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誰かが泣いている。
ああ、これは小さい頃の海音だ。
バカだなあ。
すぐ調子に乗る私の妹。
その場のノリでなんでもかんでもやっちゃって。後先考えろっていつも言ってるのに。
でもね、海音。
佐和は泣きじゃくる幼い海音の頭に手を乗せた。
そうは言っても私、実はあんたのそういうところが好きなんだよ。
感情で突っ走ってくあんたが。
後先考えろって私は言うけど、でも不思議だよね。
海音が感情のままやったことが間違ったことってないんだ。
まるで運命に導かれているみたいだなと思った。
神様に愛されているんだなって思った。
私とは違う。
人気者の海音。可愛い海音。愛されている海音。
もちろん妬ましい時だってあるけれど、私はあんたのそういうところが好きなんだ。
だから謝らないでよ。絶対にあんたは良い方向に向かっていくんだから。
「……う……」
だんだんと視界がクリアになってくる。
冷たい岩肌にうつぶせていた身体をゆっくりと起こして辺りを見まわすと静けさだけが洞窟を満たしていた。
「あ……れ……どこも……痛くない……」
見ればさっきまでぼろぼろだった身体には傷一つない。破れていたタイツもほころび一つない。
「夢……?」
いや、夢なら洞窟にだっているはずがない。
佐和はぐるりと周りを見回した。
何もない。どこまでも広い空間が続いているだけだ。
「……うみね?海音!」
佐和の叫びが洞窟にこだまする。
静まり返った空気がピンと張りつめているだけで何かが動く音さえしない。さっきまでいた怪物の這いずる音も、海音がいるような物音も何も聞こえてこない。
「海音!どこなの!?」
気絶する前の光景が佐和の脳裏をよぎった。怪物から佐和を守った海音の背後から覆いかぶさる凶悪な嘴を。
「海音!」
けれど、今は何の音もしない。佐和の声と、息遣いと、足音だけ。
最悪の事態が佐和の頭をよぎる。
もし、もしもあの怪物が海音を咥えてどこかに行ったんだとしたら。そこで海音に何かしていたら。
頭の中が苦しそうにする海音でいっぱいになった佐和の頭に、ふと水のせせらぎの音が聞こえてきた。
今佐和がいる開けた空間の先にあるいくつも空いた風穴の天井に水色の光が反射している。
水があるようだった。まるでそのせせらぎに呼ばれるように佐和はそちらへ歩き出した。
ふらふらと、ぼーっとした頭のまま歩き続けていく。
細い洞窟の道をずっと進んで行く。どれくらい歩いただろう。音に導かれてわけがわからないまま右に左に曲がって進んで行った。
唐突に暗い洞窟が開けた。
行き止まりの空間はさっきいた場所よりももっと広く、その中央で小さな泉が水面を揺らしている。
そして、その泉の前に横たわる人物を見た瞬間、佐和は駆け出した。
「海音……!!」
駆け寄ると海音が静かに横になっていた。
良かった。
佐和は涙が溢れるのを止められなくなった。
気を失う前の光景は夢だった。海音の身体は確かにぼろぼろだったけれど、致命傷のような大きな傷はどこにも見られない。
「よかった!海音!……海音?」
抱き上げた海音を揺さぶった瞬間、佐和の身体から血の気が引いた。
佐和に揺さぶられるままの海音の身体はまるで物のようにぐらぐらしている。
「う……み……ね?うそ。うそだよね?」
これは冗談だ。悪い夢だ。だって海音が、海音に限って……死ぬはずがない。
「うそ!海音!冗談やめて!目を開けて!気絶なんてしてないで!ねえ!!」
どれだけ揺さぶっても海音が起きる気配はしない。
認めたくない確信が忍び寄ってくる。その考えを追い払うように佐和は海音を何度も何度も揺すぶった。
「海音!海音!うそだって言って!!お願い!海音!!いやああぁぁぁぁ!!」
佐和の悲鳴が空間にこだました。
なんで。
なんでこんなことに。
神様、うそでしょ。
冷たくなった海音の体を抱きしめた。
「これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ! 」
涙が次から次へとこぼれて止まらない。
嫌だ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。
なんで、なんで、なんで。
どうして異世界になんか来ちゃったの。どうして来て、いきなりこんな目に遭わなきゃいけないの。異世界にトリップした子が死ぬなんて、そんな話聞いたこともない。
ハッピーエンドになるために海音は呼ばれたんじゃないの。海音に限ってこんな展開、ひどすぎる。
「さめろ。さめろ。さめろ。さめろ。お願いさめて……」
海音の力のない身体をさらに強く抱きしめた。
「どうして……こんなことに……!」
「それは貴様の影響だろう」
佐和の叫びに淡々と答える低い声に佐和の肩が跳ね上がった。
「誰!?」
辺りを見まわしても泉の周りには佐和と海音以外誰もいない。
「き……のせい……?」
「気のせいではない」
もう一度しゃがれた声が佐和に答えた。
声はすぐ目の前の泉から聞こえてくる。顔を上げると佐和のすぐ前の泉に杖が突き立てられていた。木でできた杖の先端で丸く青い水晶が光っている。
「つ……え?」
「いかにも」
杖から低い男の声が響いた。
「なるほど。ニムエは運命に敗北を喫したか」
「ニムエ……?」
「ああ、そこにいる貴様が抱えている死体になった娘の事だ。我々はそう呼んでいる」
「死体とか言わないで!!」
自分の大声に佐和の中でせき止めていた何かが決壊した。
「死んでない!海音は死なない!そんな子じゃない!そんな運命に遭うような子じゃない!!」
「そうだろうとも」
まさかの杖の肯定に佐和は目を丸くして、杖を見返した。
「じゃあ……海音は……死んでない……?」
「いいや、その者の命はとうに失せた。それは事実だ。私が言っているのは運命の方だ」
「運命?運命が何だって言うの!?」
佐和の大声に杖は、まるで手があったら耳をふさいでいるような雰囲気を醸し出した。そんな物は無いのに重々しい口を開くように話し出す。
「その者はこの世界を救うべくして呼ばれた者だ。運命に導かれ、この世界に新たなる歴史と光を導く予定であった。しかし、その者は運命の前に膝を折った」
杖の言葉が遠い国の言葉のように聞こえる。意味の分からない言葉の羅列のように聞こえるのに、その言葉が何を指しているのか佐和の中に確信が芽生え始めた。
やめて。それ以上は聞きたくない。
そう思うのに金縛りのように身体も口も動かない。
「貴様という異物がこの世界に来た事で、まるで水面に落とされた石の波紋のように余波が世界を蠢かせた。その影響がニムエの運命を曲げた」
「私の……せい……」
私のせいで海音が死んだ……?
「貴様はこの世界に不要なものだ。だからこそ、コカドリーユは貴様を排除しようとした」
「コカドリーユ?」
「先程ニムエと貴様を襲った怪物だ。奴に襲われ貴様は瀕死の傷を負った。本来貴様の命はとうに失われるはずの物だ」
「でも、私は……生きてる……」
「…ニムエは自身が知る中で最も高度な魔法を使った。自身の命が失われる際にのみ許される禁術だ。己の命と引き換えに他者を生かす魔法」
「私の……代わりに……」
気を失う前の海音の頬を伝った涙が頭をよぎった。何度も繰り返された大丈夫と「これでいいんだよ」という言葉。
身代わりになったんだ。海音は。私の代わりに。
「どうして……そんなこと……」
「我にも解せぬ。なぜこのような者を血筋というだけで。しかし、これで希望は絶たれた」
杖が溜息をついたような気がした。
「これでこの世界の救済の可能性は潰えた。滅びを待つしかない」
「なに、それ……?」
杖の先の青い宝石が二、三度瞬いたように見えた。
「そこにいる貴様の妹―――魔女ニムエは元来この世界を導く者を導く者だ」
「導く者を導く者?」
遠回しな杖の物言いに佐和は胸元の海音を抱き寄せた。
「そうだ。その運命を持ってこの世界を新たなる時代へと導くはずだったのだ。しかし、失敗した。……致し方あるまい。滅びを待つのみだ」
杖の宝石の瞬きがまるで瞼を閉じるようにゆっくりになっていく。
「待って!私はどうしたらいいの!このままずっとここにいることになるの!?」
佐和の叫びに、杖がもう一度深い溜息をついたような気がした。
「元の世界に戻る方法は無い。どちらにせよ貴様の世界もいずれ滅びる。ここでゆるりとその時を待てば良い」
「え……今、なんて……」
絶望の淵に立っている佐和の足元がさらに崩れていく感覚に気が遠くなっていく。
「こちらの世界と貴様らの世界は別の物のようでコインの表と裏のような関係だ。そうだな。簡単に貴様の知識で理解できるように言い換えれば、こちらは貴様らの世界の元となる世界―――別の時間軸の過去と言っても差支えなかろう。こちらの歴史が変われば貴様らの世界も変革する。この世界が滅べば貴様らの世界に続く道は途絶える。それだけの事だ」
「な……そんな……」
いきなりそんなスケールの大きい話をされても困る。
海音の肩にそんなものが背負わされていたのか。海音はそんな雰囲気は背負っていなかったのに。
でも、海音は確かに「私のすべきことがわかった」と言っていた。そんな大きなことを成すために海音は呼ばれたのか。
それなのに、海音は私のせいで、死んでしまった。
私のせいで海音は死んだ。
私のせいで世界も滅ぶ?
「………………その者を生き返らせたいか?」
「できるの!?」
杖の言葉に佐和は伏せていた顔を上げた。けれど、杖の言葉が続かない。
ためらっている。そう感じた。
重い口を開くようにようやく杖が語り出した。
「魔女ニムエはこの世界の導き手を導く運命を遂行すべく呼ばれた者。彼女はやがてこの世界を新たなる時代へと切り開く立役者となる。そして、運命から祝福を受ける」
「祝福……?」
「そうだ。何でも一つ願いを叶えられる」
杖の言葉は佐和に雷に打たれたような衝撃を与えた。
なんでもひとつ。ねがいがかなう。
もしも。
もしも、それが本当なら。
私が願うことは―――。
「……それは、私でもできること……?」
杖はまるで佐和の価値を図るように沈黙していたが、やがて重い口を開いた。
「……可能か不可能でいえば不可能だ。だがしかし貴様の選択肢は異なる」
杖が佐和を見つめた。
「やるか、やらぬかだ」
杖の言葉に佐和の身体が震えた。
やるか、やらないか。そんなものは、決まっている。
腕の中の海音を見つめた。
いつだって瞼を閉じればすぐに思い出せる。両親に友人に教師に世界中の人間にそして、彼に愛されている海音の笑顔が。それを取り戻せるなら。
「……お願い。私を……海音の代わりに……!!」
「……良かろう。では、貴様は何を願う。何を願い、運命の薇を回す」
「私は……」
佐和はこぼれた涙を手の甲で拭い、もう一度海音をしっかりと抱きなおした。
「海音を、海音を生き返らせて!海音を元通りに!こんな事はなかった事にして!!」
佐和の叫びに杖の周りの泉が青く光りだした。その光に照らされた杖が、まるで笑っているように佐和には見えた。
「その願い、確かに聞き入れた。それではこれより先、貴様を魔女ニムエの代行者として認める」
杖が泉からゆっくりと浮き上がっていく。
「しかし、これは正常なる運命に非ず。本来流れるべきはずであった運命を無理に正す。その運命の逆流は全て貴様目がけて雪崩れ込むだろう。ニムエが負うべきだった運命などとは比べ物にならぬ障害が貴様の前に立ちはだかるだろう。それでも決意は変わらぬか」
「どんなことを言われたって……私はやるよ」
「良かろう。では、我を取れ」
一層光出した泉の周りを回るように風が吹き荒れる。
佐和は海音をその場に横たえ、一歩一歩杖に近付いて行った。吹き荒ぶ風に押し戻されながら、佐和は杖に懸命に手を伸ばし、やっとの想いで触れた瞬間、杖が青い光を放ち始めた。吹き飛ばされないように渾身の力をこめて杖を抜くと、神々しい光が両手から溢れ出す。
「ここより北西にカーマ―ゼンという村がある。そこへ赴き創世の魔術師に我を手渡すのだ。彼の魔術師はやがて新たなる時代を切り開く王を導くであろう」
佐和の頭の中に映像が流れ込んでくる。
この泉から洞窟を抜け、その先の野原を進んだ先に小さな村が見える。まるで鳥の目になったような映像が脳裏によぎり、ふっと途切れた。それと同時に佐和の手の中の光が萎んでいく。
「待って!せめてその魔術師の名前を教えて!!」
「彼の者の名は」
光と同じように杖の声が小さく遠のいていく。佐和は握りしめた杖を見つめた。
「魔術師、マーリン」