壊れた日
――――――――あぁ、痛い、痛い、痛い
ぼた、ぼたたっと、傍らに大粒の赤い雫が滴り落ちる。
腕を伝う温かな血潮は、確かに己のもの。
痛みはもはや熱として認識され、熱は炎のように体内を焼いた。
痛い、と思いながらも、頭の別の所では、熱いと思った。
そしてそれ以外を考えたがらなかった。
呼気が荒く、ひうひうと喉が鳴った。
決して己の意識を全て刈り取ることのない、けれど消えない感覚に苛まれる。
どうしたらいいかなんて、愚問でしかなかった。
譲羽にはやらねばならないことがある。
今更、瑣末なことに頓着している時間等ない。
「陣を展開――――門を開く」
己が声だけで発動する力の欠片に、意識を持って行かれそうになる。
常ならば何も障害にはならないそれが、今は酷く気に障った。
じりじりと神経に触れてくるような、その感覚。
それを今だけ無視して、譲羽は力を行使した。
「目的地はアザルトの地、王城内王の間。
対象は、国王アルカンシェル。
―――開け天門、我、譲羽の名の元に」
動かなくなった腕はそのままに、無事な片手を空へと翳す。
ぱたりぱたりと絶え間なく地に滴る雫は、必死で術を展開する譲羽など我関せずと言うかのように、ただただ大地を朱に染めていた。
意識が徐々に白み始めていることに気付いても、譲羽はそれを無視することにした。
今、それを認めることは出来なかった。
そうしたが最後、力は霧散し、譲羽もまたこの地に取り残され、かの地に赴くことは叶わないだろう。
今宵、譲羽の勢は、負けたのだ。
それを本陣へ報せる役目を、譲羽は担った。
彼女を行かせる為に、生き残りの兵たちは、今もその身を文字通り削っている。
遠くない未来、この地で皆息絶えるであろうことは、彼らも、そして譲羽も理解していた。
彼らの中で一番傷の浅い譲羽ですら、今にも倒れそうなのだ。
残った者達の具合など、推して知るべしであろう。
譲羽は、すっと息を吸い込んで、腹に力を溜めた。
界を開く準備は整った。
あともう少しだけ、もてばいい。
「―――――開門!」
最後の詠唱を口に乗せ、譲羽は同時に地を蹴って足を踏み出した。
暗い、底知れぬ闇をものともせず、強い光をその眼に宿し。
ただただ、同胞達の死を無駄にすることだけはすまい、と願って。
いつの間にか瞑っていた目を、開けてすぐに飛び込んできたのは、赤い緋色の絨毯だった。
ふらつく身体を無理に操りながら、重い頭を擡げると、視線の先に数人の男が居ることに気付く。
豪奢な金の椅子に座る男を、両脇から護るように付き添う2人。
3人共の視線がこちらに向いていることなど、頓着する余裕はなかった。
ただ今は、抑えきれない安堵が胸に拡がる。
あぁ、彼らが。
「・・・何故戻った」
ほっと、息を吐こうとした次の瞬間、かけられた言葉を理解出来なかった。
低い威圧感のある声は、向かって左側の屈強そうな体躯の男から。
何を言われたのかわからなくて、言葉を失くしたまま、眼前を凝視する。
それは一体、どう言う、意味。
わからない。
わからない。
「何故戻ったと聞いている。答えよ」
眉間に皺を寄せ、険しい表情のまま、詰問される。
あまりにも、冷たい瞳。
真ん中と右側も、ほとんど同じ。
何故。何故。
何故と、問われるのか。
「・・・戦線は、崩壊致しました。
最早、これまでと、」
「己が命惜しさに、持ち場を離れたか」
「ちがっ・・」
「何が違う。現に、今生き残っているのはそなたのみ。
あとは皆、戦場で死に絶えたぞ」
・・・死に絶えた、と王の片腕は言った。
知って、いた?
全て、知りながら、援軍を出すこともなく、身捨てたのか。
最後の1人が死んでしまうまで、見殺しに?
ただ、ここで椅子に座ったままで?
「どういう・・全て、ご存知だったのですか」
声が、震えた。
身体の痛みや熱さは、唐突に凍てつく氷のような冷たさに変わった。
寒い。
冷たい。
あぁ、けれど。
「全て、知って居て、兵たちが死んでいくのを、黙って見ておられたと?」
けれど。
ねぇ。
「全ての兵が死に絶えるまで、あなた達は、ここでただ見ていたと?」
頭の中が、まるで煮えたぎるよう。
「無礼な。控えよ!所詮捨て戦、無駄に兵を投入するわけがなかろう」
響く大音声が、まるで耳を素通りするかのように、通り抜けて行った。
何を言っているの。
わからない。
わからない。
・・・・・わかりたくも、ない。
「そう・・我らは、捨て駒か」
低く、呻くような声が出た。
いつの間にか、視線は赤い絨毯へと落ちていた。
赤い、紅い、緋色の絨毯。
まるで、血のような。
「初めから、そうするおつもりだったのか」
「控えよと言った。そなた如き一兵卒に、告げる言葉はない。
・・あぁ、絨毯を汚しおって・・・下がれ」
ははっ。
何故かわからないけれど、可笑しくてたまらなくなった。
そうか、汚したか。
では、もっと、汚してやろう。
大丈夫、緋色だから、あまり変わりはすまいよ。
「・・どうした、早く・・」
ゆらり、立ち上ったことだけは、覚えている。
ぱたりと、また血が零れた音を聞いた。
そこから先の、記憶はない。
ただ、悲鳴と怒号が、聞こえたような気がした。
かつて、武力を以て大陸の覇者となろうとした王国があった。
若き国王は血気盛んで、即位後すぐに信の置ける宰相と将軍を側に置き、近隣諸国を蹂躙して行った。
ある時、とある小国を攻略しようと、まずは様子見と、比較的小さな兵団を差し向けた。
監視の目を飛ばし、国王は玉座に悠々と座って、それを観察していた。
彼らにとって、国民は駒だった。
戦の為に重税を課し、兵役を課し、どれ程国土が荒れ果てようとも、気にも留めなかった。
狙った小国は、緑豊かな大地の下に、巨大な金鉱を眠らせていた。
王国はそれを狙い、彼の国を選んだのだ。
小さい国と侮った故に、たかが小兵団で事は済むと、半ば思っていた。
しかし、その小国は、国土は小さくも、王国に引けも取らない屈強な兵団を抱えていた。
数は少なくとも精鋭集団を相手取り、小兵団は、たった1人の生き残りを除いて瞬く間に押し潰された。
国王と宰相と将軍は、それをただ観察して、次の作戦を立てた。
しかしそれは、結局実行されることは、終ぞなかった。
王国は、肥大するだけ肥大したあと、一夜にして滅びた。
たった1人の、傭兵の手によって。