page.35
***
「ぎゃああああ!!落ちるううう!」
「しっかり捕まって。しゃべるな。舌を噛む」
凄まじい勢いで流れていく景色を楽しむこともできず、佐和は必死に目の前の藏に掴まった。
後ろからミルディンが支えてくれてはいるが、それにしてもこのスピードと揺れは尋常じゃなく、怖い。
とにかく言われるがまま、懸命に唇を引き結んだ。
佐和が馬に乗れないとわかった途端、ミルディンは驚くほど素早く、馬から手を伸ばし、うろたえる佐和を無理矢理引き上げると自分の前に乗せて走り出したのだ。これしか方法がないとはいえ、乗馬初心者に全力疾走はハードルが高すぎる。
あの時、さっと馬に乗せてくれたミルディン、めちゃくちゃかっこいいとか思ってる場合じゃなかったよ、これ!!明日、筋肉痛になる……!!この世界に湿布ってあるのかな?絶対ないよね?うん!
くだらないことばかりを頭に思い浮かべて、恐怖をぬぐおうとするがこのスピード感はどうにもならない。とにかく、ミルディンを信頼して任せるしかない。
「悪い。でも、一刻を争うから」
耳元でミルディンが申し訳なさそうにしてくれるが、返事をする余裕は佐和にはない。
心の中で「しょうがないから気にしなくていいんだよ!!」と返事をするが、伝わってはいないだろう。
「もうすぐ着く。それまで辛抱してくれ」
広場にいた魔術師の話では戦闘が起きている場所はもうすぐ近くまで迫っているらしい。地理感覚のない佐和には実感が湧かないが、ミルディンが事細かに伝えてくれる話によればもう戦場が見えてもおかしくないようだ。
平地では戦闘が起きている可能性があるため、佐和たちは小高い丘の林の中を単騎で走っている。おかげで今の所、味方の軍勢にも敵の軍勢にも遭遇していないが、道が悪いため、振動は激しいことこのうえない。
「……悪い……俺に付き合わせて……本当は待っててもらうべきなんだろうけど……」
「そ、そんな、こと……ないよ!一緒にいひゃい!」
『一緒に行くよ』と言おうとしたが、馬の振動のせいで妙な言葉になってしまったが、構う余裕が佐和にはない。
大体言いたいことは伝わっただろうし、とにかく必死で馬にしがみ付く。
「……」
「ミ、ミルディン?」
なぜか黙ってしまったミルディンの様子を何とか見ようと横を向いた時だった。
佐和達が走っている道よりも上の道の遠く向こうから何騎かこちらに向かって駆けてくるのが目に入った。
「ミルディン!!」
佐和の言葉で敵に気付いたミルディンはその場で手綱を引き馬を一度止めた。
無意識に身体が震える。戦争なんて平和な日本に暮らしていて、縁がない。独特の緊迫感に足が震えだす。
「どど、どうしよう!?いきいなり切りつけられたりしたら!」
「大丈夫。クリプス、マス……」
不安げな佐和とは違い、落ち着いているミルディンは何かつぶやき始めると馬の鬣を撫でた。撫でられた鬣がシャボン玉のように一瞬だけ光るとすぐに元の毛色に戻る。
「サワ」
耳元でいきなり話されて悲鳴を上げかけた佐和の口を後ろからミルディンがふさいだ。
「何があっても声を出さないでくれ。できるか?」
口をふさがれたまま、上の道を見ると兵士たちがどんどん近づいてきている。
何をしたかはわからないが、今はミルディンを信じるしかない。
口をふさがれたままこくこく頷く佐和を見たミルディンはもう一度手綱を引くと一気に馬を走らせ始めた。見る見るうちにスピードがあがり、人影が近づいてくる。
「おい!何か物音がするぞ!」
「敵襲か!?」
いきり立つ人たちの進行方向からして敵国の兵士だ。
見つかれば殺されてしまうだろう。中には弓をもうつがえている兵士もいる。
このまま進めば確実に佐和たちは見つかるし、向こうの方が地形的に有利だ。そう頭ではわかっているが、今はもうミルディンを信じるしかない。
敵まであと三メートルぐらいのところまで来た時、ミルディンが突然佐和に覆いかぶさるように前傾姿勢を取った。苦しいが敵になるべく見つからないようにだろう。佐和もできるだけ姿勢を低くする。
「音が近いぞ!」
「来るぞ!!」
他の兵士も皆、弓を担ぎ出し、こちらの道に向かって引き絞った状態でいる。このままいけば確実に撃たれる。けれど、ミルディンは馬のスピードを落とさない。
もう駄目!見える……!!
観念した佐和がミルディンの身体の隙間から見上げると、なぜか兵士たちは佐和たちが過ぎ去った位置をまだ見ていた。
「どういうことだ!!音が遠ざかってくのに姿は見えないぞ!!」
「空耳だったのか?」
既に遠い背後から兵士の声だけが聞こえてくる。
どうやら向こうからこちらの姿が見えなかったらしい。すぐにその姿は木に隠れて見えなくなった。
しばらく馬を走らせたところで、安全だと判断したのかミルディンが速度を緩めてくれた。
「さっきの……なんだったんだろう……?」
「姿を隠す魔術を使った」
馬をいたわるように叩いたミルディンの説明に佐和は少しだけ体を捻ってミルディンを見上げた。
「でも音は聞こえてたみたいだったよ?」
「ああ、この目くらましの呪文は音までは消せないから」
そうなんだ。と言いかけた佐和の頭の中に初めてミルディンと会った時のことが蘇ってきた。あの時も背後からいきなり口をふさがれて「話すな」と言われたんだった。
「最初に私を助けてくれた時も同じ術を使ってたの?」
「そうだけど……それがどうかした?」
「……ううん、なんでもない」
非常事態の真っ最中だというのも忘れてなんだか佐和は懐かしい気分になった。
あれからそれほど日は経っていないはずなのに、遥か昔のことのように感じるから不思議だ。
海音の代わりになることを決意して、いきなり村人に追いかけられて、わけがわからないまま連行されて、でも、あともう少しでそれも終わる。
「行こう!ミルディン、マーリンの所へ」