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軍を飛び越え怪物に襲い掛かった物の正体に全ての者が息を飲んだ。
獅子が怪物に噛みつき唸り声をあげている。噛みつかれた怪物は雄叫び上げ、がむしゃらに首を振り回し、獅子に噛みつき返そうとする。
その獅子には見覚えがあった。普段は大人しく、あのように歯を剥き出したりなんてしない子だ。
「レオ!?」
イウェインの呼び声にも反応せず、レオは目の前の怪物に襲いかかっている。唸り、荒れ狂った様子にイウェインも驚いているようだ。
「イウェイン、レオを連れて来たのか!?」
「いや、目立つから置いてきたはずなのだが……」
馬を降りたケイがアーサーとイウェインに並んだ。突然の事態の変化に三人とも珍しく戸惑っている。
「一体、何がどうなっているんだ……」
「殿下、今のうちに進むべきです。今なら化け物の注意は獅子に向いています!」
他の騎士も戸惑いながらもアーサーの側にあがり、意見をあげている。ほとんどは同意見のようだ。皆頷いている。
「しかし……あれは、カンペネットなのだぞ……」
「恐らく消えた騎士もあの化け物となってしまったのでしょう。元に戻れるとは思えません。殿下、ご決断を!」
アーサーの心が揺れ動いているのが佐和にも手に取るようにわかった。
本心ではカンペネットを救いたい。しかし、軍を預かる身としてはここでカンペネットを切り捨てて進む選択肢がベストなのは火を見るよりも明らかだ。
アーサー……。
「サワ」
マーリンがリュネットには聞こえないように声を潜めた。リュネットは荷台の後ろに移動して状況を見ようとしているので声は聞こえないはずだ。
「どうしたの?マーリン?」
「あれは魔法の呪いだ。アーサーの剣じゃ倒せない」
「そんな……」
確かにあれは単なる猛獣では無さそうだ。禍々しい咆哮と殺意をこちらに向けている。
「俺は秘密裏にあれをどうにかする」
「なら、私も行く」
「でも……」
「大丈夫、リュネット!」
佐和の呼びかけに反応したリュネットが荷台の中をこちらに急いで駆け寄って来る。
「お願い。どうしても私とマーリン、やらなきゃならない事があるの。少しの間だけで良いから手綱をお願い!」
「このような状況でですか?一体、何を?」
「お願い。―――アーサーのためなの」
唐突な申し出にリュネットは二、三度瞬いた。
けれど、佐和には確信があった。
リュネットなら……雇い主であるアストラト卿よりも自分の主君であるイウェインの気持ちを大切にする彼女になら、きっと通じる。
予想通り、多少は戸惑ったもののリュネットは力強く頷き、胸を叩いてみせた。
「詳しくはお聞きしない方が宜しいようですね。お任せください。姫様にふさわしき侍女であるために馬の扱いも心得ております!」
「ありがとう、リュネット」
「助かる」
マーリンと佐和は荷馬車から飛び降り、誰にも見られぬよう森の木立の中へと駆けて行った。
***
くそ……どうすれば良い……?
目の前で雄叫びを上げ、見るに堪えない変化を遂げた怪物は間違いなくカンペネットだ。
ただの魔物なら斬れば良い。
しかし……このタイミングで斬るのか?
もしもカンペネットが軍に襲いかかってくれば無論、斬る。それは、指揮官として追うべき責任だ。
だが……。
アーサーの脳裏に昨晩のマーリンの顔が浮かんだ。
「でも、その相手にも大事な物があるんだろ?それを踏みにじる事に変わりはない」
そうだ……その通りだ……だが……。
今はレオが押さえ込んでくれている。両者の力は拮抗している状態だ。
考えろ、考えるんだ。
何が正しいのか。
どうするべきなのか。
「殿下!ご決断を!」
軍を導く立場の人間としての決断は一つだ。カンペネットを見捨てる以外に選択肢は無い。
だが、アーサーの心は納得していなかった。
これが、導く立場の者の責務。
己の心を偽ってでも全ての者の事を考え、決断を下さなければならない。
たとえ犠牲になる人間がいたとしても。
……本当にそうなのか?
それは俺が望んだ行いなのか?俺はそれを変えたいのではなかったのか?
だが、どうすることもできない。
そう―――このままでは……。
「殿下」
アーサーの横に並んだイウェインが凛々しく愛剣を抜いた。その目線はしっかりと怪物に固定されている。
「ご命令を」
イウェインはそう言うとアーサーを見て微笑んだ。
「あなたはお話に聞いていた通り清廉なお方なのですね。殿下、軍を預かる身として決断は一つでしょう……しかし、あなたは御一人ではありません」
イウェインの言いたい事が伝わり、アーサーは言葉を失くした。
気が付けばイウェインだけではない。傍にはケイやガウェインも共に武器を携え、横に並んでいる。
そうだ。
俺一人では決断は覆せない。少数の犠牲を選び、多数の人間の命を救う決断しかできない。
俺がどれほど努力しようとも自力で救える人間には限りがある。
だが、誰かを救おうとする意志のある者が自分以外にも集まれば。
結果、救える人間は―――増えるのだ。
「……イウェイン、ケイ、俺とともにカンペネットを救い出せ!ガウェインは軍を守れ!」
「御心のままに!」
イウェインが先陣を切って得意の突きの型を取り、怪物と化したカンペネットへと立ち向かった。
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「マーリン!アーサー達が闘い始めた!」
木立の合間から垣間見えた光景を前を行くマーリンに伝える。マーリンも横目で闘いを確認すると足を速めた。
「急がないと……」
「そもそもあれ、何なの?マーリン、わかる?」
「具体的にはわからない。けど、何かがカンペネットに憑りついてる。それを取り除けば助かるかもしれない」
「取り除けるのは?」
「たぶん、魔法だけだ」
怪物とアーサー達から大分距離を取ったマーリンが立ち止まる。懐に手を差し入れ創世の魔術師の証である杖を取り出し、元のサイズに戻した。
「ファブロス……プロミ……プロトピィポウ……」
長い呪文とともに微かな風がマーリンの周りをそよぐ。
恐らくかなり複雑な魔法を使わなければならないのだろう。複雑な魔術ほど呪文の詠唱も長くなる。
佐和はマーリンとアーサーを交互に見つめながら両手を胸の前で組んだ。
……間に合え!!
***
「はああ!!」
今まさに怪物がレオの喉元に食らいつかんとした瞬間を狙い定め、イウェインは怪物の目を狙った。
カンペネット卿を元に戻す方法などこの場の誰にもわかるはずがない。であれば、必要なのはこの場でカンペネット卿の呪を解くことではない。生きたままカンペネット卿を無力化する事だ。
ガウェインやケイの太刀筋では激闘の中では命を落としかねない。その点、女である自分の剣技は一撃の威力よりも正確さと手数を武器としている。
命に別状のない箇所を寸分たがわず狙い撃ち、無力化する……!!
イウェインの突きに気付いた怪物はレオから身体を離し、蛇独特の地を這う動きでイウェインの一撃を避けた。だが、イウェインの剣筋の速さに完璧には付いては来られぬようだ。剣戟は怪物の皮膚をしっかりと掠めた。
あの距離で躱すとは……中々。
かろうじて怪物に喉笛を噛み千切られずに済んだレオがイウェインの横に並び直した。首を振るって気を取り直している。
「ふんっ!」
怪物が逃げた場所に先回りしていたケイが剣を振るった。その斬撃も化け物を掠めただけで動きを止めるまでには至らない。
「レオ!ケイ!私たちで動きを封じるぞ!」
イウェインの言葉に返事を返すようにレオが咆哮を挙げた。怪物の三つの頭の真ん中に飛びかかり、牙と爪で怪物の動きを封じにかかる。その隙を決して逃さず、イウェインとケイは目配せだけで、互いに残った首の気を引くように剣を向けた。
三体の目はそれぞれ眼前の敵に向けられている。
今なら……注意は及ぶまい!
「殿下!」
「アーサー!」
アーサーが怪物の死角に回り込み剣を構えた。
狙うは……尾と羽だ!!
***
「マーリン……!!」
今、まさにアーサーが怪物に飛びかかろうとしている。このまま切ってもカンペネットは助からない。
額から汗を流し、懸命に呪文を繋いでいたマーリンが杖をアーサーに向けた。
「セアラ、ファグキアート、パーセ……ディアラド!」
遠く離れた木立の隙間からでも、突然輝き始めたアーサーの剣が眩しくて、佐和は目を眇めて決着を見守った。
***
「はぁああ!!」
アーサーがカンペネットに斬りかかろうと剣を掲げた瞬間、剣が眩いほどの光を放つ。
その光に魅せられたように、その場にいた全員がアーサーの姿に見入った。
黄金の髪に光を背負い、剣を振るう姿は神々しく、ただ力強い。
多くの者はただその光景に吐息をついただけだ。
その緩慢な空気ごと切り裂くようにアーサーが剣を振り切った。
「キァアアアア!!」
耳を塞ぎたくなる程甲高い悲鳴を上げた化け物から、光と黒の粒子が舞う。その渦の中心でアーサーは更に剣に力を込めた。
「本当に己が正しいと思うなら!己が王であるべきだと言うのならば!こんな物に取り憑かれるな!カンペネット!」
その瞬間、光が弾け飛んだ。
肩で息をするアーサーの足元には傷だらけのカンペネットが倒れている。カンペネットからはまるですすのような黒い靄が散り散りになって上空へと舞って空に登って行った。
カンペネットの閉じた瞼が微かに動いている。
息がある。
生きている。
「息がある!すぐに後続の馬車で救護を!」
アーサーの掛け声で呆然としていた兵が慌ててカンペネットに駆け寄った。三人がかりで運んで行くのを見送り、アーサーは一息付いて剣を鞘に収めた。
「……奇跡だ」
「奇跡が起きた……」
「我らが殿下は奇跡を起こされた……!」
ざわめきがやがて大きなうねりとなって広まって行く。
騎士からも兵士からも雄叫びが上がった。
全てアーサーを讃える声だ。
「アーサー殿下万歳!!」
「万歳!!」
先程までの陰鬱な空気は最早見る影も無い。
騎士も兵士も皆、目を輝かせ剣をかざした。
自分達の誇るべき主に捧げて。
***
「間に合った……」
安堵した佐和の後ろでマーリンも地面に座り込んだ。長く息を吐いたものの、誇らしげな表情で喝采を受けるアーサーを見つめている。
「お疲れ様、マーリン。大丈夫?」
「結構疲れた」
どうやら相当大変な術だったようだ。
マーリンの額にはうっすら汗が浮かんでいる。
「あんなすごい術、いつの間に覚えたの?それともマーリンってこう……必要になると勝手に呪文が頭に浮かんだりするの?」
「いや……バンシーのいた部屋。あそこにあった本で見つけた。使った事が無くて一発勝負だったけど、何とかなって良かった」
「いつの間にそんな勉強してたの?」
最初に訪れた時はゴーレムの事を調べてすぐに部屋を出た。そんな時間無かったはずだ。
「戦争が始まるって聞いて、準備期間の間に時間を見つけては」
「……マーリン……」
王都での出立までの二日間、マーリンの忙しさも尋常じゃなかったはずだ。それなのに彼は寝る間も惜しんで自分にできる精一杯の事をしていた。
……本当に、すごい人だ。
「奇跡扱いになってるけど、アーサーへの信頼も軍の士気も高まったね」
「あぁ、すごいな」
そう言っているマーリンの目にはアーサーが映っている。
卑屈でもなく心底そう考えているマーリンは本当にすごい。
誰だって自分の功績は自慢したい。褒めてもらいたい。認めてもらいたい。
それは良い欲でも、悪い欲でもある。
それなのに、マーリンはまるでそんな素振りを見せる事なく、結果を純粋に喜んでいる。
普通……そんなこと、できないよ。
「本当にすごいのはマーリンだよ。お疲れ様」
佐和の言葉を受け取ったマーリンは、ただ佐和の顔を暫く見つめていたが、やがて笑顔を零した。
「一番すごいのはサワだ」
「え?いやいや、私は」
「行こう?」
否定しようとした佐和には構わず、マーリンは立ち上がると佐和に手を差し出した。
少し悩んだが、頑張った彼の手を払いたくはなかった。
……これぐらいなら、大丈夫だよね。
佐和はその手を取った。佐和よりも大きな手を。
マーリンは佐和の顔を見て嬉しそうにしている。
歩き出しながら、本当にこの手を取って良かったのかわからず、言葉にできない感情を胸に秘めたまま、佐和はマーリンの後に続いた。