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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

Faker

作者: 佳紘
掲載日:2026/05/01

ショートショートです。

この作者の作品の試し読みにどうぞ。

――これは、本当に自分なのだろうか。





「A社に就職決まったんだって?これで人生安泰だね」


大学四年生の時、親戚の一人に言われた言葉だ。


激しい倍率の中、死に物狂いで勝ち取った就職先。


両親も、友人たちも、口々に自分を褒め、就職を祝ってくれた。


日本で暮らしていれば、一度は耳にしたことのある名前の会社に入社した。


第一希望の会社だったから、喜びもひとしおだった。


それから三年。


思えば、あの時が一番幸せだったのかもしれない。


何の責任も背負わず、夢だけを抱えていられたあの頃が。


前夜に空けた9%の缶チューハイを、つま先で蹴飛ばし、洗面所までふらふらと歩く。


伸びた髭に、青いクマ。


眼鏡をかけ、その鏡に映る目の前の人物に毎朝問う。


お前は誰だ? と。


顔を洗うと、ようやく思い出す。


――自分だ、と。





髭を剃り、髪を整えれば、やっと出来上がる。


皆が憧れたA社の会社員が。


山積みにされた洗濯物の中から、皺の少ないシャツを探し、袖を通す。


最後にネクタイを首にかける。


右手でぐっと締めたその瞬間、一瞬立ち眩みに似た感覚に襲われた。


それでも、向かわないといけない。


『憧れ』の会社へ。


朝ごはんは途中のコンビニで買えばいい。


歯を磨き、荷物を手にして玄関へ向かう。


カーテンは閉めっぱなしであることを思い出したが、どうせ帰ってくる頃には深夜だ。


革靴を履き、踵を直す。


まだ残るアルコールの重さを吐き出すように、大きく息を吐き出した。


今、玄関のドアを開けなければ、もう開けられない。


勢いに任せ、白く眩しい朝日の中へと飛び出した。





揺れる満員電車の波に流され、辿り着いたその場所は、散らかった資料とパソコンの置かれた無機質なデスクだ。


パソコンを開くために、顔認証システムなんてものが導入されている。


一瞬、暗い画面に映り込んだ、やつれきったその顔が、自分として認証される。


ログインするたびに、その事実を思い知らされた。


一刻でも早くカフェインでこの体に鞭を打たないと、キーボードを叩ける気がしない。


作業途中のファイルをダブルクリックし、足早に給湯室へと向かった。




紙コップに並々と注いだ薄いコーヒーを片手に席へと戻る。


ほのかな苦みとカフェインのおかげで、頭の中の靄が少し晴れた。


頼まれている仕事は未だたくさん残っている。


果たして、今日は何時に帰ることができるのだろうか。


今夜購入するカップラーメンと缶チューハイの銘柄はどれにしようか。


朝からそんなことしか考えていない自分の廃れっぷりに、思わず吹き出しそうになりながら、叩き慣れたキーボードの上で指を躍らせた。




今日も、23時を過ぎてパソコンの画面を落とすことになった。


暗い画面に映り込むその顔は、朝見たそれよりも随分とくたびれている。


乾燥機にかけた皺だらけのTシャツのほうがマシかもしれない。


スマホの画面を確認する。


LINEの通知数は多いが、分かっている。


その送り主のほとんどは、商業系のものであることを。


ワイヤレスイヤホンを耳に差し、未だ残業する社員たちに挨拶をして会社を後にした。


会社の通用口を出ると同時に、ネクタイの結び目を少し緩めた。


ようやく、大きく息を吸い込むことができた。





毎日利用する駅も、24時に近くなれば乗客も少なくなる。


いつも乗る車両に乗るための位置に立った。


ちらほらと酔っ払った人たちも現れるせいか、少し騒がしい。


プレイリストの設定を間違えたのか、流れるはずの音楽が止まってしまっている。


しかし、スマホを取り出して音楽を流すことも億劫だった。


ぼんやりと夜の空を見つめる。


ぼやけて霞んだ景色は、イヤホンで遮断された音の少ない世界と案外相性が良い。


街のネオンで彩られた偽りの明るさより、その輪郭の歪んだ微かな光に憧れる。


あわよくば、その光に触れられないかとさえ願う。


電車が到着するアナウンスが聞こえた。


いつもの車両。


いつもの席。


覚えることのない、いつもの顔ぶれ。


一歩、足を前に出した。


少し早いが、このタイミングくらいいつもと違っても許されるだろう。


電車の先頭のライトが強く光った。


――あぁ、あの歪な光が見えなくなってしまった。


ホームに、電車が入ってくる。


無数の窓が、静止画の連続のように目の前を通り過ぎていく。


目に止まらないはずの速さなのに、自分の目にはしっかりと映った。


その曇った窓ガラスに、にっこりと笑った自分の顔を。


カフェインでもアルコールでもない、その衝撃に心臓が激しく胸を打つ。


すっかり忘れていたその笑顔に、思わず手を伸ばした。


そうだ。


最も幸せだった、あの頃の笑顔だ。


もう一歩、あと少しでその笑顔を取り戻せる。


随分と懐かしいその温もりを手に入れたい。


窓に映る微笑む自分も、同じように手を伸ばした。


互いの指先が触れ合う。


その瞬間の笑顔を、――俺は忘れない。



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