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遠くから喧騒が微かに聞こえてくる。今頃闘技大会が開催されている時間帯だろう。
そんな騒がしさとはまるで無縁な書記室で一人、今回の闘技大会の参加者のトーナメント表を眺め、懐かしい名前の部分をそっと指で撫でた。
懐かしく、愛おしく、疎ましく、もの悲しい響きの名。
「……どういうつもり?」
一人きりだったはずの書記室にいつの間にか自分以外の人物が立っていた。
この部屋に入れるのは王族、または王族から直接許しを得た貴族、そして、紋章官である自分だけのはずだが、あまり驚きはしなかった。
「来るような気がしていたよ……」
本来なら穏やかな午後の日差しが差し込む書記室には似合わない漆黒のローブに同じ色の緩やかな長髪。
出会った頃は短かったことが懐かしい。だが、彼女の姿は不思議と、この部屋から浮いてはいなかった。
「答えになっていないわ。なぜ、あのような対戦カードにしたの?」
「対戦相手は純粋な籤だとも」
「嘘をつかないで」
王国から手配されている魔女とは思えないほど、彼女―――モルガンは落ち着いている。
決して紋章官には近寄らず、一定の距離を保ったまま近づいて来ようとはしない。
本当の事を言えば、純粋な籤というのは確かに語弊があった。
闘技大会の受付を行うのは紋章官である自分の仕事だ。そして、その相手を家柄、身分、出身関係無く籤にて対戦を決めるのも紋章官の役割だ。
だが、自分はその対戦カードを決めた後、誰に知らせることもなく、たった一人だけ抽選の結果の位置を変えた人物がいる。
理由は自分にもはっきりとはわからない。
しかし、その事にこの魔女が気付いて文句を言いに来る事を期待していたからのような気もした。
「危険だと思うのならば止めれば良い……どちらでも」
「……あなたは相変わらずなのね。何も変わらない。あの時と何も」
その瞳に非難や侮蔑の気持ちは込められていない。ただ真実をそのまま告げただけだ。
それでも紋章官の胸に鈍い痛みを思い起こさせるのには充分だった。
「モルガン……もう、よさないか。復讐など」
「あなたに私を止める資格は無い。あの時、アコーロンを見捨てたあなたには」
紋章官とは王家に仕え、家に縛られず、ただこの国の成り行きを見守り記録する仕事だ。
そのために紋章官は出自も、家も、家族も、本当の名すら捨てる事が義務づけられている。
そして、自分はその道を貫いた―――愛する者の首が刎ねる、その瞬間まで。
「私は必ずウーサーに同じ気持ちを味あわせる……!誰にも邪魔はさせない……」
それだけ告げたモルガンは次の瞬間には書記室から消え失せていた。
また穏やかな空気と遠くからの喧騒が届いてくる。
書記室の窓から見える会場の方向の空は澄んだ薄い水色だ。まるでそう、彼女の髪のように。
水色の透き通った髪、ライトグリーンの瞳。
世を捨て、愛を捨て、怒りを捨て、憤りを捨てたこの老いぼれにできることは最早何もありはしない。
それでも。
彼女に賭けずにはいられなかった。
あの日、何もできなかった自分の罪を払拭するように。