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『それ』は本能だった。
背後にいる父親と母親を守るため張り詰めた気のおかげか。
今までの訓練の賜物か。
戦士としての素質がそうさせたのかはわからない。
激しく前転し、床に身体を打ちつけながら回避行動を取ったアーサーの腹部に痛みが走る。
「―――っ!」
傷は服を裂き、肌をうっすらと切り刻んだ。血がじんわりと滲み、少しだけ流れ出す。
致命傷ではない。だが、その攻撃を加えた相手にアーサーの頭は真っ白になった。
「はは……うえ……?」
見上げた先に短剣を持ったイグレーヌが立っている。その手はウーサーとそして新たにアーサーの血で濡れていた。
「アーサー……悪い子ね、避けては駄目でしょう?」
何も変わらない。
本当に時々の面会の日に優しく接してくれる時と変わらない声、口調、微笑みそのままにイグレーヌはアーサーを嗜めた。
「ははう……え……一体、何を……?」
在り得ない。
いくら目の前の敵が―――元夫だったとしても、貴族の姫君出身の母がアーサーに気取られる事なくナイフを的確に奮うなど……在り得ない。
けれど、それは現実だ。
腹部に走る痛みがこれは現実だとアーサーに警告を呼びかけている。
呆然とした頭でアーサーは何とか立ち上がった。イグレーヌはこちらに向けていた短剣をゆっくりと下ろしている。
「いけない子。私の最後の望みも叶えてくれないの?」
「母上……何を、おっしゃって……」
鈴の鳴るような声。聞くだけで穏やかな気持ちになれた陽だまりのように暖かい声。
それがそのままアーサーに向けられているというのに、言葉はひどく物騒で。
頭がついていかない。
「姉様、王の器は状況を理解できていないようですよ」
そこで初めてアーサーは背後のモルガン達の存在を思い出した。しかし彼らが攻めて来る様子はない。ゴルロイスは楽しそうに、モルガンはやや呆れたようにこの光景を眺めているだけだ。
『姉様』……?
「……そう。聡明な子だと思っていたのだけれど、残念です」
……嫌だ。
「アーサー」
嫌だ。
「アーサー、あなたに一つだけ謝らなければならない事があります」
嫌だ。
聞きたくない。
それは遠い昔の思い出。
蓋をして、見ないようにしてきた記憶が流れ込んでくる。
『王妃様は大層気がおかしくなってしまって、殿下はご自身の子ではないと……』
『ウーサー王も罪の子と陰口の種になる殿下の扱いには困り果てているようだ』
『魔術で産まれた忌み子め』
王宮に戻り、足元に絡みつく泥のような嫌悪。それは全て自分に向けられていると知り、歩けなくなっていく日々。
それを救ったたった一言。
『アーサー、酷い事を言ってごめんなさい。あの時はどうかしていたの。こんな母を……許してくれますか?そして願わくば―――どうかあなたは父上を越えてください。その姿を母は見たいのです』
道標をどうか、
―――俺から、取り上げないでくれ。
「父上よりも立派な王になってくれてありがとう。おかげで安心してあなたを殺せます」
イグレーヌはそう言って、離塔の窓辺にいる時と同じ優しい笑顔で微笑んだ。