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さらに池の水は冷えていく。
それと反比例するように水の透明度が増し見通しがよくなった。
わたしは気づくと、うとうとと居眠りしていた。
キルコの胸びれがわたしの体に触れている。
そばにいながらもキルコとここのところ話をしていない。
あまりの水の冷たさに口を開ける気にもなれなかった。
キルコもわたしと同じなのだろうか。
目の端で彼のえらの動きが見て取れた。
生きている。
そのことを確認できると安堵した。
冷たい水は体を切るようにわたしに痛みを伝えてきた。
しかし、いつのまにかそれが感じられなくなってきていた。
ようやく、冬を乗り越えたのだろうか。
わたしは体を動かしてみる。
体はかちこちに固まっていて動かない。
「グラミーさん……」
聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「その声はかとうさん? でも……」
わたしは声のする方へ目を凝らしてみた。
黒色の椅子がいる。
椅子の両脇には大きな車輪が付いていた。
「ああ、この姿にびっくりしちゃった?
そうなんだよ、ぼく、車椅子になったんだ。
マウンテンバイクに改造は外れた。色だけはぼくの希望に叶ったんだけどね」
「あらら、そうだったんだ。でも、その姿もいいと思うわよ」
「グラミーさんにそう言ってもらえてうれしい。
まあ、思ってる通りにいかなかったけど、この姿も気に入ってはいるんだ。
人を乗せて運ぶことには変わらないし、むしろたよりにされてるって感じがね」
かとうが屈託のない笑い声を上げた。
「……だからグラミーさんもがんばれ」
えっ?
車椅子のかとうの姿がぐらりと揺らぐ。
かとうがみるみる小さくなってくる。
そして1匹の魚になった。
黒い体。
三角形のひれ。
赤い縁取りのはいった目。
ブラックエンゼル。
久しぶりに見るその魚に、わたしはぽかんと口を開けたまま見つめていた。
「……ブラックさん?」
「……君には、自然の中で生きる強い魚だろう?
だからがんばれ」
なに?
何をわたしにがんばれと言うの?
再び目の前が歪む。
ブラックエンゼルの体がぐんぐん大きくなっていく。
いや彼が大きくなっているのではなくわたしが小さく縮んでいる。
わたしは小さな稚魚になっていた。
体が小さくなった分、かちこちに固まっていた体が解れたよう。
すいすい自由に泳いでいく。
わたしが小さくなった分池も小さくなったよう、池も小さくなったようだ。
池の外の世界が、わたしのいる場所からも見渡せる。
いや池ではない、ここは小さな水槽の中だ。
水槽の底から空気を送り込む小さな泡がひっきりなしに上ってくる。
ガラス越しに人がわたしを覗き込んでいる。
ああ、絵里とおかあさんだ。
わたしは帰ってきたのだ。ここに……。
グラミー、がんばれ。
また、わたしの頭にブラックエンゼルの声が響く。
グラミー……。
ううん、これは彼ではない。
がんばるんだ……。
いつも小言をうるさいくらいに言う彼。
そんな彼にわたしも言いかえしたりした。
でも、彼がわたしのことを気にかけているのはよく分かっていた。
わたしを守ろうとしてくれていた。
わたしの視界がくるりとまわる。
絵理とおかあさんの姿はみるみるうちに消え、かわりにキルコの体が見えた。
わたしが鰭を伸ばせば触れそうなところにキルコがいた。
色が引き白っぽくなり、肉の落ちた体。
池の底に痩せたお腹をつけている。
ああ彼もだいぶ弱っている。
なのに、それでもわたしを気遣ってくれているんだ。
わたしは大丈夫。
だからキルコもがんばって。
そう言いたいのだけれど、言葉が出てこない。
冷たい水は容赦なくわたしの体を凍えさせている。
それでも彼に伝えなければ。
言葉が出ないなら、仕草でもなんでもいいから……。
わたしは体を動かそうと試みた。
冷えた水の中で相変わらずこちこちに懲り固まっている。
それでも胸鰭がわずかに動かすことができた。
胸鰭で彼の痩せたお腹に触れてみた。
「……グラミー」
キルコがわたしの名前を呼んだ。
その声はか細いながらもどこか情感が籠っているように聞こえた。
そして彼もわたしの仕草に答えるように彼自身の胸鰭がわたしのお腹を擦った。




