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どれほど泣いていたのだろう。
声も上げられず、ひたすら涙だけを流し続け、佐和は体も心も乾ききっていた。
私のしてきた事って一体、何だったんだろう……。
海音を殺して、ミルディンを殺して、バリンとバランを殺して、ボーディガンを殺して、メディアを殺して、多くのアルビオンの兵士の命を落とさせて、異民族と大国の人間も死んで。
その挙句、大切な人を傷つけて。
「おい、こんな所にいたのか」
力なく座り込んでいたところに背後からかけられた声が佐和の空虚な脳裏に響く。
よく通る、聞き慣れてしまった偉そうな声。今日はやけに上機嫌だ。
「全く、姿が見えないと思ったらこんな所でさぼっていたとは、お前も随分偉くなったものだな」
「……」
「おい、俺を無視するとはいい度胸だな?サワ」
アーサーが近づいて来ようとした気配を察し、佐和は座ったままアーサーに背を向けた。
「すみません。でも、ほっといてください」
声をあげて泣いたわけではないから、口から出た声は思ったよりも普通だった。険を含ませた物言いに、背後のアーサーが眉を潜めたのが空気だけで察せられる。
「グィネヴィア姫の所に戻らないとまずいんじゃないですか?主賓がこんな所にいるなんて、それこそどんなさぼりかと思われますから」
ただ淡々と答える。
お願い、今は放っておいて。
声に棘を纏う。
いつも通り、怒り出していなくなればいい。
それなのに、今日に限ってアーサーは怒らなかった。
「ふん。お前の命令を何で俺が聞かなきゃならない」
アーサーが乱暴に佐和の横に腰を下ろした。佐和はアーサーに背を向けて顔を見られないようにしている。しかし、覗き込んでくる気配はない。どうやら湖をただ見ているだけらしい。
「遊覧用の湖か。キャメロットは高台にあるから王都には無い施設だな」
「…………」
さっさと消えろ。
そう叩きつけてやりたい。これほどアーサーの我儘ぶりに苛立ったのは出会った時以来だ。
今は一人になりたい。
誰にも見られたくない。
………………叩きつけて、やればいいんだ。
どうせ、自分はこの世界の人を傷つける存在でしかないのだから。影響を与えることなどできないのだから。
「アーサー、はっきり言って、今一人になりたいので、一人にしてもらえますか?正直うざったいです」
「何度も言わせるな。何でお前の命令を俺が聞かなきゃならない」
アーサーの偉そうな返事に佐和の中で悲しみが怒りに爆発した。
「消えろって言ってんだよ!今、お前の顔とか死ぬほど見たくない!!……独りにしてよ!!」
「しない」
「なんで!!」
「お前が傷ついているからだ」
その言葉に思わず佐和はアーサーの方を振り返った。足を投げ出して座ったアーサーはこちらを真摯に見つめている。
「本当に珍しい。お前がこれほど荒んでいるとは。一体、何があった?」
「答えたくありません」
「可愛げの無い……」
「言いたくありません」
「おい、俺はまだ何も言ってな」
「五月蠅いです」
「おい!」
「ほっといてくださいって、何度も言ってんだろうが!!騎士なら女性の気持ち、機敏に察して立ち去れっての!!」
叫んだ拍子に佐和の目じりからまた涙が零れた。アーサーに見られたくなくて、必死に手で拭う。
「……放っておいてください」
「……何があった?」
「……何回、このやり取りすれば、気が済むんですか」
諦めの悪いアーサーに佐和は思わず苦笑した。
これじゃ、まるでコントだ。
「何回でも。お前が観念して吐き出すまでだ」
アーサーは至極当然のようにそう言い放った。その物言いに感情が逆撫でされる。
ああ、本当に―――あなたは優しい王様ですね。
自分の従者にまでこんなに気をかけるなんて。
だから、見られたくなかった。知られたくなかった。
「私の事なんて放っておいて、もっと違う事を気にしてください。あなたにはやらなきゃならない事が山ほどあるんですから」
「……マーリンと、何があった?」
「私の話、聞いてました?私の事なんか気遣わなくって良いんですって。なんならマーリンの方を慰めてあげて来てくださいよ」
「正直に言え」
堂々巡りだ。会話にならない。
佐和はささくれ立った気持ちのまま、アーサーに苛立ちをぶつけた。
「何でそんなに私の話を聞こうとするんですか……!?」
「それが俺の義務だからだ」
アーサーの答えは短い。
予想外の返答に佐和はアーサーの顔をまじまじと見てしまった。
「……何ですか、それ」
「お前はノブレス・オブリージュという言葉を聞いた事があるか?」
「……貴族の義務の事ですよね……」
訳が分からない。
佐和は呆気にとられたまま答えた。
「その通りだ。正確には<持つべきものの義務>という意味だ」
「……持つべきものの、義務……」
「貴族階級や王族など権利を持った分だけ、果たすべき役割があり、義務を果たさなければならないという意味だ」
「へぇー、大変ですね」
「お前、本当に今日は荒れているな」
佐和の棒読みの返事にアーサーはどこか楽しげに苦笑した。
「俺の、王子としての義務は民に心を砕く事だ。民の声に耳を傾け、誠心誠意努める事だ。そして、お前ももうアルビオンの民だ」
「私は別の国の人間です」
それどころか別の世界の。
佐和の返答を予期していたのだろう。アーサーは「そうだな」とすぐに返した。
「だが、もう俺に仕えて長い。生まれや育ちではない。お前はもう立派に守るべきアルビオンの民だ。それに」
アーサーは佐和にいたずらっぽい笑顔を向けた。
王子でも、魔法の過ちから生まれた子でもない『アーサー』の笑顔。
「自分の従者一人救えず、何が王子だ。俺の沽券に関わる。だから、俺は諦めない。つまり、お前には諦めて白状する選択肢しかないというわけだ」
「……何、それ」
滅茶苦茶だ。
佐和も気が付けば苦笑していた。それを見てアーサーも笑う。
「……マーリンに好きだとでも言われたんだろう」
お見通し…………か。
当たり前だ。佐和ですら気付いていたことにアーサーが感づかないわけがない。
「……マーリンから聞いたんですか?」
「あいつは何も言っていない。偶然、廊下を歩いていたあいつを見かけたら、まるで死人のような顔でふらついていたからな」
余計、苦しい。
傷つけた。
あんなに優しい人を。あんなに佐和に優しくしてくれた人を。
気が付けばまた佐和の目から涙が溢れていた。はらはらとこぼれ落ちる涙は佐和の意志に反して一向に収まってくれない。
「それで、お前は何でそんなに荒れているんだ」
「…………」
「マーリンの事が嫌いなのか?」
「そんなわけないじゃないですか……!」
逆だ。
逆だから、こんなにも苦しい。
「なら、あいつと付き合えばいい。市民の恋愛は貴族と違って割と自由だろう」
「……そんな事はできないんです」
「元の国に決まった相手でもいるのか?」
「……いません」
「他に好きな男でもいるのか?」
「違います」
「だとすれば、何だ?何がお前をそこまで追いつめている?」
「……私は、この国にやらなきゃならない事があって来ました」
アーサーは佐和が洗いざらい白状するまで諦めるつもりが無い。
観念して佐和は吐き出した。
「それは……マーリンと、アーサー。あなた達と一緒じゃないとできない事なんです」
アーサーは黙ったまま佐和の話を聞いている。その態度が余計に佐和の口を滑らせた。
言ってはいけないと頭ではわかってる。
それなのに言葉が流れ出して、止まらない。
「でも……マーリンには他にふさわしい相手がいるんです。それは本当なんです。私じゃない……。私は本当はその人がいるはずだった居場所を奪ってここにいるんです。それなのに、私だけ幸せになるなんてできない……」
本当ならここにいるのは海音だ。
マーリと幸せになるのは海音だったのだ。
「また……ごちゃごちゃ難しく考えているな。お前は。そんなのその女性がお前ではなく、ちゃんとマーリンと出会っていたとしても、本当に恋仲になるかどうかなど誰にもわからないだろうが」
「わかるんです。信じてもらえないかもしれませんけど。絶対、そうなるんです」
佐和の芯の通った断言にアーサーは言い返さなかった。語り続ける佐和を見守っている。
「つまり、マーリンには他にふさわしい相手がいるから気持ちには応えられないと」
アーサーの確認に佐和は短く頷いた。それを見たアーサーが呆れる。
「なら、マーリンにそう言えばいいだろう」
「言えるわけない……!あなたの気持ちには答えられません。でも、私の目的のために協力はしてくださいなんて、どの面下げて言えばいいんですか!?」
止まりかけた涙がまた溢れた。いくら流しても、流しても枯れてくれる気がしない。
「あんな優しい人、傷つけて平気でいるなんて……できません。でも、諦めるわけにはいかないんです。私は……どうしても、マーリンの側にいないといけないんです」
「そう素直に伝えればいいじゃないか」
「私の話聞いてました!?」
「聞いていた」
怒りが頂点に達した佐和をアーサーが正面から見つめてくる。真剣な眼差しに佐和が言葉を失った瞬間、アーサーは話を続けた。
「一つ、お前が勘違いしていることを教えてやる」
私が……勘違いしていること……?
「いいか、お前は思い上がっている」
「……そんなの思ってないです。だって、私は私のこと、大した人間じゃないって思ってます」
「いいや、思い上がっている。いいか?お前に力なんてない」
「……そんな事、痛いほどわかってます」
何もない。
佐和には何も無い。
それなのに何を思い上がれば良いと言うのか。
「いいや、わかっていない。いいか?お前は自分を卑下しながらも、違う部分で思い上がっているんだ。マーリンがお前の今の話を聞いて悲しむかどうか決めるのはお前じゃない。マーリンだ。お前はそこを思い上がっている」
アーサーは佐和の胸元を指さした。
「人一人が与えられる影響などたかがしれている。それをお前はわかっていない。お前がどれほど考え込もうと、これはお前とマーリンの問題なんだ。お前が一人で結末を勝手に決められる事じゃないんだ。お前にそこまでの力が、マーリンの人生を自由気ままに変える力があると思うか?」
「……思わない……です」
予想とは違う言葉に佐和は素直にそう返していた。
「俺も王子としている時に、よく思い上がりそうになる事が多々ある。まるで自分の決断一つで国の全てを変えられるような。実際、その権力が俺にはある。しかし、それほど簡単に、思った通りに世の中はいかない。いかな権力を持とうとも、それは変わらない。なぜなら、国は……人との関わりのある事の結末を判断するのは、自分だけではないからだ。自分が良しとしても、別の立場の人間が良しとしない可能性はいくらでもある。だから、人一人で解決する問題など無いんだ」
アーサーはしっかりと佐和と向き合った。
「いいか。それはお前とマーリンの問題も同じだ。いくらお前が傷つけると怯えても、悩んでも、本当に傷つくかどうか決めるのはマーリンだ。そして、そこからどうするか決めるのはマーリンだけじゃない。お前とマーリン、二人で決める事なんだ」
「二人で……」
「一人でできぬ事も同じ志を持つ者が集えば、できるようになる。俺は今までそうやって多くの者に助けられて来た。国は一人では運営できない。人間関係も同じだ」
「一人じゃ……できない……」
「そうだ。お前は難しく考え過ぎなんだ。マーリンに全部ぶちまけろ。ぶちまけた上で、二人で考えればいい」
アーサーの声は優しい。佐和はまるで途方に暮れた迷子の子供のように無意識にアーサーに尋ねていた。
「それで……もし……マーリンが、私となんかいられないって言ったら……私はどうすればいいんですか……?私はマーリンから離れるわけには……いかないのに……」
不安でまた涙があふれる。
アーサーは立ち上がりズボンの土を払っている。汚れてしまった手袋を取り、座り込んだままの佐和に歩み寄った。
「その程度の男だったと笑ってやればいい。もしも、本当にマーリンがお前にそんな事を言ったりしたら、俺に言え。あいつを殴り飛ばしてやる。その上で困っているお前を意趣返しで見捨てるなど男のする事じゃないと叱り飛ばしてやる」
「……暴君ですね」
「良い君主だろう?」
アーサーの自信に満ちた声が降り注ぐ。
うつむいていた佐和の後頭部に暖かい温もりが触れる。
アーサーが何度も、何度も、佐和の頭を優しく撫でてくれた。
無償に与えられる思いやりが少しずつ、少しずつ強ばっていた佐和の身体を溶かしていく。
気がつくと、嗚咽がこぼれていた。
泣きじゃくる佐和を何も言わず、アーサーはただひたすら撫でてくれている。
まるで甘える小さな子供のように佐和はひたすら泣き続けた。