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「あの日、玄関を開けたつもりが、気がついたらこの世界に来てたの」
洞窟を進みながら話される海音の話に耳を傾けながら、海音の後についていく。その足取りに迷いは見受けられない。
「最初は訳がわからなくて、怖くて、寂しくて……でもそのうちわかったの。私がこの世界に来た理由」
「待って……!海音、あんた今、この世界って言った?ここ日本じゃないの?」
聞きたいことは山ほどあるが、今、一番気になった言葉はそれだ。佐和の疑問に海音は不敵に笑った。
「そうだよ、おねえちゃん!おねえちゃんならきっと喜ぶと思う」
前を歩いていた海音はくるりと回って両手を広げると、佐和にはにわかには信じられないようなことを言ってのけた。
「ここはアルビオン!日本とも地球とも違う世界!」
「違うって……異世界ってこと!?」
「そうだよ!」
嬉しそうに海音が佐和の手を取ってぴょんぴょん跳ねる。
「おねえちゃんの好きな小説みたいでしょ!」
「でしょ!って……そんな夢じゃないの!?これ!?」
「夢じゃないよ!異世界なんだよ!お姉ちゃん!」
「な……なんで……」
そんな小説みたいなことが本当に起こるなんて……。
ぽっかりと口を開けた佐和の顔を覗き込んだ海音が心配そうに眉根を寄せた。
「お姉ちゃんがなんでアルビオンに来たのかは……ごめん。私にもわからないんだ……でも、私はね、ここでやらなきゃいけないことがあるの」
いつもの海音とは違う、強く何かの決意を宿した瞳に佐和は驚いた。
今まで我が家の末っ子で甘えん坊の海音がこんな風に静かに決意をしている姿を見せたことはない。
伸びた髪といい、海音に佐和の知らない時間が流れていることを感じさせる表情だった。
「さっきも言ってたね。やらなきゃいけない事って何?第一、あんたが火を出せたこともまだ理由聞いてないし」
「それは」
答えようとした海音の顔色が変わった。
きっと眉を潜め、前方の暗闇を睨んでいる。
「ごめん、お姉ちゃん。話はまた後でにしよう」
「海音?」
海音の視線を追った佐和の身体が固まった。
少し先、佐和達が進もうとしていた方角からさっきのサソリが何匹も現れて来ている。
大きさに多少の差はあれど、小さいものでも1メートルはある事に佐和はパニックに陥った。
「なんなのあれ!?」
「パピルサグ。この洞窟の番人で、試練」
「試練!?なんの!?」
「……私のなの。ごめん、おねえちゃんを巻き込むつもりじゃなかったんだ……。でもごめん……その……」
気まずそうに目を伏せる海音の表情を見ていると、混乱した頭が不思議と落ち着いていく。
「……わかってる。付き合えって言うんでしょ。第一あんたがいなかったら私、死んでたし」
正直に言えば、この状況も事情もまだよくわからない。
それでも海音とゆっくり話すにはこれをどうにか潜り抜けないといけないことぐらいは佐和にもわかった。
佐和の呆れ半分の返事を聞いた海音の表情がぱあっと明るくなった。
「さすがおねえちゃん!!うん!大丈夫!おねえちゃんは私が守るからね!それに……」
活き活きとしだした海音がサソリに向きなおると、見慣れない海音のベージュのマントが翻る。
「試練もおねえちゃんがいれば心強いよ!」
「その試練とやらも含めて、後でちゃんと全部説明してよね」
「うん、おねえちゃん、私の手を離さないでね」
差し出された手を握り返す。
言われなくとも死んでも離しませんよ、ええ。あんな化け物に一人で囲まれて正気でいられる自信はない。
強く握られた手は暖かくて、海音がここにいると教えてくれる。
少し私より幼い手。小さい頃はよく繋いでいたけれど、もう大学生と高校生だ。なんだか久しぶりの感覚に自分の置かれている状況も忘れて和む。
「じゃあ、行くよ!」
「行くよって……えええええええ!!??」
佐和の戸惑いも気にせず海音がサソリに向かって走り出した。引きずられるように走り出しながら心の中で絶叫する。
いやいやいや、いくらなんでもあんた!それは無い!
佐和の心の叫びをあざ笑うように海音の走りは止まらない。
すぐそこにまでサソリが迫ってきても海音の走るスピードは全く衰えない。向こうも走ってくる人影に驚いたのか奇声を発した。
「うみねええ!!」
「大丈夫!!」
突然海音が繋いでいない手を真横に伸ばした。手のひらを広げ、すぐに握る動作をした。
「ドリヒレオグ!」
海音の握ったこぶしが赤く光り出した。その光が強まったかと思うと海音の拳で炎が燃え上がる。熱くないのか、海音がそのまま拳を振りかざし、殴るように前に突き出すと、拳の炎がサソリに向かって飛んでいく。
飛んで行った炎は一番近いサソリの頭に的中し、炎が燃え上がった。他のサソリがそれを見て一瞬怯みはしたものの、すぐに鋏を掲げなおして襲い掛かってこようとする。
「数が多すぎるでしょ!」
「わかってるよ!それなら……バーブトイコス!!」
海音が天井に手を掲げ、横に動かす。その途端、洞窟の天井が崩れ始め、大岩が降り注いできた。
「ちょ!すごいけど!これじゃ私たちまで!」
「大丈夫だって!ディファンドール!」
サソリの真ん中を突っ切る佐和たちにも崩れた岩が落ちてくる。けれど、そのどれもが海音と佐和の頭上でまるで見えない壁にぶつかったように止まったり、跳ね返った。
気が付けばサソリの群れから抜け出して走り続けている。振り返るとサソリは一匹もおらず、崩れた天井が高い壁を作っているだけだ。一匹残らず落盤に巻き込まれたらしい。
切り抜けた佐和たちは開けた場所に出ても、そのまま走り続けている。
「……魔法みたい」
「そのまさかだよ」
佐和の呟きを目ざとく聞きとめた海音の目が、してやったりといわんばかりに輝く。
「おねえちゃんならきっと喜ぶと思った」
いたずらっぽい海音の顔にもう怒る気力も突っ込む気も湧かなかった。
手を引かれるまま走り続ける。
いや、もうそうじゃないのかもしれない。
佐和は海音の後ろを走りながらにやける口元を一生懸命抑えこんだ。
昔から本が大好きで、ずっと夢見てた。もっと私が可愛くて、愛らしくて、物語の主人公のように愛されるキャラクターだったら……突然異世界に飛ばされたりして、魔法と剣の世界に迷い込んじゃったりして、そこで悩んだり、苦しんだりしながら、でも困難を乗り越えて、たくさんの仲間を作って最後には……運命の相手と恋に落ちる。海音がいなくなる前に読んだ恋愛小説みたいな展開が自分に降って湧いてこないかって。
そう思いながら同時にそんな事はありえないとわかっていて、諦めながら日々を過ごしていた。
でも、今は違う。
海音。
前を走る私より可愛くて主人公の素質を持ち合わせた妹。その妹が今、目の前で異世界に巻き込まれて魔法を使っている。
なんだろ、これ。
……私、わくわくしてる。
振り返った海音の笑顔に佐和は笑い返した。
きっとこれから海音にはたくさんの冒険が待っているんだ。神様に愛されてこの異世界に重要な役目を背負ってやってきたいに違いない。それを私は一番近いところで見守れるのかもしれない。胸の鼓動が高まるのを感じた。その瞬間、
繋いでいた手が離れた。