている私を置いてはいかなかった。そこに嘘偽りはなかった。
魔術師も人間も関係ない。ただミルディンと佐和という二人がいただけだ。
「私は魔術師も人間も関係ない!優しいミルディンがいてくれて本当に良かったって思う!だから会ったこともないけれど、院長先生にも感謝してる!ミルディンがいなければこんな所まで来られなかった!だから私は信じたいの!小さい奇跡はあるんだって!他人を思いやる世界があるんだって!そんな世界をきっとマーリンが創ってくれるんだって!」
「…………だから嫌なんだ……」
「え?」
何かを呟いたマーリンの声が雨音にかき消される。そして今度はその雨音すらかき消すようにマーリンが大きく動きだした。
「話し合いでは何も解決しないよ。ごめんね、さっきも言った通り君自体に恨みはないけれど、君には消えてもらわないといけないんだ……!」
マーリンがかざした手の平の周りで、降っていた雨が空中で止まり出す。空中に止まった雨粒が集合し、つららのように形を変えていく。いくつもできあがった水の槍がこちらを向き、佐和に狙いを定めた。
「先ほども言ったが、男の方は殺すな」
「……話が違いますよ。ミルディンも僕に殺させてくれる約束です」
佐和たちのほうに注意を向けたまま眉をひそめるマーリンに、コンスタンスはため息をついた。
「事情が変わったんだ。堪えられないなら協力関係はなしだ」
「……わかりました」
交渉を終えたマーリンが構え直し、佐和を睨みつける。その顔に先ほどまでの優しさはどこにもなかった。
「ごめんね」
その手が佐和に向けて水の槍を放つ。
瞬きすらできずに見ていた佐和の景色がゆがんで書き混ざったように感じた。そしてその渦に槍の先端が触れた瞬間、柔らかい雨粒になって泥の地面に落ちていく。
「……!?」
佐和の目の前に大きな水の渦ができている。その渦がマーリンの水槍から佐和を守ってくれていた。
「どういうことだい?なんでその子を守るんだい?ミルディン」
マーリンに睨まれたミルディンが唾を飲み込む。佐和を守る水の盾はミルディンが手を下ろすと、その動作に合わせるように形を失い、地面に落ちてはねた。
「……うまく、言えない……俺も……俺も村人は嫌いだ……なんで、なんで魔術師なんかに生まれたんだろうって、思ったことだってあった……でも」
酷い差別を受けたことも。
不当な扱いを受けたことも。
理不尽な目にあったことも。
「魔術師じゃなきゃ、遭わなかったこともたくさんあるし、許せはしないけど、俺を……俺を産まれて初めて必要だと言ってくれたサワとは、魔術師じゃなきゃ出会えなかったんだ!マーリン!お前とだって、そうなんだ!だから、いいことだってあったんだって、思いたいんだ!そのためにも」
ミルディンが自分の両手を見つめる。きっとずっと忌み嫌われ続けてきた手を強く、強く握った。
「これ以上、お前を人殺しにはさせない!サワは殺させない!」
強く言い放ったミルディンからしずくが飛び散る。
今までの物静かな彼の初めて荒げた声の力強さに佐和の胸から言葉にならない感情がこみあげた。
「ミルディン……」
「その女はキミを利用していただけなのに?」
「いいんだ。きっかけはそうだったのかもしれないけれど、そのあと俺と仲良くしてくれたこいつは……嘘じゃないから」
「ミルディン、どうしてそう言い切れるの?」
自分のことなのに、そこまで佐和を信じてくれることが嬉しいのに、思わず口から出た質問にミルディンが――――笑った。
「だって、お前そんなに器用じゃないから」
「もう!」
横にあるミルディンの肩を叩く。服越しに伝わるその温度に冷え切っていた身体にじんわりと熱が伝わってくるような感覚がしてくる。
「……コンスタンス、さっきの約束はなしだ」
「……どういうことですか?」
「その子も、ミルディンも――――殺す。そうじゃなきゃ、収まらない。良いだろう。お前たちには僕さえいればいいはずなんだから」
マーリンの雨でぬれている瞳に黒い炎が灯る。その揺らめくまなざしが佐和とミルディンを射抜いたままだ。
「ふむ」
「思い知らせてやる」
ぎらぎらとした瞳でマーリンが大きく手を振りかざした。
ミルディンが佐和を庇い、前に立つ。その背中越しに見えた光景に佐和の息が止まった。
「―――それは困ります」
マーリンのお腹を背後からコンスタンスの杖が貫いた。そこからじんわりと赤黒い血がにじみだす。
「な」
「マーリン!!」
驚愕の表情のまま、ゆっくりとマーリンが前のめりに倒れると、地面の泥が一斉に撥ねた。そのまま震える体をなんとか起こそうとするマーリンがコンスタンスを恨めし気に睨み上げた。
「どういう……こと……だ?」
「事情が変わったと話したはずです。わかりやすく言い換えましょう。――――あなたは用済みとなりました。よって、今から手法を変えます」
マーリンの腹を貫き、血にまみれた杖をコンスタンスは反対の手に出した土の人形の上にかざした。雨に濡れて滴った血を人形にこぼし、何かの呪文を小さく呟いている。けれどそれは授業では聞いたことのない呪文だ。
「マーリン!」
コンスタンスは杖を懐に仕舞い、その人形を握りしめた。
「ぐあああ!!」
「マーリン!!」
マーリンの絶叫がこだまする。成す術もなく立ち尽くしていた佐和達の前で、叫びつくしたマーリンの身体が一段と大きく震えた。
「立ちなさい。マーリン。あの女を殺しなさい」
まるでゾンビのように力なく立ち上がったマーリンが自分の右手でお腹の傷口をえぐった。
「な……なんで……」
あまりにも衝撃的な光景に反射で涙がにじんでくる。
痛みを感じていないのかマーリンはそのまま手を引き抜いた。指から血がほとばしっている。
その血が先ほどの雨と同じようにマーリンの呪文によって空中で止まり、槍に形づくられていく。
「やめろ!マーリン!こんな雨の中で出血したら死ぬ!!」
「無駄ですよ。聞こえてはいません」
今まで見たこともない顔で笑ったコンスタンスが持っていた土人形を突き出した。
「これは先ほどまでの洗脳魔術とは違う。さらに浸食率の高い傀儡の魔術です。もはや彼に自我はありません。さきほどのような魔術では決着が着きませんからね」
同じ魔術を使った槍でも雨と血では威力が違う。
意志呪術で作り上げられた雨の槍はさっきミルディンがやったように同じだけの思念の強さで、同じ雨という媒体を用いた術を使えば相殺できる。
けれど、命をかけた呪術を跳ね返すにはこちらも命を懸けるような強さを持つ呪文を唱えるか、同じ強さの触媒がいる。
「操られている状態ですから、自身の命にリミッターをかえるようなことは考えません。その分非常に純粋な魔術となりますよ」
意志魔術は意志の強さとそれをどれだけ具現化できるかの才能によって決まる。そう考えると操られて意識を全て掌握された状態で繰り出す魔術の威力は計り知れなかった。
「さあ、やりなさい」
「く!!プロクス・ディファンドール!!」
マーリンが血の槍を放つのと、ミルディンが呪文によって炎の盾を出現させるのは同時だった。炎の壁に血の槍が触れた瞬間、蒸発していく。
「考えましたね。確かに強い意志魔術といえど、火に水は弱い。しかし、触媒もなくそれほどの高出力の炎、維持できないでしょう?第一天候も悪い」
コンスタンスの言う通り、血の槍だけじゃなく、炎の盾に当たる雨が蒸発して煙を創り上げるたび、盾の威力が弱まっていく。
触媒!触媒さえあれば!
命をかけた魔術に抵抗するにはこちらも命をかけるか、もしくはそれを補えるほどの触媒や呪文を扱わなければならない。
何か、何かないのか。
「うっ……!」
「ミルディン!!」
小さくなった炎の盾で守りきれなくなった部分から血の槍が貫いてくる。槍は佐和の前に立つミルディンの手や足を切り刻んでいく。
ミルディン、私を庇ってくれてる……!
このままじゃ、ミルディンも佐和も殺されるのは時間の問題だ。
どうにか、どうにかしないと。
でも私に何ができる?魔法も使えない。運動もできない。こんな時、状況を打破する画期的な策も思いつかない平凡な私に。
何が。
『我を取れ』
あの冷たく暗い洞窟に響く声が頭の中で鳴り響く。必要なのは命を使った魔術を打ち消せるほどの『強力な触媒』。
佐和はコートの胸ポケットから小さくなっていた杖を取り出した。
「ミルディン!!」
後ろから抱きつくようにしてミルディンの伸ばした手にそれを握らせる。
その瞬間、あたりが眩いほどに光り出し視界が、真っ白になった。
「な、なんだ!?」
光は当たり一面を駆け抜けるとどこからか風を運んできた。その風がミルディンのコートと髪を揺らす。その手には大きくなった杖が握られていた。
風に舞いあがったしずくが光を跳ね返し、きらきらと輝いている。あれほど土砂降りだった雨もミルディンの周りできらきらと輝いていた。
うまくいった……。
創世の魔術師が使うはずの杖、こんなに強力な触媒はきっとほかにない。
「なるほど……これはまさしくあの方に捧げるにふさわしい!!どんなことをしてでも手に入れてやる!」
今まで冷静だったコンスタンスの表情がミルディンの様子を見て、歓喜に一変し、手にした土人形を荒々しく掲げた。
「おい!お前の親友の命は私にかかっている!救いたければ、こちらへ来い!お前がこちらに来るのならば、この男の命は救ってやる!!」
コンスタンスの伸ばされた手にミルディンが悩むのが背中越しでもわかった。
瞳孔を開き、興奮に身を任せたコンスタンスの手が貪欲に伸びてくる。
「さあ!さあ!」
「俺がそっちへ行った途端、サワを殺すだろ!?」
「大丈夫だ!大丈夫だ!そんなことはしない!さあ!」
興奮しきったコンスタンスの声が嘘をついているのは明白だ。
ミルディンは困ったように足踏みをしている。
「さあ!さあ!」
「そんなことをする必要はないよ」
最初にあった時と変わらない優く穏やかな声がミルディンとコンスタンスの間を遮った。