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その気持ち、恋

「あああ、ごめんなさい」

「いーよ、気にせんといてください」


私の母校の大学で芸術学を専門として准教授という役職についている西田克之にしだかつゆきさんは、現在私と不思議な関係だ。

私は、大学在学時には英語を専攻としていて、芸術学の講義は一般教養課程の範囲内でしか履修できなかった。学年があがるにつれて必修科目の量が多くなり、西田先生の講義は受けにくくなったけれど、私は体調を崩して2回生の途中で休学が決まって、復学してからはとりあえず何年かかっても卒業できればいい、というバイトもしていないのに立派な御身分だった。ので、私は週に1度は西田先生の講義を受けていた。

無事に卒業が決まって、片田舎にあった大学から、田舎だけど少し都会めな地元に戻って私は塾講師のアルバイトを転々とした。

転機があって正社員として就職しようと思った私は、とりあえず事務、という就職口を探して、再び母校の大学にいた。学生と大学、教授の繋ぎをする事務の仕事だ。各学部の各学科に担当の事務員が用意されているようで、法文学部の英米科で学生だったことを履歴書で伝えた際、休学の相談に乗ってくれた小原教授が私のことを覚えていてくれて、是非にと私を推薦してくれたそうだ。小原教授は私が2回生の時点で1児の母で、地元を離れた私の休学という大きな決断を支えてくれた人で、小原教授の下で働くならと私も悪い気はしなかった。


「失敗は誰にでも。あ、岩本さん。お茶いれましょうか?」

「いえいえ、お気遣いなく。」

「僕も飲みたいんで。」

「はあ」


それがどういうわけか、私の仕事のほとんどは、法文学部言語文化学科の芸術学准教授西田氏の雑用だ。英米文学の先生方はなんでもひとりでこなしてしまうし、アジア文学の先生方はなんというか、引きこもりで人見知り、あまり助けなどは受けてくれず、私を使ってくれるのは哲学専門の准教授の安元先生とアメリカ人准教授で英語学専門のジョーンズ先生と、そしていま目の前でお茶を入れてくれている西田先生だけだった。特に使用頻度が多いのは西田先生だけれど。


「寒くなりましたね。」

「あ、はい。もう少ししたら、朝は雪ですごいんでしょうね。」

「君の地元はあんまり雪降らないんやろ?ここはほんとすごいから、気を付けた方がええと思いますよ」

「あー、はい」


当然と言えば当然だが、西田先生は私が元生徒であることに気付いていない。大勢の中の一人で、それも数年前に週に数回会うか合わないかの生徒だから、私を覚えていない、もとい認識の範囲外でも、しかたはない。なんだか、寂しいけれど。

西田先生は京都が長かったらしくて、イントネーションがやわらかいし独特だ。なんていうか、男の人の、聞きなれない方言の混じった話し方は、艶っぽいと思う。


「あれ?疑ってます?」


歯切れの悪い返事をした私に、西田先生は首を傾けた。きれいな、量の多い黒髪が揺れる。西田先生は、大学の先生らしい、人と距離を測るような丁寧語で話す。私が大学生時分も、誰に対してもそんな話し方だった。イントネーションが柔らかいからか、笑顔が柔らかいからか、独特の柔らかい雰囲気からか、なぜかはわからないけれど、他の先生方と同じなのに、なんだか憎めないし威圧感も感じない。

だから、そう。西田先生は同性の学生にも、異性の学生にも、とても人気がある。


「疑ってませんよ。西田先生は、冬休みは新幹線でびゅーん、ですか?」


なんだか、つまらない。西田先生は私が学生の時、単身赴任だ、と授業中によく笑い話でしていた。大きな休みの前になると、「課題については今ここで質問してください。金曜の講義が終わったら、奥さんのとこに新幹線でびゅーん、ですから、ね」と話していた。噂では子供はいないって聞いたけれど、子煩悩な父親になりそうな人だと思う。


「ええ、なんで君、それ知ってんの?」

「いやー、内緒にしてようかと思ったんですけど、私、卒業生なんです。大勢の中の一人だし、言語文化でしたけど、英語だったんで、芸術学は週1でしたし。忘れてるとは思ってたんですけどね。へへへ。」


と、少し嫌味ったらしく早口で言ったのは、西田先生は私の名前を聞いても無反応で、自分だけ西田先生を覚えていたことがなんだか悲しくてイライラした、就職したばかりのことを思い出したからだ。


「えー、岩本さん、何歳です?」

「25歳ですけど、先生、女性にそんな年齢とか聞いちゃだめですよ」

「うーん」


でも、西田先生はなんていうか、申し訳なさそうに考え込んでしまって、私は自分の方が余計申し訳なくなってしまった。


「あの、西田先生」

「ちょっと待って、今、3年前の記憶を」

「あー、えっと、ごめんなさい。嫌味なんで、気にしないでください。」

「え」

「私、そんな先生と交流なかったですし」

「あの」

「はい」

「嫌味やったの?」

「え、あ、はい」


なんていうか、ほんとうに西田先生は変わっている。

在学時に、芸術学専攻の学生たちと談笑している西田先生を遠巻きに見て、なんだかうらやましい気持ちだったことを、思い出す。


「んー、僕ね、新幹線でびゅーん、はしませんよ」

「え?なんでですか?」

「離婚です。3年前に。」


コップに口をつけて伏し目がちな先生の表情がわからない。けれど、自分が出過ぎたことを言ってしまったのがわかって、なんだか胸が苦しい。


「ご、ごめんなさい」

「確かに4年くらい前は授業でそんなこと言っとったなあ」

「あの」

「まあ、あれです。遠距離なんてのは、うまくいきっこないってことですよ」

「西田先生、ほんとうにごめんなさい」

「大丈夫ですよ、嫌味なので」

「え?」


平静を装いつつ大パニックの私を知ってか知らずか、コップを置いた先生はいたずらっぽく笑っていた。してやったり、な顔だ。


「い、嫌味ですか?」

「うん、やられたらやり返す。」

「目には目を、ですか?」

「ハンムラビ法典?んー、今回はそれとは違いますよ。あれは、受けた害には同じ害で返せって、仕返しに上限をつけて復讐にブレーキをかけてるん。単にひどいことしたら仕返しオッケーっていうことではないんですよ」

「え、そうなんですか?へー」

「でもまあ、僕の今回のは、違いますね。だから」

「へ?私が嫌味を言ったので嫌味を返したんですよね」

「んー、まあ、そのつもりだったんだけど」

「え?」

「なんか、同じことで仕返ししたのに、君は予想以上な顔してるから」


パンッ!と私は両頬を勢いよく挟んだ。


「え、変な顔です?」

「え、痛くないの?」


同時に趣旨のずれたことをお互いに浴びせたものだから、数秒後、私と西田先生は笑いが治まらなくなってしまった。

それから、たわいもない談笑をして、作業に戻る。西田先生は一般教養の講義を大目に持っていて、資料が大目だ。芸術学だから資料がないとやっていけない、らしい。今までは大量にコピーしてどれがどれだかわからなくなって授業であわてていたらしいが、学部長の授業では資料は多いけど、全部ホッチキス止めで半分に折って配布していることを聞いたらしい西田先生は自分の講義でもそれを実行することに決めた。私は週に何度か、西田先生の教室でその資料の整理を手伝っているのだ。

今日は金曜で、土日を挟んで1限目から講義のある西田先生は、なんとか今日中にその作業を済ませるつもりだった。

だから、すべての作業が終わったときは、もうすっかり夜だった。


「すんません、結構遅くまで付き合わせて」

「大丈夫ですよ」

「送りますよ」

「いやいや」

「送らせてください、もう夜遅いし、危ないし。な?」

「んー」


私の家は、古びた小さなコーポだ。家賃3万円。大学生の時住んでいたところをまた借りたのだ。立地条件は、大学からは徒歩20分といったところで、周りは街灯があまりない。


「あ、そうだ。」

「へ?」

「食事、行きましょう。こんな時間だから、ファミレスくらいしか空いてないけど、だめ?迷惑かな?」

「迷惑じゃないですけど」

「じゃ、決まりで。40歳手前の独身男性に癒しをください」


その言い方が、なんだかかわいかったので、明日は休みだし、私は深く考えずにファミレスで食事をとることにした。

ところで、私は西田先生は30代前半だと思っていたので、意外と年上であることに少なからず驚いていた。

大学の近くにもファミレスはあったけれど、大学生がうようよしているから、という理由でそこは却下された。私は大学周辺しか地理を知らないので、おとなしく西田先生にお任せすることにした。


車は白い乗用車だった。AT車で、どうぞ、と言われるまま乗り込んだ私は、父親以外の異性の車に二人っきりという状況に酔ってしまいそうだった。


男性には免疫がない。なんというか、そう、小中高といじめにあっていて、男性の優しさに免疫がない。父親はあまり、私のことを好きではなかったので、優しくされた、という経験は本当に。

考えないようにしないと。

車を走らせ出した西田先生は口数が少なくて、私も黙っていて、車は静かに走るし、温かいしで、眠たいな、なんて考えて、気づいたら眠ってしまっていた。


「岩本さん、岩本さん、…有加さん!」

「んー」

「岩本さん?もー、男の車で寝んでくださいよ、助手席でぐーぐー寝るのはマナー違反やと思いません?」

「あ、あれ?」


目が覚めると、西田先生の困ったような顔が覗き込んでいた。少しなら寝てもいいかな、と最後に考えた記憶があったので、私はサーッと青ざめ、反対に体温がカーッと上がった。

マナー違反、という言葉が、社会人失格、と同意に思われて私は仕事のミスをしたような気分になり、沈み込んでいた体をあわてて起こした。近かった西田先生の体が離れていって、揺り起こすために触れられていた西田先生の手が腕から離れる。そこで初めて、西田先生との距離とぬくもりと、彼の匂いを強く意識した。


「すいませんでした…」

「まあ、いいですけどね。寝るまで疲れさせてしまったんは僕ですから」

「あの、ごはんは…」

「一度ファミレスについたんですが、呼んでも揺すっても起きなくて、仕方ないからドライブして、それでも起きないんで戻ってきました。」


大学教員の専用駐車場は大学から少し歩いたところにある公園の隣にある。窓の外にぼんやり街灯に照らされてすべり台が浮かんでいる。

せっかく街中まで車を走らせてくれたのに。

謝罪の言葉を考えたいのに、混乱してしまう。

せっかくの食事だったのに。

なぜだか、胸がきゅうと痛くなった。

西田先生を怒らせたかも。

西田先生に呆れられたかも。

謝らなければいけないのに、私はふと、大学時代のことを思い出していた。

芸術学の専攻の生徒と談笑する西田先生。

そして、教室の一番前の席で、先生にとても近い所から、それをうらやましく見ていた私。名前も知られていない。必死にレポートを書いてA判定で返ってきても、休まず講義に出てメモを取って真剣に授業に臨んでも、私はあの子たちのように西田先生に名前を覚えてもらえないし、気にかけてもらえない。

学生の一人として、講義後に質問に行けば、分け隔てない笑顔で私に対応してくれるけれど、先生の休日は奥さんのもので、英語専攻の私は研究室に入る理由すらなくて、学部棟の2階の先生の部屋を想像しながら、3階の担任の部屋へ行った4年間。

ああ、なんで、泣きそうなの。

泣きそうなのではなくて、泣いているのもわかって、自覚すると嗚咽が漏れてきた。

これでは子供だ。


「ええ、岩本さん!?泣いてるん?」

「ちが、っ、ごめ、なさっ」

「ご、ごめん、僕ちょっと嫌味のつもりで、ほら、嫌味っていうのは、なんというか、あー、そのですね?」

「うー」


西田先生が困っている。

泣きやみたくてごしごし目をこする。


「あ、あかんよ!目、痛くなるよ!」


それでも涙は止まらないので、ごしごし目をこすっていると、西田先生がシートベルトを外す音がした。自分のすぐ右横に先生が左手をついて、座席がぎしっと音を立てる。そして、先生の右手が私の右手をぎゅ、っとつかんだ。


「ふ、うっ」

「あ、こら」


右手がつかえないので、左手で目をこする。泣いたのは久しぶりで、でもみっともなく嗚咽をもらすのも恥ずかしくて、私は唇をきりきり噛みしめてそれをなんとかこらえたけれど、涙のほうは止まらなくて、なんだか窓ガラスに頭をぶつけたい気分だった。痛みで相殺されて止まるかもしれないし。でも、先生の車の窓に何かあったらそれも嫌で、私も困ってしまっていた。


「暗いな」


先生は一度手を放して車のルームライトをつけた。少し明るくなって、私は泣いているのが恥ずかしくなってきた。でも、それで余計に泣けてくる。


「ごめん、僕が意地悪しすぎたな。」

「ち、が、ちが、う、っで、すっ」

「あー、あんま見えないな。岩本さん、目痛くない?」


なんていうのか、泣いているのは自分でもなぜなのかわからないのだ。右手を再びつかまれて、ついでに左手も右手と一緒につかまれた。


「え」


すごい。

それに私はとてもびっくりして、西田先生の右手と、そこにおさまる私の両手首をパチパチと見つめた。

なんだか、涙が止まってきた。


「にしだ、せんせ、え」

「はい、何です?大丈夫?」

「西田先生の、手、大きいんですね」

「は?」


西田先生は、驚いたような声を出している。表情が気になって先生の顔を見ようとしたら、視線は私から外れていて、西田先生も手を見ていた。


「まあ、君のよりはね」


私は痩せている方ではないから、少なからず体型にはコンプレックスがある。一般的な女の子と同じくらいには。私が、美容体重ではなく平均体重、なのがその証拠というものだ。


「僕も男ですからねえ」

「そう、みたいですね」

「んー、釈然とせんなー、その返事」

「大きい」

「落ち着きました?」

「…すいませんでした」

「いいよ。僕は怒ってないし、今もさっきも」


涙がひっこむと、今度は顔の内側から熱が皮膚にむかっていくような感じだ。

今度はそのせいで顔があげられない。なんだか、恥ずかしいのだ、今まで泣いていたことが。それに気のせいかもしれないけれど、また視線を感じるし。


「なんで、泣いとったんです?」

「か、悲しくて」

「まー、だいたいそうやろうね」


自分の返答が曖昧だったことがさらに恥ずかしくなってくる。阿呆が露呈した気がする。


「す、すいません」

「もう泣いてない?」

「泣いてないです」

「よかったー」

「すいません」

「よく謝るね。あ、目を家に帰ったら冷やしたほうがいいと思いますよ」

「は、はい」


座席が軋む。西田先生が手を放して離れていった。


「いやー、でも」

「はい?」

「びっくしりた」

「わ、わたしもです」

「疲れてるんと違いますか?最近忙しくさせてしまったし」

「や、お仕事ですし、それに先生の補助ですから、私の倍以上先生の方が忙しいじゃないですか」

「まー、そうですね」


そこで会話が途切れてしまった。

なんというか、私はあまり会話がうまくなくて長く人と話が続いたことがない。引き出しが少ないし。岩本さんと話してもつまらない、とはよく言われたし。でも私は沈黙が嫌いだ。だから、なにか言おうとして、空まわることが多い。つまらないことを、話して、話して、話して。みんな面倒くさくなるのだと思う。

西田先生の講義は、内容はとても難しい。西洋の絵画は時代背景も歴史的なことや宗教的なことが絡んでいるからだと思う。でも、西田先生の講義に出席する人は、ほとんどみんな眠らない。英語学の授業なんかは、机と仲良ししている人が本当に多い。教養でとった数学の授業でもそうだったし、西洋史の授業でもそうだった。私が机と仲のいい人の多い講義ばかりとったのかもしれなかったけれど。でも私は西田先生の講義は寝ない人が多いと思う。だって、西田先生は話がとてもおもしろいからだ。わかりやすいし、興味をそそられる。印象深いし、耳に入ってくる。


「岩本さん、家まで送りますよ」

「え?」

「さすがに、そろそろ送ります。卒業生で、もう職場の人、とはいえ女の子だし。さすがにこんな遅くまで連れまわせません」


車内の時計は日付が変わっていることを示していた。


「あ、じゃあ、お願いします。」

「近くまで、ではなくて家の前まで送らせて」

「や、大丈夫ですよ」

「いや、だめです。最近物騒だし」

「あ、そういえば、最近学生が車に連れ込まれそうになった話、掲示板の紙で見ました」

「そうそう。だから、送らせてください」

「うーん、でも私の家…コーポなんですけど、前の通りの道あんまり広くないし」

「いい、気にしない」

「んー」

「大丈夫、送り狼にはなりませんから」

「知ってますよー」


結局、私の住むコーポの駐車場に車を止めてもらった。街灯の少ないことに驚いた西田先生は、送らせてもらってよかった、と小さくつぶやいた。


「ありがとうございました」

「いえいえ」

「あー、あの」

「はい」

「本当、眠ってしまって、すいませんでした」

「いえいえ、こちらこそ泣かせてしまってすいませんでした」

「いやいや、なんか、たぶん、自分が情けなくってです。そのこともすいませんでした」

「いえいえ、ごはん御馳走するつもりだったのにできなくてすいません」

「や、私が寝てしまったから、すいません」

「んー」


ペコペコと頭の下がる会話ののち、低くうなった西田先生は大きくため息をついた。


「負けました」

「へ?」

「岩本さんはよく謝るね。」

「すいません」

「また」

「あ」

「謝り勝ちしようと思ったんですが、もう謝ることが見当たらないな」

「はあ。でも、それは先生が謝るようなことをしていないからでは」

「んー。でも、岩本さんだって謝るようなことはしていないじゃないですか」

「え、いっぱいありますけど」

「そうだった?」

「は、はい」


食事に誘われたのに、お店はまかせっきりで、運転もまかせっきりで、助手席で眠って、起こされても起きず、ドライブ中も寝続け、駐車場で起こされて今度は大泣きして、結果食事はできず、女の子だから、という気遣いで家まで送ってもらった。

さて、謝らない要素が見つからない。


「じゃ、リベンジしましょう」

「え?」

「今回ご飯を食べられなかったので、なんだか何が何でも岩本さんと食事をしないと気がすまない。」

「はあ」

「そして岩本さんに謝られ勝ちされて、それも悔しい」

「はあ?」

「ので、空いているときに今日のリベンジをしましょう。いい?」

「え、あ、はい。」

「謝る件については、僕には才能がないのか、岩本さんに才能がありすぎるのか、どちらにしろ勝てる気がしないので、ハンデをください」

「ハンデ?」

「岩本さんは僕が謝り勝ちするまで、ごめんなさい、すいません、を僕に対して絶対使ってはいけません」

「えええ」

「決まりました」

「や、それは」

「協力してください。お願いします」

「あの、協力はいいですけど」

「ありがとう」

「でも、私に謝るのが、勝ちなんですか?それ」

「はい」

「その、それってメリットは?勝ってもいいことない気が」

「メリット…ありますよ」

「そうなんですか」

「はい、そうなんですよ。てことで」

「はい?」

「よーい、スタート」


かくして、私と先生の変な再勝負が始まってしまった。

やっぱり先生は変な人だ。

その日から、先生は頻繁に食事に私を誘ってくれるようになった。

リベンジ、と言っていたので1度きりの食事だと思っていたけれど、あの日の空腹を思うと、ここの食事より、あそこの食事のほうがリベンジにはふさわしいかもしれない、とか、このメニューよりあのメニューだったかも、とかで、凝り性の先生はまだまだリベンジ継続中だ。

コーポと大学周辺の世界に生きていて、知り合いも家族も仕事のない時間に一緒にあってくれるような人も近くにいない私には、さびしかった日々が薄れて、お財布の中身が大変なこと以外は、とてもうれしいことだった。

ただ、謝り勝ち勝負については、なんとも難しい。

私は謝るのが癖のようになっていたみたいで、ついついルール違反をして先生に謝ってしまう。「今度謝ったら、次から罰ゲームつけるから」という恐ろしい宣告までいただいてしまった。


週に4日はお昼の先生の研究室や街中での夕食を一緒にしても、西田先生は飽きる様子はなかった。あれから2か月はそんな日々のローテーションだった。先週までは。


ここ1週間、私は本当にあくせくと働いている。今までは資料の整理やパソコンの入力作業で、まんま事務だったけれど、いまはどちらかというと肉体労働。本当に肉体労働をしている人からしたら事務かもしれないけれど。

フランス語・フランス文学の島本先生が復帰される、という話を受けたのが2週間前。学部の教授たちで復帰パーティーをすることと、旧学部棟から新棟に島本先生の書籍や私物をまるまるお引越しすることになったことをその時に聞かされてはいたけれど、入試後期と新入生の受け入れの時期がそれに重なったことが私の今まで以上の重労働の原因だ。

入試や新入生関係の仕事は失敗は許されないので、経験のある職員が担当する。私は働き出して短いのでもちろんその仕事はまわってこなかった。教員は新年度のカリキュラムを組んだり、卒業生のお世話がいよいよ、というところなのでてんてこ舞い。それに通常の講義もあって大忙しらしい。

芸術学は例年専攻する生徒が少ない。英語を専攻して英語の教員免許、とかアジア系を専攻して国語の教員免許、という就職を見据えた生徒が多いからだ。うちの大学で芸術学を専攻しても、美術の教員免許はとれない。夏休みを削って講義に参加して、学芸員の資格が取れるのが関の山といったところ。だから、西田先生も忙しいは忙しいけれど、他の先生方よりは忙しくない、ということらしい。島本先生関係のお手伝いをどうぞ優先してください、と言われて、少しさびしいような気持ちになったけれど、仕方のないことだった。すいません、は禁止されているのでなんと返そうか口をつぐんだ私をどう思ったのか、西田先生はまあ、と切り出した。「哲学の専攻も学生は少ないから、安元になんとかしてもらうし」と言われた時、安元先生の人のよさそうな困った顔が浮かんで、消えた。安元先生はきれいな標準語を話すけれど、西田先生と同じで京都が長いらしい。同時期にうちの大学に入った年の近いふたりで研究室が隣だからか、仲がすごく良い、と聞いている。二人はタメ口で話すし、会話で結構きつい冗談も笑ってかわすので、本当に仲が良いのだと思う。


「ふう」


事務員は階段を使うべし、エレベーターは禁止。

旧棟にはエレベーターはもともとないけれど、新学部棟には入口を入ってすぐのところにエレベーターという誘惑がある。使えないのは不便だし、すごくすごく使いたいけれど、やはり使えない。事務の先輩方がいる建物からは非常に離れた距離に法文学部棟はあるので、使ってもばれないけれど。法文学部棟にある事務室は今私が使っている正面玄関とはちがう玄関のそばにあるから、そこの先輩方に見つかる、ということもまあ、ないけれど。

本当は1度だけずるをして使った。そのときに、3階までの時間が気が遠くなるほど長くて、穴が開くんじゃないかっていうくらい胃が痛くて、持っていた書籍がとてつもなく重く感じられて、セキュリティーのことはよく知らないけれど、もしかしてエレベーターに監視カメラがあってたまたま見つかったりなんかしたらとか、故障して動かなくなって救出なんかされたら、とか。

まあ、いろいろ考えさせられた結果、使わないのが一番いいという結果に落ち着いたのだった。


一日に段ボールを持って旧棟の3階から新棟の3階まで上がって降りて上がって降りて1週間。すごく、筋肉痛だ。小さいころから運動はあまりやらなかった体力のなさが今ここで、私に追い打ちをかけている。

2階のを通り越して3階に行くのは、大学生の時2階の西田先生の研究室に行きたくてたまらない、と思いながら担任の教授の部屋へ提出物を持って行ったころの自分を思い出す。


「岩本サン、ありがとうございます」

「いえ。島本先生が帰ってくるまでもう少しですね」

「そうです。楽しみ、です」


フランス人准教授のロベール先生は、笑顔で、ちょっとかたい日本語を口にして喜びをにじませる。島本先生は、私が休学して帰ったらもういなくなっていた。1回生の時に第二外国語にフランス語をとった私は、島本先生にもロベール先生にもとてもお世話になった。フランス語は、私は学び易かった。英語という言語の学習に何度もつまづいてきたから、新しい言語を一から学ぶのに、ある程度の心構えがあったので、基本を本当に一生懸命ものにしようと予習復習をかかさなかったし、フランス語の映画はいくらでもレンタルできたのでたくさん見た。ハリウッドの映画が好きな私だったけれど、フランス映画の独特の世界観にもすっかり魅了されて、フランス語の勉強自体も苦ではなかった。大学時代の自慢を上げるなら、フランス語の成績が2年連続1位だったことだ。数回のテストの結果の合計点で順位を出す、と知ったのは掲示板の1位の横に自分の名前があることに気付いたあとだったけれど、毎回のテストで100点をとっていたので、さらなるご褒美に私は本当にうれしかったのを今でも覚えている。ロベール先生と再開したのは、今回の島本先生の研究室のお引越しの際だったけれど、ロベール先生は私のことをなんと覚えてくれていた。教師と生徒から、職場の人間同士、となって、まあ、教授と事務員なんて同じ位置にはいないけれど、でもなんだか、不思議な気分だ。


「あ、こんにちは」

「小原先生!」

「わー、すごい量ですね」

「そうなんですよ」

「岩本サンは、力、ありますよ」

「へー」


小原先生が様子を見に来てくれたのは、2回目だ。飄々としているけれど、お母さん、という感じの笑顔で、ロベール先生と会釈を交わす。

ロベール先生は真剣な表情で毎回、私のことを褒めてくれるので、なんだか学生の時に戻ったような気分になる。


「あ、岩本さん、ちょっといい?」

「あ、はい。ロベール先生、次の段ボール持ってきます!」

「はい、私は、棚に、入れておきます」

「お願いします!」


部屋の外に立ったまま私を呼んだ小原先生は私の返事を聞くと階段とは逆のほうへ歩き出した。向こうは小原先生の研究室がある。

長居になりそうな予感がして、私は足を止めた。


「小原先生?」

「ああ、ちょっと部屋に来れます?」

「あー、どう、でしょう」


きっぱり断りづらくて言葉をにごしたら、小原先生は少し考えるような顔をした。


「ま、いいでしょう。」

「え?」

「あ、あのね、体調大丈夫?」

「あ、はい、大丈夫です」

「そっか、要件はそれです」


休学の手続きを手伝ってもらったのは小原先生だ。

心配をたくさんかけてしまったと思っていたけれど、現在進行形らしい。


「ありがとうございます」

「いえいえ、顔色は悪くなかったから、大丈夫かなとは思ったんだけど、一応ね。あ、そうだ

「はい」

「ジョーンズ先生と安元先生が、岩本さんが休学した理由を知りたがってるんだけど」

「え?」

「言ってもいい?」

「は、はあ。構いませんが」


ジョーンズ先生と安元先生は、とっても仲がいい。

ジョーンズ先生は、気さくで日本語も上手な優しい先生で、安元先生も気さくでおもしろい先生だ。安元先生は学生曰くヲタク、ジョーンズ先生は学生曰く話の分かる若い大人、だ。二人が仲がいいのは、二人の講義を受けるととても信じられないけれど、二人とも我があって自分の意見を強く持っている点でお互いを認め合っている様子。西田先生と安元先生が仲がいいからか、ジョーンズ先生と西田先生も仲が良い。大学の友人、と言われたらあの二人かな、と西田先生は言っていたので、3人で仲良しなのだと思う。二人には作業のお手伝いをさせてもらったことはあるけれど、西田先生同様二人も私を覚えてはいなかった。二人には早い段階で卒業生であることは話したのだけれど。


「あの」

「私も、なんでそんなこと知りたいのか聞いたんだけど、教えてくれなかったので、よくわかりません」

「はあ」

「でも、まあ、許可はもらったし、また聞かれたらお話しするかも。質問の意図が気になるなら、お二人に直接聞いてくださいね」

「あ、はい、ありがとうございます!」

「いえいえ、引き留めてごめんね。頑張ってください」

「はい!」


疑問は残ったけれど、仕事はもっと山のように残っていたのであとで考えることにして、私は、私を待つ段ボールのもとへ、足をはやめた。


そんな段ボールとの往復が終わりを迎えようとしていたある日、段ボールを持って入った部屋の中には、ロベール先生のほかにもう一人。


「あ、こんにちは」

「ハイ!」


ジョーンズ先生がいた。

英会話からずいぶん離れていた私には聞き取れない、英語での会話で盛り上がっていた二人は、戻ってきた私を見つけると、会話を辞めてこちらを向いた。

段ボールを置いて顔をあげても、まだ二人がこちらを見ていた。


「岩本サン、私、知りませんでした!」

「え?なにをですか?」

「岩本さん、ボク、西田先生と友達ね。情報通よ!」

「えっと、ジョーンズ先生に、西田先生が何か言ったんですか?」

「イエス!」

「なにを言ったんでしょう?」

「岩本さんと、西田さんが、デートしてることね!」

「え?デート?」

「何回も食事二人でしたんでしょう?デートですね」

「あー、それは」


二人は私と西田先生が交際していると思っているのかもしれない。


「えっと、西田先生とはお食事させていただいてますが、お付き合いさせていただいているわけではないんです」

「岩本サンと、西田先生は、友達なだけですか?」

「え、いや、友達では、ないです。どちらかというと、上司と、部下?」


二人は顔を見合わせてから、詳しい話を聞きたがった。

西田先生と二人で食事していることは、ジョーンズ先生に西田先生から言ったわけだし、少し言葉を補うくらいなら、大丈夫かな。


「最初は、作業が遅くなったので、家まで送って下さると言ってくれて、せっかくだからごはんに、ってことになったんです。でも、お店に着くまでに私助手席で眠ってしまって、ごはんはその日は行けなくて、その日行けなかったから今度こそ、っていう話になって、それから何度かご一緒させていただいてます」

「何回くらい行ったんですか?」

「え、えっと…数えてないですけど」

「岩本さん、それはデートだよ?」

「え、でも」

「西田先生、独身だから問題ないね」

「男性が女性を食事に誘うのは、気になるからと、思います」

「2回デートするのは、好きだってわかったから、ね」

「まず外でデート、次に自分の家、それで、恋人です」

「日本人は、告白、ふつう、するね!アメリカ人の、プロポーズみたいな、ね」

「ああ、そうですね!フランスも、きっかけに、あまり、告白らしい、告白はしないですが」


盛り上がる二人を前に、私はえ、え、としか溢せない。

すっかり眼中から外されてしまった私は、背後の足音に振り返る。


「あ、安元先生」


安元先生は、段ボールを運び入れやすいように開けっ放しにしていたドアを、引っ張って閉める。


「声、でかいですよ、お二人さん。」

「安元先生!」

「ジョーンズ先生、西田に怒られますよ。岩本さんと食事してるのは、シークレットって言ってたでしょ」

「でも、西田先生の久しぶりの恋愛、応援、ね」

「私も、応援します」


女子の私より女子みたいに恋愛トークを繰り広げた二人の返しに、安元先生は一度私をちらりと見てから、小さく息をついた。


「この間の水曜、西田の研究室に、佳苗さん来てたんだよ」

「かなえさん?」

「リアリー!?」


知らない名前に反応した私の声を覆うようにジョーンズ先生の大きな声が安元先生に詰め寄った。

かなえさん、を知らないのは私だけでなくロベール先生も同じだったようで、誰、の質問をした。


「ああ、西田の元奥さんですよ、ロベール先生」


西田先生の奥さん。かなえさん。この間の水曜、研究室に。西田先生に会いに来た。


「なんていうか、たまたま西田に用があって行ったら、佳苗さんもいて。うん、雰囲気は悪い感じではなかったけど」


言いにくそうに、でも言った安元先生の言葉を聞いたあと、ジョーンズ先生とロベール先生は二言三言また聞き取れない英語で会話した。そして私に頭を下げた。

勘違いで盛り上がって、すまなかった、というような内容だった。


安元先生が、「大丈夫か」と声をかけてくれたので、「何がですか?」と返した。なんというか、復縁というのは、よくあることなのかもしれない。西田先生がどんな理由で佳苗さんと離婚してしまったのか、「遠距離はうなくいかない」といっただけの西田先生の言葉からはわからないけれど、お休みごとに新幹線で、びゅーん、だったくらい西田先生が愛した、人、だったのだから。一度結婚したくらいだし、簡単に思いなんてなくならないだろう、と思う。


必死になってやった段ボール運びもようやく区切りがついたころ、私はまた西田先生の作業のお手伝いに戻ったのだった。作業が再開した日、もしかして食事に行くのかな、と思ったけれど、定時に作業が終わると、「用事があるので」と西田先生はそそくさと帰宅した。しばらくして、「食事に行きませんか、久しぶりに」と誘われて、私は即答でそれを断った。なんていうか、なぜ断ったのか自分にもよくわからなかった。一瞬西田先生は表情を変えて作業の手をとめたけど、「そうですか」と言って、それきり私を誘わなかった。私は「すいません」と謝ろうとしたけれど、ハンデのある謝り勝ちのゲームを思い出してそれを声にしなかった。


西田先生はもう、こんなゲームの事なんてどうでもいいのかもしれない。

忘れていてもおかしくない。


そう思い直したのに、それ以降も「すいません」と言おうとして、声に出さない、出せない日が続いた。


大学生の時、西田先生と談笑している学生がうらやましかった。西田先生に気にかけてもらって、名前を覚えてもらうことは、とても手の届かないところにあるようだった。

就職して、作業を手伝わせてもらうようになって、一緒に食事をしてまわって、一度はそれに手が届いた気がしたけれど。


今、このゲームを手放したら、大学生のころに戻る気がした。

西田先生はすっかり興味をなくしていても、そのハンデを私が、一方的にでも、気に留めて生活することで、あのころに自分の位置に戻らないでいられる気がした。


空気は、なくなってはじめて、そこにあったことに気付く。

最近、なんだか息苦しいのは、私がそれをなくしていることに、気づいていて知らないふりをしているからだ。


私は、西田先生にもうずっと、恋をしているんだ。



(続く)

唐突に思いついたネタですが

意外と妄想が尽きないので、

連載中の小説をあとまわしにして

しばらくは

こちらをメインに更新します。



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