ビスクドール2
連日晴天が続いていた、夏真っ盛りのとある日。
夏休みの中頃であるその日も、空は雲一つない、抜けるような青空だった。
私は塾に行くために習い事用の鞄を持ち、一人家を出た。
母はちょうど別件で留守にするとかで、通い慣れた道を初めて一人で歩くことになったのだ。
そのとき、私の心に恐怖はなかった。
いつもの道を、いつもの時間に、いつも通り歩くだけ。
いつも一緒に居る母は居なかったけれど、ただそれだけ。
今まで常に一緒であった母が側を離れ、ほとんど初めて一人になったことに、不安を抱くこともなかった。
自身が母の人形であるという自覚を持ち始めた頃だったから、正直何が起こってもどうでも良かったように思う。
そんな風にただただ目的地に向かって足を進めていた時、それは現れた。
「・・・?」
車の通れない、住宅地の細い路地だ。
向かってくる人も居ない中で、それは突然、何の前触れもなく目の前に現れた。
ぽっかり口を開いた底知れない暗い穴。
何もない空に浮かぶそれは、何をするでもなくそこに居た。
「あな。・・・?なんで、」
あな。穴。黒い穴。ブラックホール?
人間、理解しがたい出来事に遭遇すると、脳が思考することを放棄するのだということをそのとき知った。
吸い込みはしないけれど、底の見えない暗く深い闇は、話しや書籍にあるブラックホールに似ているように思った。
何も害がないならば、無視をして通り過ぎれば良かったのだろう。
けれど宙に浮きながらただそこに存在する穴に、何故か私は無性に引き付けられたのだった。
「あな。ブラックホール。もしここに入ったら、」
中に入った場合に何が起こるか。
そんなことを考えたところで、わかるわけもない無駄なことだと知りながら、私はゆっくりと手を差し伸べた。
最悪を予想する思考を頭の奥底に封印して、そのときの私は、そのときだけはただの子供になった。
「・・・あっ」
あとほんの少しで触れる、その次の瞬間。
今まで沈黙を守っていた穴は、突如目の前の子供を吸い込むと、その場から何事もなかったの様に姿を消したのだった。
かさ、ごそごそ、かたん
「ん・・・」
ほんのかすかな生活音。
誰かが側に居て、何かをしている音が聞こえる。
寝ているこちらを起こさないようにか、静かに音を立てないように作業していることが何となくわかった。
おかあさん?
ぽつりと浮かび上がった思考は、けれど自身によって否定される。
違う、母ではない。
母はこんな風に動いたりしない。
基本的に動作は静かな人だけれど、こんな風に私を気遣ってくれたことはなかったように思う。
あからさまに私を気遣うのは、人前であるときだけだ。
そして父なわけでもない。
あの人はまず私たちの側に寄ることさえ拒否したのだから、地球が滅びる前日にならないとその可能性を思うことすらあり得ない。
では、これはいったいだれ?
意識はすっかり覚醒に向かっているのに、警戒から目を開くことを躊躇してしまった。
未知のものを警戒することは、間違いではないと思う。
けれど、こちらを気遣ってくれる人を信じきれないことが、ほんの少し痛かった。
ことん、さわさわ・・・・ぱたん
硬質な何かをテーブルらしきものに置く音、ベッドの端のシーツを直す感触を感じた後、その誰かは静かに部屋を出ていった。
誰もいなくなった。
そう思いはしても、しばらく体は動きそうにない。
ここはいったいどこなんだろう。
知らない場所にきてしまったという意識から、現状を認識することが怖くなった。
ここはどこで、さっきの人は誰で、私はいったいどうなったの。
知りたいことは山ほど出てくるのに、体は何故か重く、動こうとしない。
そこでようやく、自身の体の異変に気づいた。
手、痛い。
背中と足は感覚がない。
目が厚い何かに覆われている。
同じく頭も首も、何かに覆われているような感覚がある。
かろうじて顔の大部分は、空気に触れているような感じがわかるのに、何故か頬や額がひりひりと痛む。
本当にいったい何があったのだろうか。
何故か私の体はボロボロになってしまったらしい。
もしかしたらここは病院で、さっきの人は看護婦さんだったのかもしれない。
最後の記憶を思い返してみても、突如現れた謎のブラックホールに飲み込まれたところまでしかなく、それはただ記憶が混濁しているか何かで、本当はどこかで事故にあったのだろうか。
寝かされたベッドがやたらふわふわしていて、病院独特のにおいがしないところは気になったが、体の不調にはそう結論づけた。
けれど目が見えないことには困った。
これでは現状把握が相当難しいことになる。
おまけに今は痛みがそうでもないが、薬で抑えているなら後で相当苦しむことになるであろうことも、薄々感じていた。
けれど考えたところでどうしようもないので、ひとまず自分の体の現状を知ることに努めた。
まずは手。
投げ出された両手は、じくじくと嫌な痛み方をしている。
盛大に擦り傷でもできたのだろうか。
痛いしゆっくりでしかできないけれど、指や腕はきちんと思うとおりに曲がってくれた。
こちらは皮膚の損傷だけで済んだらしい。
次は足、ついでに背。
感覚がないことが恐ろしかったが、どうやらそれは包帯で分厚く巻かれ、何かに固定されてているせいでもあるようだった。
膝は支えが入っているせいで曲がらないが、股関節から持ち上げればあがらないことはない。
これは骨が折れたか何かだろうと検討づける。
背は感覚があまりないが、肩胛骨のあたりを動かそうとして激痛が走り、悶絶する羽目になった。
いたい。
いたい、いたい、いたい!
こんなに痛い思いをしたことがなく、この先を調べることくじけそうになる。
でも、たぶん、折れてはいない。
きっとそこまでではない。
結構ひどいことになっているのだろうことが嫌でもわかってしまい、完治までの日数を思い気が遠のきそうになったけれど、それでも最悪の事態にはなっていないはずだと儚い希望を抱くことにした。
次、頭と首と顔。
両腕を持ち上げ、包帯からかろうじて飛び出ている指で、探り探り触れてみた。
額のあたりと首が包帯でぐるぐる巻きにされている。
下にガーゼのようなものが敷かれているので、ここもやはり皮膚の怪我だけで済んだのだろうか。
頬を走る擦り傷は触れても少しぴりっとする程度だ。
痕が残るほどだと母がうるさいだろう。
きれいに治ってくれることを祈った。
そして最後に、目。
頭や首に触れていた手を、恐る恐る目の所まで持っていく。
分厚い包帯に覆われた目。
目の形はある。大丈夫。
けれど今現在、感覚はない。
触れただけでは何もわからない。
もし、目が見えなくなったら?
今居る学校は、障害者を受け入れるような設備はない。
成績は主席で教師陣の受けも良いが、きっとあそこには居られなくなるだろう。
そうなったら、母はきっと私を見捨てる。
私はもう、完璧では居られない。
そんな思考がふと浮かび上がり、体が固まったように動けなくなった。
壊れた人形の末路はゴミになるだけだ。
母はいったいどうするだろう。
表向き、世間体を気にして私を家から追い出すということはしないだろう。
けれどきっと、母の中で私はなかったものになる。
自分の娘だとは認めてくれなくなるだろう。
悲観的というものでもなく、母をよく知る私にははっきりとそんな未来が見えてしまった。
そうなった場合の未来を恐れる自分とは別に、これで自由になれるかもしれない可能性を感じ、にわかにそわそわし始める。
そう、私はずっと一人になりたかった。
学校や習い事への道中はもちろん、家に居ては常に母が一緒だった。
見た目や外面が完璧な母は、いつの間にか学友を手懐けており、学校や習い事に従事して居るときは常に母の信者に近い学友に囲まれていた。
本当の友達なんていない。
上っ面だけの付き合いでしかない。
苦痛だった。
どうしようもなく。
母に従うことが私の行動の基本だったけれど、母に対して不信感を抱くようになってからは、どうしようもなく一人になりたくてたまらなかった。
けれど逆らうことができなくて、期待に答えられなくなることが恐ろしくて、いつも自分の願望は無視しながら日々を生きてきたのだ。
これから、もしかしたらそんな不安を抱かなくて良いのかもしれない。
無駄に期待する事の虚しさは既に知っている。
それでも願わずには居られなかった。
現状が少しでも変わってくれるならこうなっているのも悪くないかもしれない。
そんなことを思うほどには、私はきっと疲れていたんだ。
かちゃ、
じっと動かず一人考えごとに没頭していたら、また誰かが部屋の中に入ってきたことを知った。
気配がベッドに近づいてくる。
人間が持つ五感のうち、触覚や聴覚、嗅覚や味覚は無事だったらしく、それだけはわかった。
唯一視覚だけが、どうなっているかわからない。
けれどそれだけあれば、多少周りの状況を推し量ることができる。
今度入ってきた人は、どんな人だろう?
まだ眠ったふりを続けながら、相手の出方を待つ。
室内に入ってきた人は、戸口付近で何やらやっていたかと思うと、静かにベッドに近づいてきた。
纏う気配や仕草からくる音は、先ほどの人とはまた別の人のように思わせた。
かたん、
側にテーブルがあるようで、そちらに触れたのだろう。
堅い音がして、気配がとても近くなった。
「・・・何故、」
ぽつり、落ちた問いかけ。
少し掠れた低音の声の主は男性。
それもたぶん、大人の。
何が、何故なの。
そう問いたくても、緊張からか声は出なかった。
父の声ではない。
知った人のものでもない。
見知らぬ人に、何故と言われなくてはいけない理由は何?
私はいったい、どうなるの。
そう考えたら、唐突に、怖くなった。
私は生きていてはいけないの?
ここに居たらいけなかったの?
こんなにもネガティブな思考に陥ったことがなく、どうしていいかもわからない。
今までは、自分で自分について考えたことはなかった。
道筋やどうすればよいかは母が教えてくれた。
むしろそれしか許されなかった。
自分で考えなくてはならない場面があっても、「私」というキャラが確率されていたから、迷うことはなかった。
けれど今、ここではそれは余所事でしかない。
母もかつての自分も関係のない、まっさらな私をどうしていいかわからなくて、一切の音が消えたような錯覚に目眩を覚えた。
「・・・おい?どうした」
傍らの男の声がする。
何も聞こえないと思ったことは、気のせいだったようだ。
それでもどうしてだろう。
頭がぼんやりする。
「おい!・・ちっ、熱が、」
慌てるような気配がして、額に触れる手があった。
いえ、これも気のせい?
側に居るはずの人の声が遠い。
何があったの。どうしたの。
そう聞きたいのに、声が出ない。
あつい。
頭がおもい。
体が、動かない。
たすけて、おかあさん。
頭の片隅でそんなことを思ったなんて欠片も意識することなく、私は深い眠りに落ちていった。
後で思い返しても、覚えていなかった、自分の本心。
おかげで私はずいぶん後になるまで、それに気づくことはなかったんだ。