ここにいるよ
のっとファンタジー
淡々と過ぎゆく日々を、無難にこなしながら、いつも想っていたことがある。
それは誰にも言えなくて、ただ自分の中で漂うばかりのものだった。
あたしには祖父母も両親も姉妹も居て、従姉妹や親戚や友達にも囲まれていた。
何事もなく過ぎて行く毎日だけれど、特別裕福とかではなくても、確かに恵まれていた。
だから余計に言えなかった。
言ってしまって、何を贅沢な、と怒られることが怖かった。
そんなある日、深夜、バイトからの帰り道。
いつも歩く道端で、丁度外灯の下で蹲る、ぼろきれのような黒い塊を見つけた。
何とはなしに近寄って見て、それが動いていたことに驚いて。
良く良く観察すると、それは本当にまだ小さい子猫だということに気付いて、尚仰天した。
何でこんなところに、とか。
何でこんなボロボロに、とか。
色々と疑問は湧いたけれど、あまりにも慌てたおかげで、思考もままならない。
外灯の真下でなければ気づくことすらなかったことに思い至り、背筋がぞっとした。
しかし、今やらなきゃいけないのは、ここで思考にふけることではなくこの子猫を保護することだとすぐに頭を切り替え、荒てて行動に移すことにした。
あたしはまだ学生で親に養われている身だけれど、今はそれを気にしてる場合じゃない。
それにどうせ去年親元を離れて、都心から離れた土地の1DKの部屋で、1人暮らしをしている。
誰にも迷惑をかけないから、と勝手なことを願って。
そうして、あたしは生まれて初めて、生き物の命を拾った。
ハンドタオルでしっかり包んで、けど押し潰さないように、一路家を目指した。
せっかく拾った命だ。
お願いだから死なないで。
泣きたくなるような気持で、そう願った。
手の中に納まる小さな命はまだ未来へ繋げられる。
ここで亡くさないで、とただ神に祈るように。
家に着くと、もとは小物入れだったボックスを空にして、タオルを敷きつめ、子猫をそっと入れた。
それからお湯を沸かして、子猫用のミルクはないので牛乳を温めて人肌まで冷ます。
ガーゼのタオルに染み込ませ、子猫の口元に寄せる。
少しでも飲んでくれたらいい。
今は一時凌ぎさえ出来れば、それで。
なんとか余力が出来たら医者へ連れて行く気だった。
本当は一番に医者に行かなくてはならないことは知っていたけれど、何分今は深夜。
今の時間帯ですぐに診てもらえるところが近所にあるかを知らなかった。
だから、まず、少しでも現状を回復させなくてはとこのときはそれしか頭になかったともいえる。
必死で口元に寄せ続けた成果が出たのか、子猫はやがて少しずつミルクを飲んでくれるようになった。
お腹は空いているのに、力が足りないようだ。
けれども、必死に吸いついて、栄養を摂ろうとしている。
生きようとしているのだと思えた。
子猫用ミルクではないので、牛乳には栄養がないことも知っている。
けれども、気休め程度にはなるのではないかと思った。
水分を摂ってくれるだけでも、助けにならないかと。
実際に猫を飼ったことはなく育てたことももちろんない。
俄知識しかないことが、悔しかった。
それでも、となんとかひと段落をつけると、すぐに外出する準備をし始める。
24時間やっている獣医を、常時つけっぱなしのパソコンを操作し、ネットで探す。
幸いにも、そう時間もかからず探し出すことが出来、しかも歩いて行ける距離だった。
子猫を抱え、財布だけ入ったかばんを肩にかけて家を飛び出したあたしは、先ほど探し当てた獣医に駆け込んで、当直だったらしい先生に子猫を診てもらった。
気ばかり急いてひたすら診断を促すあたしに、先生は、随分泥だらけで弱っているけれど、この子は大丈夫だと笑って言った。
あたしはその間ただおろおろと見守るだけだったけど、その返事を聞いて恐々伸ばした手を、小さな舌で子猫がぺろりと舐めてくれたのが、どうしてかわからないけれど、泣きそうなくらい嬉しかった。
それから。
今も子猫は、あたしのそばにいる。
「ジジ、ごはーん」
「なーう」
真っ黒だったので、名前はジジ。
安直だと言われようと、この名前が好きだったからそれに決めた。
あの後、住んでいたアパートは引き払い、ペット可の部屋へ引っ越した。
条件が条件なので、利便性も悪いし部屋も狭くなったけれど、今は満足している。
親を説得するのにバイトを増やし、学校を卒業してからは就職して日中は家に居ない為、ジジには寂しい思いをさせているのかもしれない。
それでも、いつもお利口に留守番をしてくれていて助かっている。
そしてそれも、あと少しの辛抱だ。
「ねぇジジ、来月になったら、あたしずぅっとおうちにいるのよ。嬉しい?」
あぐあぐと一心不乱にごはんを食べるジジを見下ろしつつ、話しかける。
仕事を、通勤ではなく在宅にて行うことになったのだ。
努力も相当したが、手に職をつけた甲斐があるというもの。
度々会社に行くこともあるかもしれないが、それでも格段にジジとの時間が増える。
来月からの生活を思うと、嬉しくて気分が浮かれ、こうしてジジにちょっかいをかけたりするようになってしまったのは、多少申し訳なく思うのだが。
「ん?食べ終わったね。美味しかった?」
皿の中の餌を食べ終わったジジが、ぺろりと口の周りを舐める。
ジジはあまり鳴かない。
子猫である時から。
けれど、感情豊かにこちらを見つめる瞳があるので、別段不都合や不満はない。
「ねぇジジ」
するりするりと体をこすりつけてくるジジに、したいようにさせてやりながら、満たされた思いでいっぱいになる。
「あたし、昔はすごくさみしかったの。
周りには人がいっぱいいたのに、それでもどこか虚しかった。
あたしを誰かに認めてほしかったし、求めてほしかったのよね。
ないものねだりだって、わかってたけど、願わずにはいられなかった」
そばにいて。
ずっとずっと、そう言いたかった。
けれど、それを口に出したら、今ここにいてくれた人はどうなる?
今、すぐそばにいるのに、あたしはそうとは認識していなかったとわかってしまう。
家族がいても友達がいても、常にさみしかった。
そばにいて。
ひとりにしないで。
傍から見れば、そんなことはないのに。
いつも心は叫ぶのだ。
「あたし、みんなを裏切ってたことになるのかしら。
そばにいても、いないって相手に認識されていたら、誰だってショックよね。
でも、ばかなあたしは、どうしてもそれを認められなかったの」
だから、実際には声に出して言うことはなかった。
それを言ってしまったら、きっと良くないことになる。
そう思って、黙って心に蓋をしていて生きてきた。
そうすることが正解であったかどうかは、正直今もわからない。
けれど。
「・・今はあんたがいるから、さみしくないよ」
差し出した手に頭をこすりつけるジジに、目を細める。
今、触れているこの小さな体が、何よりも大事だと思う。
「あの日、あんたに出会えてよかった。
もう、一人にしないで」
「なぁん」
優しく抱き上げて、頬を摺り寄せる。
返事のつもりか、ジジは小さな声で鳴いた。
重い言葉であるとわかりながら、それでも縋らずにはいられない。
あの日拾った小さな黒猫は、あたしにとって、何より大事な宝になった。
触れる手や声に、いつだって応えを返してくれる。
ただそれだけにこんなにも救われるとは思ってもみなくて。
ここにいるよ、といつだって安心できるぬくもりがあるから。
※作者は猫を飼ったことも拾ったこともございません。
こちらに載せた情報を鵜呑みにされませんよう。