最期の願い
ざわり、ざわりと木々が騒ぐ。
髪が風に煽られてふわふわと靡き、服の裾も煽られた。
やがて小さく爆ぜる静電気が、髪の周りで踊り始めた。
少しずつ始まった変化は、いずれ世界を巻き込み、大乱へと変わるだろう。
身の内に秘める力を解き放てば、正直、どうなるかはわからない。
しかしそうなったところで、結局どうなるわけでもない。
今は必要だからそうするのみだ。
そんなことを思いながら、徐々に力の楔を解き放って行く。
何百・何千と科した己が枷をひとつひとつ砕いて行くのは、存外心地好いものと知る。
熱くなり始めた目を覚ますように、冷たい風に曝す。
元はこげ茶色の瞳は、今では朱に染まっていることだろう。
体内では、血が沸騰するような熱さになっていた。
眼前で黒い靄のように凝る塊が、ぞわぞわと這いあがってくるのが見える。
それらをよくよく見れば、人型のようなものであることを知る。
これらは全て、魔の者である。
つまりは、バケモノということ。
「わたくしは、ヒトならぬもの。
あなたとは違って、真に化物であるよう造られたのですよ。
つまり、わたくしはあなた方よりも、彼らにより近いものであるのです」
背後に居る『彼』へと話しかける。
他者より拒絶されたことで己の責務を厭い、己の存在を厭う彼は、今どんな顔をしているのだろう。
本当は、気にしてくれるなと言ってあげたかった。
けれどそれは決して口に出せない。
だってわたしは化物で、彼は尊いものなのだ。
わたしが安易に口に出して良い事柄ではない。
炎は、始まりと終わりの力だ。
あらゆるものを燃やし、その命を奪うに相違ないものである。
しかし、その恩恵を人々は遥か太古の昔より、受けてきたはずだ。
穢れを払うのは炎であり、清めでもあるというのに。
それを厭うというのなら、また暗闇の中で生きると良いのだ。
彼らの命を守る為に他の命を屠る、哀れな竜を厭うとは、なんと愚かなことか。
己らの代わりに、彼の竜の手を穢していると、知らずに。
氷だけでも、水だけでも、人は生きてはいけないもの、それを理解せぬというのなら、また始まりからやり直させてしまえば良い。
そんな乱暴なことを思っているだろうとは、きっと彼らは分からない、知りもしないだろう。
けれども、それは確かに本心から思うこと。
奪う力かもしれない、しかし使い方によりけりで、それは他の力も同じ意味を持つ。
あらゆるものを塵と化す、凄まじい力であり。
暗闇を明るく照らす光となり、寒さを撥ね退ける熱となり、希望となるべき力である。
炎は人の暮らしの中で、既に欠かせないものとなっていると、皆が自覚してくれれば良いのに。
少しずつ力を解放しながら、胸中で残念に思った。
彼は穢れなどではない。
そも、真なる穢れとは、どんなものか。
今ここで、しかと目にするが良い。
「以前、お願いしましたわね?」
ぽつりと、落ちる問いかけ。
きっと彼は答えられない。
その問いの答えを言ってしまえば、否応なく巻き込まれることを知っている。
そしてそれを、彼は絶対に望んだりしない。
彼女を守るために、かの地を護るために、決して触れてはならぬこと。
それを知りながら、結局止めようとは思わない己は、なんと浅ましいことか。
「わたくしが化物として力を使うようなら。
この国に害為すものと成果てようものなら」
背を向けていて良かったと、密かに胸を撫で下ろした。
こんな顔、誰にも見せられない。
じくりじくりと痛み悲鳴をあげる胸を無視して、最後の言葉を口にする。
身体や声が震えないことだけをひたすら意識した。
平気そうにしろ、ここでは何ともないと思え。
それだけが、たったひとつ、なけなしのわたしの矜持。
「この身、あなた様のお力で、即座に塵と成して下さいませ、と」
背後で、息を飲むような音がいくつか聞こえた。
それが誰のものであるのかを、知ることができないことが、少し寂しかった。
「・・しかし、それも最早手遅れ。
お逃げ下さいませ、今となっては、この力、抑えられませぬ」
全ては、敵を殲滅する為だけに。
せめてものと、背を伸ばし、胸を張り、この声は凛と聞こえるよう。
虚勢であると言われたとて構わない。
今この時だけでも、彼らにとってそう在れたら良いのだから。
「ここはわたくしが食い止めましょう。
化物である身故、それは容易いのです。
この身に代えても、守りきって見せますわ」
だから。
だから、お早く、お逃げ下さいませ。
最後通牒を突きつけるように、それだけを繰り返す。
手元に湧き出る深紅の焔と、紺碧の氷塊がくるくると円を描く。
これらを肥大化させぶつければ、それなりの規模の爆発が起こるよう設定をして。
最期まで、顔は見せない。
きっと、酷い顔をしているから。
後ろから乞うような泣き声が聞こえて、揺れそうになる心を叱咤した。
後ろに居るであろう、大事な大事な、かつての親友を思う。
また会えるなどと、思いもしなかった。
寿命を全うした彼女が、まさか別の地で転生しているとは露程も。
けれど、産まれたこの地で、彼女は変わらず、彼女らしく、強かに生きている。
今はただ、これからの幸福を祈ろう。
あなたに出会えたこと、それだけでわたしは幸せでした。
今度は、その隣に、わたしの居場所は要らないから。
「それでは、皆さま」
だから、お願い。
優しきひとたち。
幸せで、あれ。
「さようなら」
最後に目にしたのは、朱と蒼の二重螺旋。
目の前の黒が吹っ飛んで、緑が再び顔を出す。
あぁ、これで、ようやく。
全てを滅したことを確認して、わたしの意識はふつりと途絶えた。