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イグレーヌがゆったりとした足取りで目の前から歩き去って行く。
伸ばしかけた手は硬直し、まるで蝋人形のように動こうとしない。
ただ遠ざかっていく背中を見ている事しか、アーサーにはできなかった。
……何故。
何故、母上が……
「只今戻りました。貴方」
「よく戻ったイグレーヌ。……苦労をかけた」
いいえ、と返事をする母の顔は少女のそれだ。ゴルロイスが差し出した手がイグレーヌの頬を優しく包みこむ。
見てはならないような気がするのに、その光景から目が離せない。
「光の王の器」
イグレーヌを傍らにゴルロイスはアーサーに語りかけてくる。
「元々、殿下の母君は私の妻。それはアーサー殿下もご存知のはず」
知っている。
ゴルロイス公は父上の盟友であり、イグレーヌの元夫だ。
「しかし、ウーサー・ペンドラゴンが既に私の妻であったイグレーヌに恋情を抱き、卑怯にも魔術師に依頼して私の姿になり、あなたを孕ませた」
聞いている。
嫌というほどに。
「そしてそこに倒れている男は卑劣な手段―――和平交渉の申し入れという名目で私を誘い出し、自身の部下であったウルフィン卿に命じて私を暗殺させた」
わかっている。
闘技大会でのゴルロイス公の騎士の叫びが脳裏にこびりついて。
「しかし―――私は蘇った。冥府の底より力を携え」
そんな事あるわけがない。
一蹴する声は出ない。
「全てを奪ったその愚かな男に復讐するために。そして―――二度とこのような悲劇を生み出さないために、私は新たな時代を創る」
ゴルロイスの宣言が高らかに謁見室に響く。
「運命に縛られない。平等なる世界。道なき時代。そのためには―――あなたには死んでもらわないと困るのですよ、光の王の器」
ゴルロイスがイグレーヌをそっと自身から放し、前に進み出て来る。
「それでは―――御機嫌よう」
ゴルロイスの剣戟がアーサーに降り注ぐ。条件反射でアーサーはその剣戟を防いでみせた。
「ほう。成程、中々」
「……っ!」
呆けている場合では無い!
敵は自分の命、そして今まさに消えかかろうとしている父上の命を狙っている。
とにかくこの場を凌がなければ……!
「はぁ!!」
負けじとアーサーもゴルロイスに攻撃を加える。しかし、一撃一撃を相手側は的確に弾き、これではまるで決闘というよりは剣の稽古のようだ。
……強い!
今まで剣を交えてきた誰よりもこの男は強い。その直感がアーサーを正気に戻した。
全身全霊で挑まねば―――負ける。
自分が死ぬだけなら構わない。しかし背後にはまだ息のあるウーサーがいる。
『あちら側』からこちらを微笑んで見ているイグレーヌをなるべく視界に入れないようにしながらアーサーは猛攻を仕掛けた。
……せめて父上だけでもお助けしなければ……!
「む」
「はああ!!」
アーサーの気迫が変わった事に相手も気付いたようだ。その顔から余裕の笑みが消え去る。
手など抜かん!全力で退ける!
腹部の傷の痛みなど彼方へ忘れ去るほどアーサーは猛追した。その気迫にゴルロイスが押され出す。
このまま……押し切って……
「勝つとでも考えているのですかね?」
その言葉にぞっとした。
すぐに間合いを取ろうと足に力をこめた瞬間、ゴルロイスがアーサーの軸足を的確に踏みつける。
「っく!」
動けなくなったアーサーにゴルロイスの裏拳が飛んでくる。避けることもままならず、まともに食らったアーサーは吹き飛び、地面に倒れ込んだ。
「ごほっ……!……っく!」
吹き飛ばされた際、飛んでいった剣は遥か遠く部屋の隅まで音を立てて滑っていく。
圧倒的な力量差。
それでもアーサーは霞む視界で武器を探した。その視界に血だまりに沈みゆくウーサーの姿が映る。
「……呆れた。まだ抵抗するか」
……父上。
まだ、息がある。
助かる。
助けられる。
父上だけでもせめて……救わなければ……。
そのために、剣がいる。
こいつと戦うために……。
ウーサーを見たアーサーの視界に輝く刀身が目に入った。すぐさまそれの正体に気付き、駆け出す。
……カリバーン!
「成程、確かにカリバーンなら私に太刀打ちできるかもしれません。目の付け所は非常に良い」
アーサーは床に転がっていたカリバーンを掴み、全神経を尖らせた。
聖剣の柄は不思議と暖かく、まるで力が流れ込んでくるような気さえ起こさせる。
竜さえ退けた剣だ。冥府から蘇った者を払う事も可能かもしれない。
アーサーが集中すればするほどカリバーンが眩く光り出す。その光はとても暖かく、ボーディガンと対峙した時のようにアーサーに力を与えてくれる。
……あの時とは違い、何かが欠けているような気もしたが、それでも聖剣の威力は充分だ。
「―――カリバーン!!」
アーサーはカリバーンの導きのまま聖剣の力を引き出し、掲げた。熱い風と光が渦巻く。
この一撃で決める……!
「うおおお!!!」
アーサーが振り下ろした一撃は白く、空間を切り裂くような剣劇。
その一撃を。
「だが、残念。私にその程度の攻撃は最早効かない」
ゴルロイスは素手でカリバーンの刀身を掴み、粉々に砕いた。
「なっ……!」
耳を劈くようなガラスの割れる音。光の破片の隙間から笑ったゴルロイスの拳がアーサーの腹にめり込んだ。
「かはっ……」
人間の拳とは思えないほどの威力で吹き飛ばされ、床に身体中を打ちつける。
呼吸が乱れる。起き上がろうと身体に力を入れるが立ち上がれない。
……カリバーンが……。
偉大なる聖剣すら素手で。それは最早人知を超えた力だった。
「うっ……!」
ぼんやりとした視界が激しく回転する。腹部に走る痛み。どうやら腹を蹴られたようだ。
「御可哀想に」
ゴルロイスの優しい声と激しい蹴りが交互に降り注ぐ。
「あなたもまた被害者ですね」
アーサーは防御に徹するだけで精いっぱいだ。
「全てはそこの哀れな愚王のせい。この者が自分の欲望の赴くままにイグレーヌを手に入れた時から悲劇は始まった。けれど、勿論ウーサー以外にもあなたが今苦しい目に遭うのには理由があるのですよ」
「ぐっ……!かはっ!」
痛みと言葉が交互にアーサーの身体と心に刻みつけられていく。
「そもそもイグレーヌに心の安らぎを見い出し、手にしたいと渇望したウーサーを手助けした魔術師。そいつが最も罪深い」
痛み。言葉。傷み。言葉。暴力が絶えず交互に。
アーサーは頭を抱え、急所を守りながらなぶられ続ける。
「その魔術師さえいなければあなたは産まれなかった。これほど痛い目に遭う事も、産まれを揶揄される事も。重圧を押し付けられる事も。母親に捨てられる事も。父親に恨まれる事も。苦しみ、葛藤し、悩み、傷つく事もなかった」
刻みつけられる。
今までずっと心の奥底にしまっていた疑問と不満。それを的確にこの男はアーサーから掘り返していく。
「幼い兄弟の一件で魔術師に対する偏見を持った自分を省みた。ご立派です。でも他はどうです?あなたがいくら省みようとも周囲は省みない。いつも魔術師はあなたを裏切った。人も魔術から生まれたあなたを遠巻きにした」
やめろ。
言うな。
「そして今あなたを痛めつけている我々もまた魔術師。何故あなたが魔術師に傷つけられるか、理解できていますか?それは―――あなたが許されない存在だからですよ」
「な……なに……を……」
「だってそうではありませんか。魔術師からすればあなたの存在は汚点と冒涜。魔術によって人が生まれ、そんな人間が王になる?不義の子が?人間からすれば到底異形」
ゴルロイスはそういって穏やかに笑った。
「あなたは何も悪くない。殿下。恨むのならば、愚かな父と、それを助けた魔術師と、これからあなたを殺す私を恨めばいい」
「がは……!」
強く殴り飛ばされ、次の瞬間衝撃から何とか身体を起こすとアーサーの身体は玉座に埋まっていた。
衝撃で……玉座に突っ込まされたのか……。
それにしても素手でこの威力、ガウェインでもない限り在り得ない攻撃だ。
「く……そ……」
今度は打ち所が悪かったのか視界が霞んでくる。こちらに近付いて来るゴルロイスの姿がぶれる。
武器もない。カリバーンも折れた。ウーサーは死にかけている。母は寝返った。味方は誰一人いない。
ここまで……なのか……。
身体に力ももう入らない。
アーサーは今にも落ちそうになる瞼を堪え、狭まっていく視界に映る景色をただ見ている。
ゴルロイスがトドメの一撃のための剣を振りかざした。
「ああ、あと呪うとするなら―――ご自分の運命を、どうぞ」
アーサーの命を絶つ剣が振り下ろされたまさにその時、
「プロクス・ディファンドール!!」
不可思議な言葉と炎の盾がアーサーとゴルロイスの間に割って入った。
……暖かい。
一体、誰が……
「マーリン!アーサーが……!」
この声は……
「大丈夫!命に別状はない」
よく知っている。
生意気で、賢しくて、まるで友人のように王子に連れ添う生意気な従者達。
「サワはアーサーを」
……マーリン?
気を失う寸前、アーサーを守るようにゴルロイス達の前に立ちはだかったマーリンの手には、大きな杖が握られていたように見えた気がした。