「『娘は隣国に売りましたので、空っぽの領地をお返しします』〜我儘王子から逃げるため筋肉親父と没落偽装したら、買い取ってくれた理想の眼鏡文官様にめちゃくちゃ愛されることになりました〜」
うららかな午後のことだった。来客用のソファに深く腰掛け、淹れたての紅茶の香りを一人静かに楽しんでいた私の耳に、ドタバタと廊下を駆けてくる騒がしい足音が聞こえてきた。
バンッ!と乱暴に扉が開かれたかと思うと、悲痛な叫び声が室内に響き渡った。
「婚約者のシャルロッテ様と甘い時間を過ごすにはどうすればいい!?」
バルサック子爵家の応接室。幼馴染の伯爵令息ラドクリフが勢いよく飛び込んできて地べたに頭をこすりつける姿を、私、クロエ・バルサックはソファでお茶を飲みながら冷ややかな目で見下ろしていた。見合いで一目惚れした婚約者と親密になるための助言を求めて、必死に泣きついてきているのだ。
必死な顔で叫ぶ彼を見下ろし、私は大口を開けて呆れるしかなかった。
私、クロエはバルサック子爵家の娘。我が家は軍馬の育成を生業としており、私は幼い頃からドレスより乗馬服を好み、泥まみれで馬を乗り回す野猿のような令嬢だ。
一方、ラドクリフは無駄に顔が良い伯爵令息。彼が見合いで一目惚れした相手は、深窓の姫君と名高い侯爵令嬢のシャルロッテ様だった。
「私みたいな野猿に聞かないでよ。でもまあ、直接お話しできる機会を作ってあげるわ」
数日後、王都にある我が家の庭園にて。私はラドクリフと共に、お招きしたシャルロッテ様を交えて三人でお茶会を開いていた。
お会いしたシャルロッテ様は女神のように美しく、心の広いお方だった。ラドクリフの不器用な愛情を伝えると、彼女は頬を染めて喜んでくれた。
その流れで、私の好みの話になった。
「クロエ様はどのような殿方がお好きなの?」
「そうですね……我が家は父を筆頭に筋肉だるまばかりなので、私は知的で眼鏡の似合う、文官肌の落ち着いた男性が良いですわ」
シャルロッテ様はふふっと笑い、「心当たりがありますわ」と仰った。
それが、まさかあんな事態への救いの糸になるとは、思いもしなかったのだ。
数ヶ月後。領地へ戻り、いつものように執務室で山積みの書類を片付けていた私のもとに、とんでもない凶報がもたらされた。我が領地は危機に瀕していた。
我儘で有名な第一王子が、私の事務能力とバルサック領の豊かな財力に目をつけたのだ。
「あの野猿令嬢を余の側室にしてやろう。領地の利益もすべて余の管理下に置く。余は遊んで暮らすゆえ、政務と領地経営はすべてその娘にやらせよ」
そんなふざけた王命が下されようとしていた。
断れば反逆罪。しかし、受け入れれば私は一生王子の奴隷として働き潰され、領民たちも重税で苦しむことになる。
悩む私に、丸太のような腕をした筋肉隆々の父はニヤリと笑って言った。
「クロエよ、お前は隣国へ行け。あとは父に任せておけ」
数日後、王宮の謁見の間。
呼び出された父は、国王と第一王子の前で丸太のような胸を張り、堂々と宣言した。
「陛下、ならびに殿下。我がバルサック家は完全に没落いたしました。つきましては爵位を返上しに参りました」
国王は目を丸くした。
「何を言うか! バルサック領は豊かであろう!」
「いいえ、立ち行かなくなりました。ゆえに、屋敷の家財、馬、美術品に至るまで、すべて金に換えました」
第一王子が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「馬鹿な! 余の財産になるはずのものを! ならばあの有能な娘はどうした! あいつだけでも差し出せ!」
父は冷ややかな目で王子を見下ろし、言った。
「娘は引き抜かれました」
「……は?」
謁見の間を、息を詰めるような重々しい静寂が支配する。居並ぶ近衛兵たちも呆然と立ち尽くし、第一王子の顔からはすっと血の気が引いていった。
その凍りついた空気を意にも留めず、父は悠然と言い放った。
「破格の条件を提示され、隣国へ転職いたしました」
国王が玉座から身を乗り出し、激怒した。
「貴様、何という身勝手を! どこへ娘を逃がしたのだ!」
「隣国の、ジュラン公爵家でございます」
「……なんだと?」
「あちらの次男様が優秀な事務能力を持つ妻を求めておられまして。破格の結納金とともに娘を迎え入れてくださいました。家財も馬もすべて、公爵家が適正価格で買い取ってくださりました」
そう、シャルロッテ様の紹介で、私は隣国の公爵家次男、セルディック様とお見合いをしていたのだ。
銀縁眼鏡が似合う、私の理想通りの知的な文官様。彼は私を一目見て気に入り、父の「娘を極上待遇で引き抜いて逃がしてほしい」という無茶な頼みを快諾してくれたのだ。
「娘を得た結納金を持ったまま、私はこれより隣国へ渡ります。これにて失礼いたします」
「ま、待て! 許さんぞ!」
「王子殿下の我儘に付き合って領民と娘を犠牲にするほど、私は愚かな父親ではございませんよ。空っぽになった領地は王家にお返しします。ご自由にどうぞ」
父は呆然とする国王と王子を残し、堂々と王宮を去った。
その後、王国はどうなったか。
空っぽの領地を押し付けられた第一王子は、有能な人材も資金もなく、領地経営に大失敗。馬も金も人材もない荒れ果てた領地に残されたのは、簡単な帳簿すら読めない無能な王子一人だけだったのだ。今頃、もぬけの殻となった領主の館で、誰も淹れてくれない冷めたお茶を前に頭を抱えていることだろう。
その惨状によって決定的な無能さが露呈し、貴族たちからの猛反発にあって王位継承権を剥奪された。
一方の私はといえば、隣国の美しい公爵邸の庭園で、のんびりとお茶を飲んでいた。
「クロエ、今日の書類仕事は終わったよ。少し休もうか」
優しく微笑みかけてくれるのは、夫となったセルディック様。
さらさらの髪に知的な眼鏡。冷徹な敏腕文官と恐れられる彼だが、指先ですっと銀縁眼鏡の位置を押し上げると、私を見る眼差しだけがとろけるように甘くなる。
綺麗なドレスを着ていても、庭の木を見て『あの枝なら登りやすそう』などと考えてしまう私の野猿らしいたくましさを、彼は「君のそういうところが大好きなんだ」と愛おしそうに見つめてくれるのだ。
彼が淹れてくれる紅茶は最高に美味しい。私は彼の手をぎゅっと握り返した。
「ありがとうございます、セルディック様」
「君が来てくれて、私の毎日は本当に明るくなった。君を引き抜かせてくれたお義父様に感謝しないとね」
公爵家で馬の育成責任者として雇われた父が、馬の世話の合間に豪快な笑い声をあげながらやってきた。丸太のような腕で破れた袖を捲り上げている。
「ガハハ! クロエ、隣国の馬は骨組みがしっかりしていて育てがいがあるぞ! セルディック殿、今日も娘を頼む!」
「お父様、また袖を破いて……! セルディック様、父が不躾で申し訳ありません」
私が慌てて謝ると、セルディック様はふっと優しく微笑み、私の腰にそっと手を回して引き寄せた。
「構いませんよ。クロエのたくましさは、このお義父様譲りなのですね。実に頼もしく魅力的です」
そして、私の耳元に顔を近づけ、甘い声で囁いた。
「ですがクロエ、あまりお父様ばかり気にしていると嫉妬してしまいます。今日の仕事のご褒美に、甘い紅茶と一緒に膝枕をさせてくれませんか?」
「〜〜っ! 喜んでお受けします!」
我儘王子を置き去りにし、理想の旦那様と筋肉隆々の父とともに掴み取った幸せな毎日に、私の心はどこまでも満たされていた。




