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ああ、やっぱり。
それがもう一度、あの城に入った時の最初の感想だ。
緑の騎士が雷と共に姿を現した瞬間、『彼女』もまた姿を見せた。
前回同様、二階の廊下からガウェインを見ている。着ているドレスも髪型もあの日のままだ。
それなのに、顔だけが靄がかかったように見えない。どんな表情で自分の命を奪った男を見ているのか。それだけがわからない。
目の前ではアーサーが、仲間たちが、命がけで戦っている。
それはわかっているのに、ガウェインの目は『彼女』の亡霊に釘付けになって動かせない。
力が抜けてしまいそうになる身体を奮い立たせて、立っているので精一杯だった。
「……ル……ん!…………くれ!」
「おね……………ラグ…………!」
遠くから誰かの声が聞こえる。
これは……誰の声だっけ?
駄目だ。
あの日の雨音が耳にこびりついて離れない。遠くから聞こえる声がよく聞き取れない。
「…………です!ラグネルさん!」
ラグネル?
それは誰の名前だったっけ?
遠くから仲間の叫び声が聞こえる。闘いの激しい金属音。知っているはずの音が、聞こえているはずの叫びが、俺の耳には届かない。
そうだ、届かないんだ。
あの時もそうだった。
雨の音に『彼女』の言葉は掻き消されて。
今もまた。
「―――ガウェイン様」
あまりにも優しいその声に、ガウェインの身体が自然と動いた。
気が付けば、すぐ横に老婆が立っている。その眼差しは真っ直ぐ、ガウェインを見つめていた。
こいつは……誰だ?
ああ、そうだ。
俺はアーサーの騎士としてこいつを妻として迎え入れたんだった……。
でも、それも無駄だった。
全部、無駄だった。
『彼女』はこちらを見ている。恨みを向けている。
あの騎士もそう。
なら、ガウェインのするべき事は一つではないのか?
アーサー達を助け、逃げる時間を稼ぎ、あの時の罪を償うためにもあの騎士の斧に貫かれて死ぬべきではないのか?
目には目を、歯には歯を、死には死を。
馬鹿な自分でもわかる。シンプルな理屈だ。
俺の命一個で、アーサー達が助かるなら……
「なりません」
老婆―――妻、ラグネルはガウェインの出した結論に静かに首を振った。
「ガウェイン様。あなたは真に誉れ高き騎士です。ですから、そのような事、なりません」
だったら、俺はどうすればいい。
身体も動かない。
力も入らない。
仲間の助けを求める声も聞こえない。
あの日、あの時から一歩も進めていない自分に何ができる。
「……もし、もしも、あなた様が本当に勇敢な騎士であるならば、どうかこの哀れな妻の最期の願いを聞き届けてはもらえませんか?」
そう言ったラグネルの瞳から涙があふれた。
醜いはずの妻。けれど、不思議とその姿が美しくガウェインの目には映った。
そうだ、あの時。
緑の騎士を貫いた時、『彼女』も同じ涙を流していた気がする。
その罪を背負った俺にできる事。
蘇るのは、アーサーの言葉。
『誰よりも勇敢に仲間の命を救ったガウェイン卿のままであれ。失う悲しみと重みを知った女性に優しい騎士であれ』
ガウェインはもう一度『彼女』の姿を見上げた。
ぼやけた輪郭に影のようなドレス。
それに対して、目の前にいる妻は醜くも確かにそこに存在し、ガウェインを頼っている。その真剣な眼差しに、ガウェインはようやく目が覚めた気がした。
何が女性に優しい騎士だ……!!
殺した女性に罪悪感を感じて、そこで何もかも諦めてふてくされて何にもやり直そうともせず、今生きている妻の願いも聞き入れられない男を―――騎士なんて呼べるかよ……!!
ガウェインは思いっきり自分の頬を張った。乾いた音で目が覚めた。
「……当たり前だろ!ラグネル!俺は――――――お前の夫だ!」
ガウェインの啖呵に、ラグネルがガウェインに微笑みかけた。
***
佐和とマーリンの懇願を受け流していたと思ったラグネルは突如、ガウェインに静かに語りかけはじめた。
変わらず、二階の誰もいない場所を揺れる瞳で見つめていたガウェインの意識が徐々に、徐々に、こちら側に戻って来るのがわかる。その姿を佐和とマーリンは見守っていた。
ラグネルさんは……何をしようとしてるの……?
こうしている間にもアーサー達の死闘は続いている。既にみんな傷を負っている。それでも諦めずに活路を見い出そうとしている。
「……もし、もしも、あなた様が本当に勇敢な騎士であるならば、どうかこの哀れな妻の最期の願いを聞き届けてはもらえませんか?」
その言葉にガウェインが微かに反応した。
ゆっくりと二階の廊下と横にいる老婆を見比べた彼の瞳に炎が小さく灯る。その炎が静かに、だが確かに燃え広がって行く。
ぱあんと乾いた音がホールに響き渡った。
「当たり前だろ!ラグネル!俺は――――――お前の夫だ!」
ガウェインの啖呵に、ラグネルがガウェインに驚くほど優しく微笑みかけた。そのまま左手を差し出す。
そこにはガウェインからもらったぶかぶかの結婚指輪がはめられている。
「では―――あの騎士を、あの緑の騎士をあなたの手で殺してください」
「な!?」
「え!?」
驚いたのはマーリンと佐和だ。
ガウェインは多少目を見開いただけで、静かにラグネルの言葉の続きを待っている。
「無理だ!いくらガウェインでも!あの騎士には魔術がかかってる!倒してもまた起き上がる!」
「ええ、そうです。でも、殺してください」
ラグネルはマーリンの反論には取り合わず、ガウェインの顔を見上げた。
「……あの騎士はこの城の元領主の一族の一人です」
ラグネルが左手を差し出したまま、静かに語り出した。
「十数年前、ガウェイン様。あなたが倒したのはこの領主一族の長男。そして、今あそこで殿下方と闘っているのは次男の成れの果てです」
「どうして今さらそんな大事な話……」
「今だからこそです。今だからこそ……お話しできます。彼の一族は、とある貴族から恨みを買い、魔術によって呪いをかけられました。永遠にその者の奴隷として操られる不死身の騎士として自由を奪われたのです」
アーサー達と戦っている緑の騎士の咆哮が響く。
それは言われてみれば確かに―――悲鳴のようにも聞こえた。
「どうか、あの騎士を。あの緑の騎士を永遠の呪から解放してあげてください。それが、私が……夫であり、騎士でもあるあなた様に最も望む願いです」
ガウェインは唐突な話に驚きながらもラグネルから視線を外そうとはしない。ラグネルは涙を零しながらガウェインだけを見つめた。
「あなた様が十数年前、貫いた緑の騎士もまた同じ呪によって自由を奪われし者。どうかあの時と同じように、その御力で彼の者をお救いください。誓っていただけるならば―――指輪に誓約を」
ラグネルの言葉に聞き入っていたガウェインは一度、瞼を閉じてからゆっくりと開いた。
―――その目には今まで見た事がないほどの強い決意と意志に満ちている。
ガウェインはさっと片膝を着き、ラグネルの細い手をそっと取った。
……発作は、起きなかった。
マーリンと佐和が見守る中、ガウェインは自分の妻の顔を見上げた。
「―――誓おう、ラグネル。お前のために、俺はあの騎士を殺すよ」
ガウェインがラグネルの指輪に口づけた瞬間、
ラグネルの身体からいくつもの光の糸がはじけ飛んだ。