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水はどこまでも続いている。
泳いでも、泳いでも果てがないように思われた。
水槽の中で暮らしていたわたしにとって未知の世界だ。
水には、小さな粒にような生物がたくさんいた。
ほんのり黄色いに見える。
そのせいだろうか、あまり見通しがきかなかった。
ばんやり、底から背の高い草が群生していているのが見えた。
わたしは目的も定まらず泳ぎ続けていていた。
水を飲み込んで、中にいる小さな生物を食べ続ける。
それを繰り返す。
あまり視界のきかない水の中で、きらりと何かが光って動いた。
不意にお腹に痛みを感じた。
何かがお腹にぶつかってきたのだ。
そしてそれはわたしの目の前にきた。
黄土色の体に細長い胸びれ。
細かな宝石に似た斑紋。
体の側線に沿った黒い一直線のうろこ。
わたしと同じパールグラミーだ。
わたしと違うのは、このパールグラミーはオスであること。
ひれ全体がわたしよりも大きく、角ばっていた。
尾びれにひとつ、切れ目が入っていた。
「何してるんだ、早くこっちへ」
彼は再びわたしのお腹を、とんがった口で乱暴につつく。
わたしは痛さで体をよじらせた。
「とにかく、こっち、早く!」
わたしは訳が分らなかった。
彼の剣幕に押され、言われるままに後をついて行った。
彼は背の高い草のへ行き、その間に身を隠した。
わたしも同じように、草の間に体を入れじっとしていた。
まもなく、大きくて黒い魚の影が、濁った水の中に浮かぶ。
影は辺りを伺うようにゆっくり泳いでいたが、やがて見えなくなった。
「……ふう、とりあえず行ったみたいだ」
彼は口からぷくりとあぶくを吐く。
「……あの、さっきの影みたいなのは?」
「ブラックバスという魚。
あいつにとって、俺らは手頃な餌だ」
「えっ!」
「……君は新入りだよね、この池の。
元は水槽暮らし、そうだろう?
ここは安穏としていられた水槽ではない。
ブラックバスだけじゃなく、俺らを餌と狙うものがわんさかいるんだ。
君はそんな奴らの腹の中に居たいのか?」
わたしは彼のあまりの言いように言葉が出なかった。
わたし気持ちが伝わったのだろうか。
彼はまた一つ、あぶくを吐いた後、きまり悪そうに体を傾かせ、わたしから視線を外して呟いた。
「ごめん、ちょっと言葉が過ぎた。
……とにかく常に緊張して身を守るんだ。
この草の間に隠れれば、たいがいのことはやりすごせると思う」
「あの……、ありがとう」
わたしは、ようやくお礼の言葉を口にした。
「いや、俺もあんまりえらそうなこと言えない。
君と一緒で、元は水槽暮らしだったし……」
彼は再びわたしの方に向き直り、目を見ながら言った。
「俺はキルコというんだ、君の名前は?」
「わたしは……」
わたしは一瞬名乗るのを躊躇した。
人間、絵理たちはわたしのことを、「グラミーさん」と呼んだ。
でもグラミーという魚の種類をも表す名前だ。
それに対して目の前にいる彼、
「キルコ」と「いう名前は、魚の種類の名前から切り離された「特別」な名前のように感じられる。
いいえ違う。
「グラミー」はわたしにとって特別な名前よ。
絵理たちが「グラミーさん」とわたしを呼ぶとき、
何かしかの「特別」な気持ちを込めていたもの。
そうよ、立派な名前じゃない。
名乗るのにとまどう必要なんてない。
「わたしはグラミーっていうの。」
「……そうか。」
キリコは口ごもったあと、何かを考えている風に目を泳がせた。
それから、
「じゃあ、グラミー、よろしく」と言った。
キルコの目が、そこで初めて柔らいだように感じられた。