半身
「・・・サリーツァ」
ぽつり、無意識に呟けば、脳裏にたおやかで優美な肢体が浮かんだ。
黄金色の艶やかな腰まで伸ばした長い髪が宙を舞い、白魚の様な手足がひらひらと翻る。
細く軽い華奢な身体が、大地を踏みしめて、ぽんぽんと弾む。
それを見ていると、まるで彼女の足に羽根が付いているかのような錯覚に陥った。
―――――かくも美しき人は、この世の何処にも居るまいよ
当時、隣で彼女が踊る様を一緒に眺めていた人の、感嘆と共に落された呟きは、未だに頭の中にこびりついている。
サリーツァ・・・サリは、とても美しい人だった。
華奢でありながらも円やかで女性的な肢体と、輝く様な白い肌、金糸のような髪と透き通るような青空の瞳をもつ、まるで女神さまと見紛うような、そんな人だった。
見た目の美しさも然ることながら、彼女は声も鈴のように透き通っていて、尚且つ極上の舞手でもあった。
年に一度の大祭の折、彼女は最上の舞手として、歌い手として、祭りを盛り上げた。
けれども、天がたった1人の人間にいくつもの加護を与えてしまったことが、彼女の運命を決めた。
女神さまと見紛うようなひとは、同胞によって、現人神として祀り上げられてしまったのだ。
彼女がそんなことなどは欠片も望んではいないと、知っていた人間は少なからず、居た。
けれども多勢に無勢、彼女は、一夜にして手の届かない所へ行ってしまった。
身分も地位もない市井で生きることを好んでいた彼女は、たった独りで壇上に立たされ、親しい人間も居ない中、まるで雪が解ける様に、僅か数ヶ月後に儚くなった。
彼女は、人の中でしか、自分の生きる価値を見出せない人であった。
たくさんの人に触れ、たくさんの声を聞き、そうして生きることを喜びとしていた。
誰かが喜ぶ姿を見るのが好きだと、まるで華が綻ぶように笑っていた。
舞を捧げることも歌を歌うことも全て、誰かの笑顔が見たいからだと。
その為だけに、今ここに居るのだと、そう言って、見ているこちらが泣きたくなるような顔で笑った。
彼女は、人という種を、心から慈しみ、愛していた。
けれども、そんな彼女は、人のせいでその命を落としてしまった。
もう、何処をどれだけ必死に探しても、彼女は居ない。
あの笑顔も、声も、触れる身体も、今や硬い土の中だ。
「サリーツァ・・・サリ、ごめんね」
ぱたり、ぱたりと水滴が絨毯を叩く。
止め処なく流れ落ちる雫のせいで、目の前がぼやけて見えなくなった。
望まぬ地位、望まぬ評価を誰よりも厭うていた彼女。
彼女の願いを、誰よりも自分は知っていた。
産まれた時から引き離されるまで、ずっと側に居た、私の片割れ。
己の命の半分、それが彼女だったのに。
黒い髪に紅い目というおぞましい容姿の自分と、金髪碧眼の美しいサリーツァは似ても似つかない。
けれど切っても切り離せない絆を持つ、二卵性双生児としてこの世に落された。
サリーツァは母で、自分は父の血を色濃く引いたらしい。
双子だと言っても信じてくれる者は居なかった。
それでも、サリーツァと自分は、血を分けたこの世でたった2人の、人間であった。
サリーツァの舞や歌に合わせて楽を奏でることだけが、醜い容姿に生まれた己に許された、唯一だった。
彼女が居るからこその、私であったというのに。
「ごめん・・護れなくてごめんね、サリ。
1人で死なせてしまって、ごめん・・・」
ごめん、ごめん、ごめん。
私が、外に居る時は常にフードを目深に被らなければいけないことに、誰よりも傷ついた顔をした。
この醜い容姿が他人に見られ、罵倒された時は、私の代わりに怒り、立ち向かっていっていた。
石や物を投げられた時は、自分の身体を盾にしてまで、護ろうとしてくれた。
いつだって、全力で愛していると伝えてくれていた。
大事な大事な、私の妹。
命より大事だったのに、何よりも護りたかったのに、みすみす死なせてしまった、己の半身。
もう二度と、会えない。
「ごめん、ごめんなさい・・サリ、ごめん、ごめんね・・」
無意味な謝罪が口から零れおちて行く。
こんなことしか頭に浮かんでこない、愚かな自分が憎らしかった。
無力であることが、こんなにも厭わしいことだとは思いもしなかった、かつての自分を呪う。
『あなたは誰よりも綺麗よ、リューレンシア。自信を持って!私の姉さん』
満面の笑みを浮かべた、サリーツァのかつての姿が浮かぶ。
いつだって、彼女は笑っていた。
悲しい時も辛い時も、こちらに心配をかけぬようにと。
『あんな言葉気にしないで!彼らはあなたのことをちゃんと知らないのよ、リュ―』
どれだけの罵倒を浴びようと、どれだけ身体を傷めつけられようと、平気だった。
己が醜いことは、既に自覚していた。
ただ、彼女が側に居るのなら、何でも良かったから。
『ねぇ、琴を弾いて。リュ―の音が聴きたいわ。安心するの、姉さんの楽の音を聴くと』
踊りも歌も満足に出来ない己の、唯一の取り柄が楽を奏でることだった。
琴を弾けば、サリーツァが側で舞ってくれた。
笛を吹けば、サリーツァが歌を歌ってくれた。
その為だけに、この身体はあったのだと思えた。
『愛しているわ、私のリューレンシア。私の半身』
朗らかな妹。
美しい、女神の様な妹。
彼女こそが、私の女神だった。
けれど、その彼女は、もういない。
「サリ・・・あなたが居ない世は、こんなにも暗い」
彼女こそが、私の光だった。
「あなたが居ないのなら、こんな世に生きている意味もないわ」
彼女こそが、私の命だった。
「今、そちらへ行くから。怒らないで、迎えてね」
きっとあの子は、顔を真っ赤にして怒るだろう。
端正な顔を膨らませて、美しい瞳を涙でいっぱいにして。
けれどもきっと、その後は。
「許してくれなくてもいいの。今度こそ、側に居るから。だから、笑って」
ねぇ、私の可愛い妹。
両の手で細身の刃をしっかりと握る。
頸動脈を狙い、ぴたりと当てた。
「待っていてね、サリ」
瞳から零れおちる涙に気付かなかったふりをして、せめて一思いにと、両手に力を込めた。
とある世界のとある国で、ある日、聖女が死んだ。
その、わずか数日後。
城下町の片隅の、小さな庵で。
黒い色を纏う、小柄な遺骸が見つかった。
閉じられた瞼の下にあるは、緋色の瞳。
己の瞳と同じ色に大地を染め、事切れたその女は、安らかな笑顔を浮かべていたという。