理不尽な願い
ふわふわ、もこもこ、もふもふ。
そんな表現が似合う胸板が、すぐ目の前の触れられる位置にある。
これに触れることを我慢できる人はいるのだろうかと、声に出さず疑問に思った。
そもそも、触れることを許されているかどうかは、また別の問題でもあるが。
目に入る範囲を軽く超えた、がっちりした幅広の筋肉質な体は、みっしりと細く柔い毛に覆われている。
外から見れば真っ黒で、まるで墨で染めたかのようだ。
けれども、もしゃもしゃと中まで手を進めれば、内側には純白の毛が生えていることがわかる。
その白がなければ闇に溶けてしまいそうな程、艶やかな黒。
うん、やっぱり、キレイ。
「あまり中を触るな」
ぐるる、と喉の奥を低く鳴らしながら、諌めるようなバリトンの深い声色が頭上から響く。
その声に、くふふと笑いかけて、けれども撫でまわす手を除けようとはしない。
声をかけてきたその人は、不服そうにしたけれど、すぐに諦めたように深いため息を吐いた。
結局のところ、最後にはいつもこちらに譲ってくれるのだから、やはりこの人は優しいのだろうと思う。
「キレイね」
本日は、雲のない満月の夜である。
深い森の大樹の枝に寝転ぶ、その腹の上に自身も身体を横たえて。
そう、本当に、今日はお月見に最適な夜なのだ。
きらきらと夜を照らす月の光が眩しくて、さっぱり寝る気にならないのだから。
ぐりぐりと気の向くまま、頬に触れる毛皮に顔を押し付ける。
こちらの好きなようにさせてくれることが嬉しくて、髪に触れてくれる黒に覆われた大きな手が心が震えるほど愛しくて、尚も胸元に頬擦りをし続けた。
黒い、分厚い毛皮に覆われた、己とは違う作りの体。
大きくて硬くて暖かいそれが、何よりも心安らぐ温もりをくれる。
「・・動くな、落ちるぞ」
そっけない言葉とは裏腹に、ぐるぐると喉が鳴っている。
ゆったりと体を支えてくれる手にしがみ付き、その音を聞いた。
その手があるから、決して落ちないと知っている。
直立で並べば、相手の胸元までにしか行かない身長さがあるのだ。
腹の上にしっかりと乗ってしまえば、自身の体がそこからはみ出ることもない。
加えて、自分の側には、いつだってこの過保護な手がある。
故に、この人の側に居るのなら、自身が傷つく未来はあり得ない。
「あなたが拾ってくれた日も、こんな風に雲一つない夜だったね」
くすくすと零れる笑いを堪えることもなく、話しかけた。
けれどもそれを相手は拾ってくれない。
もとより話好きでもなく、無口な性質なのだ。
話しかけたところでおしゃべりをしてくれるわけではない。
それを知っているからこそ、特に不満にも思わなかった。
返事がないことなど、大したことではないのだ。
何故なら、触れてくれるこの手が、何よりも欲しい応えを返してくれるから。
「森に落っこちたあたしを、一番最初に見つけてくれて、拾ってくれたのがあなただった」
回想をしながら、言葉を紡ぐ。
緩やかに頭を撫でてくれる、その重みが愛おしい。
「月に照らされて出来た木々の影の中に、金の光が二つ。
初めはそれしか見えなかったから何が何だかわかんなくて、ものすごく怖かったっけ」
当時の自分の内心を思い出すと、おかしくなってけたけたと笑う。
笑いと共に震える体を支えるように膝裏に逞しい腕が添えられて、気まぐれにしゅるりと足を絡めた。
そうすると、無言で抱き上げて胸元に寄せてくれるから、にんまりと笑み崩れる顔がなかなかもとに戻ってくれない。
つくづく、このひとは甘やかしてくれる。
「するっと茂みから出てきた人の頭が黒い獅子で、しかもものすごい体格が良いとか、何の冗談としか思えなかったんだよね」
うふふ、と含み笑えば、そこで初めてきまり悪げに体の下の毛皮が揺れた。
なんとも居心地の悪そうなその揺れに、尚も追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「おまけにめちゃくちゃ眼光鋭く睨んでくるし、あげく襲われかけるし。
なのに今はそれがトラウマにもなんないとか逆にすごい体験したわ」
己の下の体は、ぴくりとも動かなくなってしまった。
その時のことは、さすがに悪いと思っているらしい。
申し訳ないオーラがダダ漏れだったので、苛めるのはこれくらいか、と笑いを引っ込めた。
だって、この人はとても優しいひとだから。
それが本意でなかったことは、もうとうに知っている。
「…結局、嫌な思い出にはならなかったの、だからあなたも気にしちゃいやよ。
これでもね、あなたに会えて、本当に良かったと思ってるのに」
本当はあの時、闇を照らす月光の中、地に近い場所にあるもうひとつの金色に、見た瞬間囚われた。
恐怖を感じるまでにも至らなかった。
何故なら、思考が完全に止まってしまったから。
まるで魅入られたように、目が、心が、その光から離れたがらなくて。
あんな目は、ほかに知らない。
まるでこちらを射るような鋭さを含み、底知れない色でありながらもまっすぐで、無垢な目を。
「あなたに出会えたことを、初めてあたしは神様に感謝したわ」
神などといった不確かなものを信奉することは、決してなかった。
あの日だけだ。
彼に出会えたことを、本気で誰かに感謝したくて。
見たことも会ったこともない、信じることすらバカバカしいと思っていたその存在に、心から祈った。
元の世界に戻ることなど、頭になかった。
もはや、離れることなどあり得なかったから。
「ここに来た理由なんて知らない。要らない」
この手がありさえすれば、それで。
ただただ無言でこちらの話を聞いてくれて、触れることを許してくれる彼の側に居ることだけが、今のただひとつの望み。
それ以上は望まない。
必要もない。
例えば、喚ばれたこの身が、この黒い獅子神に捧げられる生贄だったとしても。
「あなたが欲しいって思ってくれるなら、食ってもいいんだよ?」
「・・・・ヒイロ」
「いつだって、あげるよ」
咎めるような空気がちくちくと肌に刺さるけれど、知らない振りをした。
だってそれは、この獅子に出会った時からの、最大の願いだ。
食われればこの身は彼の血となり肉となり、彼が死ぬまで共に居られる。
本当はそんなことにはならないかもしれなくても、そんな気がするのだからそれで良いのだ。
だから食われることを恐れたりはしない。
彼がそんなことを望まないと知っていても。
「いつか、食べたくなるまで、側に置いて。
それまでに、きっともっと美味しくなるから」
「・・・・・」
せっかくのお願いにも、返事をしてくれないのは、不服だからだ。
言葉など無くても図れるようになった獅子の機嫌の浮き沈みを肌で感じながら、1人ほくそ笑む。
きっと、最期に願えば、この獅子は食らってくれる。
だって彼は、誰よりもやさしいひとだから。
「・・ね、今日は月が綺麗ね」
黙り込んでしまった獅子の胸元に頬を擦り付け、呟く。
今は、まだこのままでいい。
いつか、来るべき時が来る。
そうなったら、きっと、きっと誰よりも、幸せな心地になれる予感がする。
・・・あぁ、けれども。
黒い獅子神。
あたしの神様。
もしそうなったとしても、お願いだから悲しまないでいて。
それがどれだけ理不尽な願いかなんて、自身が一番良く理解している。
それでも、黒獅子の胸元に擦り寄りながら、大地を明るく照らす満月を見上げて、ただ祈った。
どうか、お願い。
泣かないでいて、と。
愛しているの、と言えない代わりに。