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「おはよう。サワ」
「おはよう、マーリン」
結局あの後悶々としてしまってよく眠れなかったが、それは面に出さないように佐和はマーリンに笑いかけた。笑いかけられたマーリンも嬉しそうに微笑み返す。その微笑みに特別な意味があるような――――気がするのは私の妄想だあああ!!!
奇声をあげて頭を抱えたいが、なんとかその衝動を堪える。
佐和の内心の葛藤に全く気付いていないマーリンが先に歩き出した。
「お金の数え方だけど、市場に行って実際、物を見ながら説明した方が早いかと思う」
「あ、うん。そうだね」
「一応先に説明だけしておくと、アルビオンのお金は金貨、銀貨、銅貨の三種類」
「じゃあ、金、銀、銅の順に価値が高いの?」
事務的な話がありがたい。余計な事に気を取られずに済む。佐和は指折り数えた。
「うん。銅貨が十枚で銀貨一枚と同じ価値がある。同じように銀貨十枚で金貨一枚の価値だ」
助かった。桁の繰上りは日本円と同じだ。
色のイメージと合わせて銅貨を10円、銀貨を100円、金貨を1000円のイメージで捉えておけば問題ないだろう。ただ……銀貨一枚が百円の価値と同じかはわからない。こちらの世界の物価は佐和のイメージからすればかなり安そうに見える。
「でも、普通は銅貨しか使わないから……」
「あ、やっぱり物価はそんな感じなんだね」
ということは銀貨はかなり価値が高いということになる。服を買う目途も立ちそうだ。
市場に着いた後はマーリンが果物や小物を見て値段や物価について教えてくれて、佐和の中でなんとなくこの世界のお金の事情が掴めてきた。やっぱり日本よりかなり物価が安い。金貨など一般市民では見る機会も無いようだ。
一通りお金の説明が終わった所でマーリンが表通りから違う通りに足を進めた。城下町のメインストリートのほとんどは食品や籠、生活用品などの小物だ。それも出店形式で売っているお店が多いが、一本路地に入ると今度は店の中に入って買い物をする形式の店が増える。両脇の家の軒先には様々な看板が掲げられていた。
「ここ、仕立て屋だ」
「あ、洋服屋さん?」
マーリンが扉を開けると押戸についていた鈴がちりんと鳴った。木造の店の中にたくさんの洋服がかけられている。洋服店の内装はどうやら佐和の世界とそこまで変わらないようだ。
なるべく安い物で済ませようと佐和は真剣に吟味を始めた。マーリンも着替えを買うようで新しいシャツとジャケットを手にしている。
「うーん」
「何か悩んでる?」
後ろから覗きこんできたマーリンに、佐和はおずおずと切り出した。
「あのさ、マーリンどっちが似合うと思う?」
佐和が悩んでいたのはワンピースだ。紺色で裾に刺繍がさりげなくあしらわれている物と、えんじ色に近い赤のワンピース、こちらは形やボタンがかわいい。両方を掲げてマーリンに見せる。
気持ち的には、すごくえんじ色のワンピース着てみたいな……。でも、赤って着る勇気湧かないんだよね……。あんまり目立ちたくないし。
「?……」
「そんなに深く考え込まなくていから!簡単に!」
長考姿勢に入ったマーリンを佐和は慌てて止めた。マーリンは佐和をじっと見つめて、ぽそっと呟いた。
「……紺の方、が良いと思う。でも、どっちでも可愛いと思う」
まっすぐ佐和の目を見ながらさらりと気障なことを言われ、佐和は慌てて紺色のワンピースを掲げるようにして顔を隠した。
か、可愛いとか。マーリン、ダメだって!あなたみたいなイケメンがさらっとそんな事言っちゃ!勘違いする女の子続出ですよ!うん!
天然というのは恐ろしい。さらに恐ろしいのはマーリンがお世辞という言葉を知らない事だ。本気で言っているとしか思えない。
「……そ、そうだよね!やっぱこれにしよーっと」
マーリンの助言をありがたく受け止め、佐和は替えのシャツやスカート、それから紺のワンピースを持ってお金を支払った。
今回の買い物のコンセプトは街に溶け込める服装だ。
えんじのも可愛かったんだけどな……。でも、やっぱ私には地味目な色の方が似合うよね。町で目立たない事を目的にした服としてはベストな買い物だ。
支払を終えた佐和とマーリンは店を出てその場で立ち止まった。
当座の目標は達成してしまったわけだ。だが、アーサーが戻って来るまではまだかなり時間がある。
ど、どうしよう……。
昨日浮かんでしまった変な疑念のせいで妙にマーリンを意識してしまう。今までだったらこのまま城下町を探索しようよと、気軽に提案できていたが、どうも早く帰りたい気もしてくる。
いや、でもこのままもう少し遊びたい気も……。
「サワ」
「な、なに?」
「……甘い物、好き?」
唐突な質問に佐和は豆鉄砲を食らった鳩のように口を開けた。
「え?うん。ものすごく好きだけど」
「……おいしいタルトみたいな料理を安く売ってる店がある……らしい。行く?」
「え!?ほんとに!?行きたい!行きたい!」
こちらの世界で甘い物は貴重だ。マーリンのこれ以上ない提案にさっきまでのもやもやした気分も吹き飛んで佐和は小躍りした。
「じゃあ。場所は知ってるから」
「うん!行こう!行こう!」
先に歩き出したマーリンを佐和も軽い足取りで追いかける。ふと見上げた横顔はやっぱり優しい。
ん、待てよ……。
つい甘い物につられて快諾してしまったがこれではまるで……本当にデートみたいじゃん!!
そもそもマーリンがスイーツに詳しいとは到底思えない。ということは下調べをしていたという事だ。
嘘、いや、もう。え?何!?私、どうしたらいいの!?マーリン、何これ!?ホントに天然でやってんの!?
自分の気にしすぎなのだとわかっているのに考えが止まらない。こういう時、やたらとたくましい自分の想像力が恨めしくなる。
こんなカッコイイ人が私!?ありえなさすぎでしょ!それこそ本当に小説みたいな……。
だが、確かに横を歩くマーリンの顔は楽しそうで……その表情が突然、不思議そうに変わった。
「なんだ?あれ」
「え?」
浮ついていた佐和より先に、マーリンが進行方向の異変に気付いた。道に人だかりができている。
「どうしたんだろうね?」
「ちょっと見てくる」
「え、マーリン?」
佐和が止めるよりも先にマーリンは人ごみに入って行った。慌てて佐和も後を追う。
「お願いします!助けてくださいっ!!」
「おい!誰かもっと上部な木材持って来い!!」
「待ってろ!今、助けてやるからな!」
平和な街に似合わない騒然とした現場に、人ごみの後ろから覗きこんだ佐和は固まった。
道幅いっぱいに馬車が横倒れている。その馬車の下で男性が一人、下敷きになっていた。側では大泣きしながら女性が男性の手を握っている。
「あなた!あなたああ!!」
「そっち持て!せーので、いくぞ!せーの!!」
馬車を取り囲んだ複数の男が一人の合図で馬車を持ち上げようと力んだ。しかし、馬車は微かに浮くだけで男を引きずり出せるほどの隙間はできない。その様子を見ていたマーリンが観衆の1人を捕まえて事情を聞きだした。
「何があった?」
「この馬車、片輪壊れて横転したんだ。奥さんの方は偶々無事だったんだけど、旦那さんの方が馬車の下敷きになっちゃって……周りにいた男手でなんとか馬車を持ち上げようとしてるんだけど、ぴくりとも動かないんだ」
完全なる事故だ。集まった野次馬も何もできずに、ただざわめきながら遠巻きに様子を観察している。
「俺はもう駄目だ……悪い……」
「何言ってるの!あなた!私を一人にしないで!!」
この世界に救急車もレスキュー隊も存在しない。医術も佐和の世界よりはるかに遅れている。馬車に下敷きにされた男性に対して周囲が送っているのは絶望と諦めの目だ。
やがて男を助けだそうともがいていた男達が一人また一人と手を緩めていく。
「なんで!止めないでください!!お願いします!!」
「けど……奥さん。こりゃ……もう……」
うそ。こんなことで死んじゃうような世界なの。
佐和の世界ならこれぐらいの怪我、なんてことはない。だが、この世界の住人の目には彼はもう助からない人間に映っている。
「ば、馬車を壊していただいても構いません!!ですから!」
「壊そうとしたらあんたの旦那さんまで巻き込んじまうよ!」
そんな……。
呆然と目の前の光景を見ていた佐和は、横にいたマーリンがローブの懐に手を入れていることに気付いた。
「ちょ!マーリン!ダメだよ!!」
こんな所で魔法を使えばすぐにばれる。奴隷事件の砦の時とはわけが違う。
「でも……」
「せめて人目の無い所があればいいけど……」
それも無理そうだ。この騒ぎに続々と通行人が集まり始めている。これだけの大観衆の中で魔法を使えば言い逃れはできない。
佐和の説得にしぶしぶマーリンが懐に入れていた手を出した。佐和が安堵する間もなくマーリンは佐和の横から飛び出した。
「ちょっと!マーリン!?」
「俺も手伝う」
諦めかけていた男たちの輪の中に入ると、マーリンは懸命に馬車の縁を持ち上げようと力を込めた。それを見た男たちは戸惑いながらお互いの顔を見比べている。
「いや、でも兄さんよ。こいつはもう」
「まだ可能性はある」
「でも……」
マーリン……。
あちこちささくれ立った馬車の縁を握るマーリンの手にみるみる血が滲み出す。それでも込める力を緩めようとは決してしない。
すごい……。
マーリンはなんの躊躇もなく飛び出して行った。それに比べて自分は何もできず、動けず、観衆の中にただ突っ立っている。
でも……私が加わっても邪魔になるだけだ……。
まるで輪の外に弾き出された様な無力感に襲われている佐和の背後で、
「ほい、ちょっくら、ごめんなー!どいてくれー!」
この場に似つかわしくないやけに明るい声が響き渡った。
***
人ごみが割れ、その声の主のための道を作り出す。同じように避けた佐和の横を通ったその人物に佐和は目を奪われた。
身長、高い……。
180センチ後半ぐらいだろうか。佐和からして見上げるほどの男。短くオレンジがかった赤い刈りこみの髪、快活そうな表情、まるでスポーツ選手のように服の上からでもわかるたくましい体つきの人物だ。
「おっし、良く頑張ったな!こっからは俺に任せとけ!!」
馬車を取り囲んでいた男達にそう宣言した男は自分の胸をどんと勢いよく叩いた。その笑顔に男達がざわめく。
「任せろって、あんた……どうするつもりだ?」
「もちろん退かすんだよ。あ、お前らは危ないから下がってろよ!」
まるでちょっとした小石でも移動させるような男のノリに、周囲の男たちは唖然としたまま道を譲った。男は馬車の近くまで寄ると最後まで馬車に手を添えていたマーリンの肩を叩いた。
「見てたぜー!お前、男気あるなあ!!こっからは任せろ!!」
「は?」
よくわからないが男の屈託のない笑顔にマーリンも呆気にとられて馬車から数歩下がる。それを確認した男は馬車の下に手を入れると「ふん」と力を込めた。
……信じられない。
馬車が軋みながら確実に持ち上がっていく。男は顔に筋を立て、歯を食いしばり、ついには馬車を元通りに立て直した。
その瞬間、群衆から歓声が巻き起こった。
「今のうちにそいつ、引っ張り出してやれ!」
男の号令で呆けていた男達が動き出す。下敷きにされていた男性を数人で抱えて医者に連れて行くようだ。
「信じられない……」
マーリンも佐和と同じように男を呆然と見つめている。人間業ではない。
マーリンの手は血だらけだが、男はあんな事をした後だと言うのに手を叩いて土を払っているだけだ。
「あ、あの……」
男に話しかけたのは、先程馬車の下敷きにされていた男性の妻だろう。ぺこぺこと何度も男に頭を下げている。
「本当に、なんとお礼を申せばいいのか……!!」
ずいっと女性が近寄った途端、今まで快活だった男の笑顔が固まった。よく見ればじりじりと後ずさりをしている。
「い、イイって。イイって!気にすんな!!」
「いえ!本当に、本当にありがとうございます!!」
感極まった女性は男の様子に気付かず、男の手を無理矢理両手で包み込んだ。
「独り身にならずに済みました!なんとお礼申し上げれば良いのか……!!本当にありがとうございます!!」
男からの返事はない。
不思議に思った女性が男を見上げ、傍で見ていたマーリンも佐和も男の顔を覗き込もうとした途端、大きな音を立てて男が仁王立ちのまま後ろに倒れた。
「えええ!!???だだ、大丈夫ですか!!??」
「何!?何!?突然!?」
倒れた男は完全に目を回している。その顔に真っ赤な蕁麻疹がぷつぷつ浮き出ていた。
何なのこの人!?
戸惑う女性とマーリンと佐和は倒れた男を囲んでお互いの顔を見合った。