獣の娘は魔女
いつだって、欲しかったのは暖かな温もり。
私は、小さな頃からどこか可笑しいといわれてきた子供だった。
普通の赤子ならもう喋るような月齢になっても、私は唸ることしか出来ず。
他の子が這い這いをするようになる頃に、一人寝返りを打つようになり。
周りが歩き出す頃に、ようやく一人で座れるようになり。
小さな子が走り回る頃に、一人で立てるようになりはしたものの、数歩歩けば転ぶ有様。
走ることなどほとんど出来なかったし、しなかった。
それだけであれば、ただ成長が遅いだけで終わったのだろう。
けれど、私が赤ん坊ではなく幼児と呼ばれるようになっても、言葉を話すことはなかった。
きちんと喋れるようになったのは、それから随分後、5歳になった頃。
それもほとんど片言な上、必要最低限しか喋らなかったから、両親は随分と悩んだことだろう。
そして話せるようになるまでは、唸るばかりで言葉を解す様子もなかったのだから、一部には獣の子と思われていたようだ。
加えて、突発的に叫びだしては混乱を繰り返す私を見て、周りの人間はもちろんのことやがて両親も気味悪がるようになった。
私の家は貴族の端くれであり、父親は男爵の位を預かっていた。
男爵令嬢として生まれた身でありながら、実質獣の子と同義な私の振る舞いに、両親は頭を抱える日々。
間違っても他人に見せられたものではない。
結局世間体を気にして、私は家の外へは一切出されることなく育てられた。
小さな部屋と一人の年老いた世話係を与えられ、たくさんの言葉を覚えることもなく、人としての最低限の振る舞いさえ教えられずに成長した。
母は私を恐れ、触れることは愚か顔を見せることもなくなり、家族もそれに倣ったため、物心ついた頃から私は人の温もりを知らない。
世話係は必要以上の接触を禁じられており、かつ彼女もまた私を恐れていたから、尚更だ。
それでも肉親の情からか殺されることもなく、けれど外に出られるわけでもなく。
一人過ごす暗い部屋の中は、まるで永遠に続く牢獄のように思えた。
そうして育った私は、今年で20歳になる。
貴族の娘としては十分嫁き遅れとなる年だ。
だが、それも仕方のないことといえるだろう。
家族はもはや幽閉した獣の娘の存在など頭の片隅にもない。
ここ数年は世話係の顔しか見ておらず、それもほとんど意識の外だ。
一日二食の食事と、汚れた衣服を変えてくれるときだけ。
風呂はなく、週に二度、部屋に水を入れた盥を持ってきてくれる。
用を足すことは部屋に設備がついているため問題ない。
私は、淡々と過ぎる時間を、ただ無為に消化していった。
そんな、ある日のこと。
時間がわからないながらも、なにやら屋敷の中が騒がしいな、と夢現に思った。
暇潰しのものが何もない部屋だ。
ここでは寝ることしか出来ない。
今日も一回目の食事を終え、戸口付近に皿を下げた後惰眠を貪るべくベッドに横になる。
これでは肥えるばかりだろうと思うが、如何せん食事の量が少ないので特に問題はない。
枕に頭を預け、うつらうつらしてきたところで、何故か部屋のすぐ外が騒がしいことに気づいたのだ。
何だろう、客でも来たのだろうか。
けれどこの部屋があるのは屋敷の最奥のはずだ。
客がこんなところまで来るはずがない。
気のせいだ、と思い直し、寝返りを打った、そのとき。
部屋の扉が吹き飛んだような轟音に、思わず飛び起きた。
大きな音に馴染みなどない為、心臓が暴れ狂う様に驚きながら戸口を振り返る。
「なんだここは!真っ暗じゃないか!!」
「お待ちください!こちらへきて頂いては困りますっ」
「うわっ、わかったから引っ張るな!・・・・ん?誰だお前は」
「・・・!!!」
まず思ったことは、『眩しい』だった。
20年間、ほとんど薄暗闇のような中で生きてきたのだ。
いきなり強い光を目に浴び、眼球を何か鋭利なもので刺されたような痛みに、思わず蹲る。
それは、あまりの衝撃に声も出ないが、内心では絶叫が迸ったほど。
両手で目を覆い、ベッドに突っ伏したが痛みと衝撃はすぐには引いてくれない。
唐突な展開についていけず、闖入者がずかずかと近づいてきたことに気づくことも出来なかった。
「おい、どうした、大丈夫か?」
「――――!!」
「お、お待ちください!どうか!」
「ええい煩い!ちょっと待て、こいつが・・っ」
頭の上で、聞き覚えのない声と執事の声らしきものが言い争っている。
目の痛みを耐え、その声に集中すると、どうやらこの闖入者が客人であることを知った。
執事が慌てているだけで実力行使に出ないところをみると、客人は身分が高い人のようだ。
そんな人が何故こんなところにいるのか。
さっぱりわからないが、関わるだけ損だと思い直し、目を押さえたままずりずりと後退することにした。
頼むから早くここから出て行ってくれ、そう願いながら。
けれど、願い虚しく、目を覆っていた右腕が大きな手に捉まった。
「お、おい待て!目が痛いのか?」
「あっば、バルドー様!!こちらの方に触れられてはなりません!」
「なんだ?この娘がどうかしたのか?・・そもそも何故こんなところにいるんだ、この娘はいったい誰だ」
「そっ・・それは、わたくしの口からは申し上げられません。
ここはあなた様が来られるようなところではないのです。
直ちにこの部屋から出て・・」
「俺が出るならこの娘も一緒に連れて行く」
「バルドー様!?」
頭上で繰り広げられる言い争いが、よくわからない方向へ行こうとしている。
それだけはわかるものの、私に出来ることはたぶんないことを知りながら、とりあえず後退する努力だけはしておいた。
私は獣の娘だ。言葉など話すわけもないと思われているはずだから、これでいいのだ。
ただ、それだけではこの男は納得しなさそうな気配を感じ、内心げんなりと肩を落とす。
争いごとに巻き込まれて嬉しいものなどいないだろう。
特に、当事者になどなりたくはない。以ての外だ。
それに、今更外に出たいなどと思わない。
20年間密室に篭って来たのだ、それが例え自分の自由意志とは言えずとも。
未知の世界へ行くには、度胸も勇気も足りなかった。
「娘が一緒なら出な・・・おい?どうした?」
頑なに言い募っていた男は、ようやく私が未だに後退し続けていることに気づいたようだ。
どうした?じゃない、さっさと腕を放せとばかりに捉まれている手を振る。
が、腕を握る力は強くなり、男が先ほどより体を寄せてきたことを知った。
全くもって逆効果であったらしい。何故だ。
「どうしたんだ、目が見えないのか?言葉は?
おい、隠してないで顔を見せてみろ」
「バルドー様!いい加減になさってください!!」
「・・・あ?」
いい加減にしろ、と危うく怒鳴りかけたその瞬間、室内に別の声が響いた。
大きな音には勿論、大声に慣れていないせいで思いかけず体が跳ねたが、次いで発せられた声に背筋がざわりと粟だった。
気のせいに違いないが、室温が一気に下がった気がする。
何故寒気を覚えるのだろう、今は暖かい季節のはずなのに。
「俺を誰だと思っている?執事風情が盾突くとは、いい度胸だ」
地の底から響いてくるようなそれに、産毛がざわつく感覚を覚える。
掴まれている腕はそのままに、目の前を覆う髪の間から密かに相手を窺った。
薄暗い中、外から差し込む光にピンポイントで照らされている。
短かめの髪を後ろに撫で付けた頭、鋭い目線、大きな体。
見たこともない、背の高い偉丈夫がそこにいた。
今まで一度も外に出たこともない上、家人以外に会ったこともないから当然といえば当然だが。
その、見た目厳ついこの男が、何故か人の腕を掴んだまま怒っている。
何故こんな展開になっているのかさっぱり理解ができていないが、居丈高なこの男に、執事は震えながらも負けては居なかった。
「・・っも、申し訳ございません!しかし!・・恐れながら申し上げます。
こちらの方は大変お体の弱い方なのです。
家の者以外との接触も慣れておらず、このままでは御方のご負担になるばかりかと。
どうか、今は放して差し上げては頂けませんか。
お話なら上でお伺い致します」
青ざめながらも、気丈に大嘘を吐いた執事に、思わず噴出しそうになってしまった。
確かに、生まれて数年でこの部屋に隔離されたせいで、人との接触は非常に乏しかった。
しかし別に対人恐怖症というわけではない。関心もないが。
おまけに体は全く弱くはなく、むしろ今まで生きてきて風邪なども引いたことがない。
今を乗り切るためとは言えよくそんなでまかせをこの状況で吐けるものだと、逆に関心してしまった。
「なんだと?」
「現に、今も・・」
尚も食い下がる男に、執事が言葉を濁しながらこちらの様子を促した。
いまだに私は腕を外そうと奮闘していたし、後退する隙を探し続けてはいたのだ。
どうやらそれをだしにされたらしい。
別にここから二人とも出て行ってくれるならそれも構わないが、つくづく呆れてしまった。
それと同時にこの家での己の価値を再確認し、心が萎えていくのを感じたが、今は知らぬふりをする。
それもまた、今更の話でしかないのだから。
「・・・あぁ、申し訳ない」
執事の言葉を聴いて、ようやく男が私の腕を掴む自分の手を見た。
そうだそれだ、その手を今すぐ放せ。
というか私の行動にまったく気づいていなかったらしいことに驚く。
それは今は置いておくとして、駄目押しとばかりに掴まれている腕をゆるく振る。
しかし男はじっとそれを見つめるばかりで、結局放してはくれなかった。
力を緩めただけましなのかそうなのか。
そんなことどうでもいいからとりあえずもう放っておいてくれ。
・・そう直接告げられたなら、どれだけ良かったことか。
「・・・・っ」
「・・・・おい」
緩く振っていたのが駄目だったのだろうと判断し、本格的に腕をもぎ取る勢いで引いてみることにした。
しかし、男の腕力を甘く見ていたのか、全く外れない。
なのに先ほどとは違ってその力が強まることもない。
こんなところで男と女の体のつくりや力の差を思い知ることになるとは。
男がこちらに声をかけてくることなど気にも留めず、それでも諦めずに足掻いた。
視界の端で執事が心配そうにはらはらしながら二人を見つめているのが見えるが、そんなものどうでもいい。
この腕を外したくて、平穏を取り戻したくて、あとから両親にこのことが報告されることも忘れて力の限り腕をひいた。
「――――!」
「おい、腕が外れるぞ。わかったから落ち着け」
「ちょ・・おじょ・・、ば、バルドー様・・お二人とも・・・あの、」
「うー!」
「・・・」
こーのーやーろぉおおおう!!
興奮していたせいか、いつの間にか目の痛みなどどこかへ飛んでいっていたことに気づけるわけもなく。
ただ、家人の前では喋らないと決めていた為に言葉を話すことはなかったが、踏ん張る声はうっかり出してしまっていた。
それにも必死すぎて気づかなかったが、だからそのとき、男が面白いものを見つけたように笑みを零したことなど、当然知らなかった。
そして暫くの奮闘の末、結局自分の腕力のみでは、男の腕を外すことは出来なかった。
逆に、危うく自分の肩を外すところだ。
運動不足のおかげで体力など雀の涙に等しかった私は、捕まれた腕はそのままにベッドに突っ伏して息を整える。
その間、不自然なほど男も執事も黙ったままだったことが恐ろしい。
落ち着いた後、恐る恐る自分の腕を掴んでいる馬鹿者を見上げると、猛禽のような目をして笑っていた。
思わず小さな悲鳴を上げてしまったとて、誰に責められよう。
助けを求めて執事に目をやれば、こちらも心底困り果てた顔をしていた。
困っているのはこちらのはずである。
というか先ほどの勢いはどうした。助けろよ、と。
「・・バルドー様、如何なさるおつもりですか?」
執事が恐る恐る問いかけても、すぐに返答は来なかった。
何を考えているかさっぱりわからず、ただ展開に身を任せるしかない己の身が口惜しい。
どうせ拒否権などないのだ、何をしても無駄ということは理解している。
だがしかし、この展開を容易に受け入れられるかと問われれば、それは否。
どう考えたところで何故こんなことになっているかさっぱりわからない。
解せぬどころの話ではない。
部屋に軟禁されながら、生きてきて20年。
もう、この部屋からはもちろん、家からも出ることなどあり得ない。
このまま死ぬまでここに居ることは決定事項だと思っていた。
家人以外と出会うこともないと思った。その予想が覆るはずもないと。
それに、たった一人で死ぬ覚悟はとうにしていた。
早くそうなってほしいと、ただそれだけを願っていた。
その願いを叶えるためだけに、今まで自分を造り上げ、生きてきた。
なのに。
「この娘。俺が貰う」
何者にも邪魔はさせないという態度で、そんなことをほざく男に。
・・・こんな形で、捕らえられるとは。
初めて、未来が見えなくなった。
これから一体どうなるのか、さっぱりわからない。
私が何故家族に見放されてまで偽りの自分を演じていたのか。
それはすべて、私が魔女の力を持っていたからだというのに。
この世界で、魔女という存在は人々から非常に恐れられている。
忌み嫌われていると言っても良い。
魔女だと発覚すれば死罪、おまけに魔女が出た一族は皆殺しと法で決められている。
そうまで潔癖になっていても、魔女は百人に一人の割合で生まれてくる。
何故かはわかっていない、けれど私もその一人だった。
そしてその事実を、生まれる前から知っていた。
だって私は魔女だから。
魔女は赤子であってさえも、己で思考することが出来た。
私は予知を以って仮に魔女として生きた場合の未来を知ったのだ。
魔女として生きることを選択した人間と一族の末路は、地獄としか言いようのないものだった。
だから私は決めた。
魔女として生きることはもちろん、人として生きていくことも諦めよう。
人との係わり合いがあれば、遠からず力は発覚しよう。
発覚してしまえは、この世界で生きていく術はない。
だから、獣の娘と呼ばれるような人生を生きることを選んだ。
なのに。
・・逃げなくては。
捉まれた腕を切り離してでも。
出来ることなら家族に被害が行かない形で。
だって私は、愛されていないと知っていても、家族は大事だし、大事にしたい。
例え、触れている手が暖かくて、泣きたくなるくらい苦しくても。
守りたいものがあるのなら、この手に縋ることは許されない。
必ず、この男の手の内から逃げ出そう。
そう固く誓ったこのときの私が、後にそれが如何に困難であるかを思い知るのは。
・・・それから僅か、数ヵ月後のことだった。