第1話「はじめちゃん、プチットモンスターに夢中」
第1話 「はじめちゃん、プチットモンスターに夢中」の巻
ナレーション
「1997年。それは、世紀末の少し手前。消費税が3%から5%に上がり、世間では『失楽園』なんて言葉が流行っていた頃。しかし、この世界にはひとつだけ、大きな特徴があった。それは……男がいないことである」
ここは東京、大田区南馬込。
坂道の多いこの町にある「区立さくら小学校」の校庭では、今日も元気な女の子たちの声が響き渡っていた。
「いっけー! デリシャスヨーヨー、アラウンド・ザ・ワールド!」
「あーっ! また『うずらっち』がウンチしてるー!」
そんな喧騒の中、教室の隅っこで、緑色の分厚い本体にかじりついている少女がいた。
彼女の名前は、にのまえ はじめ。小学一年生である。
はじめの手にあるのは、弁天堂から発売された携帯ゲーム機『ゲームガール』。そして画面に映っているのは、今、小学生を熱狂の渦に巻き込んでいる『プチットモンスター 青』だ。
「……捕まらない。なんでハットしか出ないの。私の世界、ハットしかいないの?」
はじめは眉間にシワを寄せていた。彼女は一度集中すると周りが見えなくなる。
彼女の夢は電車の運転手だが、今はもっぱら「プチモンマスター」になることが目標だった。
「おーい、はじめ! 外で『天下』やろうぜ!」
ドスドスと大きな足音と共に現れたのは、クラスメイトの**真寺 百合**だ。
彼女は小学一年生離れした長身で、まるでモデルのよう。短く切りそろえたショートヘアが揺れる。彼女がバスケットボールを持つと、まるで大人と子供だ。
「ゆりちゃん……いま、ポッポと戦ってるから無理」
「なんだよー、ポッポなんて無視して来いよー」
百合は豪快に笑う。彼女がいるチームは球技大会全勝。あだ名は「さくら小のジャイアント馬場園」だ(本人は気に入っていない)。
「あ、あのね、はじめちゃん……い、一緒に行こう?」
百合の後ろから顔を出したのは、**芥川 柚希**だ。
彼女は、言葉がつまってしまうことがあるけれど、中身は意外とロックだ。先日も、お墓参りの時にお供え物のリンゴを勝手にかじり、「マズい」と言って投げ捨てたという武勇伝を持っている。
「ゆずちゃん……。わかった、行く」
はじめは『ゲームガール』の電源を切り、しぶしぶ席を立った。
はじめは自分の気持ちを切り替えるのが苦手だ。でも、友達に誘われると断れない、押しに弱い性格でもあった。
校庭に出ると、そこは戦場だった。
大田区の小学生の必修科目、ボール遊び『天下』である。
全員が敵。ボールを持ったら3歩まで。当てられたら外野へ。当てた相手が誰かに当てられるまで復活できないという、仁義なきサバイバルゲームだ。
「いくぞー! どりゃああ!」
ボールを投げたのは、チョン・ジフン。小太りの彼女は力が強い。
そのボールが、ひょろりとした長身の**青川 虎**に向かって飛ぶ。
「ひぃっ!」
虎は身をすくませたが、ボールは肩にかすった。
「あー! 虎、アウトー!」
「う、うう……痛いよぉ、ひどいよぉ……」
虎はその場でうずくまり、目元を手で覆った。肩が震えている。
一見、かわいそうな光景だが、クラスメイトは冷ややかだ。
「また嘘泣きしてる」
「指にヨダレつけて目元に塗ってるだけでしょ」
ナレーション
「青川虎。彼女は被害者ぶる天才である」
「もう、ジフンちゃんもいじめないの!」
止めに入ったのは、ハーフのビタライ・アーリーだ。……いや、アーミーかもしれない。
双子の二人はそっくりすぎて、正直はじめには見分けがついていなかった。多分、ちょっと怒ってるからアーリーだろう。
「さあ、はじめも入って! 行くよ!」
百合がボールを高く放り上げた。ゲーム再開だ。
はじめは、やる気を出して構えた。
「よーし、今日こそは最後まで残ってやる……!」
しかし、開始5秒後。
どこからか飛んできたボールが、はじめの顔面を直撃した。
バゴォッ!
「…………」
時が止まった。
ボールを投げたのは、隣のクラスの里美 啓、通称・大仏。額のホクロがチャームポイントの、電車好き仲間だ。
「あ、ごめん……」
啓が謝るより早く、はじめの目から涙が噴き出した。
「うわあああああん!! 痛いー! もうやめるー! 帰るー!!」
はじめは繊細なのだ。そして一度ヘソを曲げると長い。
校庭の隅でいじけるはじめ。
「あーあ、はじめちゃん拗ねちゃった」
「ねえねえ、今日の放課後、ウチおいでよ。新しいゲームあるからさ」
声をかけてきたのは、おかっぱ頭の**斎藤 美智子**だった。
彼女の家は最新ゲームの宝庫だ。
「……新しいゲーム?」
はじめはピタリと泣き止んだ。
「うん。弁天堂の『ハイパーファミオン』のソフト。『スーパーロマーリオワールド』があるよ」
「行く!!」
はじめの立ち直りは早かった。ADHD気質の彼女は、興味の対象が変わると前の悲劇をきれいさっぱり忘れるのだ。
放課後。
はじめは、美智子の家にいた。
テレビの前には、憧れのグレーの本体『ハイパーファミオン』が鎮座している。
「はい、これ」
美智子が差し出したのは、『スーパーロマーリオワールド』のカセット。配管工のヒゲのおじさん(この世界ではおばさん設定だが、ヒゲはある)が恐竜に乗って冒険する大人気ゲームだ。
しかし、はじめの顔が曇った。
「……ちがう」
「え?」
「これじゃない……私がやりたいのは、これじゃない……」
はじめの瞳に、再び涙が溜まっていく。
彼女の中で「美智子の家でやるゲーム」といえば、ゴリラが主役の『ハイパートンキーコング』と決まっていたのだ。
「え、でも今日はロマーリオやるって……」
「やだー! トンキーコングがいいー! トンキーコングやりたいー!!」
はじめは畳の上で手足をバタバタさせて泣き叫んだ。
美智子は困り果てている。
「だって、トンキーコングは従姉妹に貸しちゃってて……」
「うわあああん! ゴリラー! ゴリラ出してよぉおお!」
ナレーション
「にのまえはじめ、7歳。彼女のこだわりは、時として周囲を混乱の渦に陥れる。しかし本人は、ただゴリラに会いたい一心なのだ」
結局、はじめは美智子が出してくれたカルピスを一気飲みし、目を赤くして帰宅した。
夜。
南馬込のマンションの一室。
「ただいまー」
帰ってきたのは「お父さん」だ。
中野区の教育委員会で働くお父さんは、紺色のパンツスーツを着た、ショートカットの少し小柄な女性だ。性格は不器用で、今日もネクタイが少し曲がっている。
「おかえりなさい。ご飯できてるわよ」
キッチンから顔を出したのは「お母さん」。
児童館の先生をしているお母さんは、エプロン姿。この世界では、どちらが父と呼ばれ、母と呼ばれるかは家庭によるが、はじめの家ではこのスタイルだ。
テレビでは、ニュースキャスターの**古谷奈美恵**似のアナウンサーが、橋本龍子総理大臣の演説について報じている。
「ねえ、はじめ。今日は学校どうだった?」
お父さんがビール(発泡酒)を開けながら聞いた。
はじめは、口いっぱいにハンバーグを頬張りながら答えた。
「んっとね、天下で顔ぶつけられて、トンキーコングができなくて泣いた」
「そうかあ、それは大変だったな」
お父さんは優しく笑った。
「でもね、明日はアーリーとアーミーと、池上本門寺に行く約束したの!」
「あら、迷子にならないようにね」
お母さんが釘を刺す。
この世界には男がいない。
けれど、家族がいて、友達がいて、理不尽なボール遊びがあって、思い通りにならないゲームがある。
はじめにとっては、これが当たり前の、愛すべき日常なのだ。
ナレーション
「はじめちゃん、明日はドンキッキーズを見逃さないようにね。明日もまた、平和な一日でありますように」




