Faker
ショートショートです。
この作者の作品の試し読みにどうぞ。
――これは、本当に自分なのだろうか。
「A社に就職決まったんだって?これで人生安泰だね」
大学四年生の時、親戚の一人に言われた言葉だ。
激しい倍率の中、死に物狂いで勝ち取った就職先。
両親も、友人たちも、口々に自分を褒め、就職を祝ってくれた。
日本で暮らしていれば、一度は耳にしたことのある名前の会社に入社した。
第一希望の会社だったから、喜びもひとしおだった。
それから三年。
思えば、あの時が一番幸せだったのかもしれない。
何の責任も背負わず、夢だけを抱えていられたあの頃が。
前夜に空けた9%の缶チューハイを、つま先で蹴飛ばし、洗面所までふらふらと歩く。
伸びた髭に、青いクマ。
眼鏡をかけ、その鏡に映る目の前の人物に毎朝問う。
お前は誰だ? と。
顔を洗うと、ようやく思い出す。
――自分だ、と。
髭を剃り、髪を整えれば、やっと出来上がる。
皆が憧れたA社の会社員が。
山積みにされた洗濯物の中から、皺の少ないシャツを探し、袖を通す。
最後にネクタイを首にかける。
右手でぐっと締めたその瞬間、一瞬立ち眩みに似た感覚に襲われた。
それでも、向かわないといけない。
『憧れ』の会社へ。
朝ごはんは途中のコンビニで買えばいい。
歯を磨き、荷物を手にして玄関へ向かう。
カーテンは閉めっぱなしであることを思い出したが、どうせ帰ってくる頃には深夜だ。
革靴を履き、踵を直す。
まだ残るアルコールの重さを吐き出すように、大きく息を吐き出した。
今、玄関のドアを開けなければ、もう開けられない。
勢いに任せ、白く眩しい朝日の中へと飛び出した。
揺れる満員電車の波に流され、辿り着いたその場所は、散らかった資料とパソコンの置かれた無機質なデスクだ。
パソコンを開くために、顔認証システムなんてものが導入されている。
一瞬、暗い画面に映り込んだ、やつれきったその顔が、自分として認証される。
ログインするたびに、その事実を思い知らされた。
一刻でも早くカフェインでこの体に鞭を打たないと、キーボードを叩ける気がしない。
作業途中のファイルをダブルクリックし、足早に給湯室へと向かった。
紙コップに並々と注いだ薄いコーヒーを片手に席へと戻る。
ほのかな苦みとカフェインのおかげで、頭の中の靄が少し晴れた。
頼まれている仕事は未だたくさん残っている。
果たして、今日は何時に帰ることができるのだろうか。
今夜購入するカップラーメンと缶チューハイの銘柄はどれにしようか。
朝からそんなことしか考えていない自分の廃れっぷりに、思わず吹き出しそうになりながら、叩き慣れたキーボードの上で指を躍らせた。
今日も、23時を過ぎてパソコンの画面を落とすことになった。
暗い画面に映り込むその顔は、朝見たそれよりも随分とくたびれている。
乾燥機にかけた皺だらけのTシャツのほうがマシかもしれない。
スマホの画面を確認する。
LINEの通知数は多いが、分かっている。
その送り主のほとんどは、商業系のものであることを。
ワイヤレスイヤホンを耳に差し、未だ残業する社員たちに挨拶をして会社を後にした。
会社の通用口を出ると同時に、ネクタイの結び目を少し緩めた。
ようやく、大きく息を吸い込むことができた。
毎日利用する駅も、24時に近くなれば乗客も少なくなる。
いつも乗る車両に乗るための位置に立った。
ちらほらと酔っ払った人たちも現れるせいか、少し騒がしい。
プレイリストの設定を間違えたのか、流れるはずの音楽が止まってしまっている。
しかし、スマホを取り出して音楽を流すことも億劫だった。
ぼんやりと夜の空を見つめる。
ぼやけて霞んだ景色は、イヤホンで遮断された音の少ない世界と案外相性が良い。
街のネオンで彩られた偽りの明るさより、その輪郭の歪んだ微かな光に憧れる。
あわよくば、その光に触れられないかとさえ願う。
電車が到着するアナウンスが聞こえた。
いつもの車両。
いつもの席。
覚えることのない、いつもの顔ぶれ。
一歩、足を前に出した。
少し早いが、このタイミングくらいいつもと違っても許されるだろう。
電車の先頭のライトが強く光った。
――あぁ、あの歪な光が見えなくなってしまった。
ホームに、電車が入ってくる。
無数の窓が、静止画の連続のように目の前を通り過ぎていく。
目に止まらないはずの速さなのに、自分の目にはしっかりと映った。
その曇った窓ガラスに、にっこりと笑った自分の顔を。
カフェインでもアルコールでもない、その衝撃に心臓が激しく胸を打つ。
すっかり忘れていたその笑顔に、思わず手を伸ばした。
そうだ。
最も幸せだった、あの頃の笑顔だ。
もう一歩、あと少しでその笑顔を取り戻せる。
随分と懐かしいその温もりを手に入れたい。
窓に映る微笑む自分も、同じように手を伸ばした。
互いの指先が触れ合う。
その瞬間の笑顔を、――俺は忘れない。




