第2話 女神の宣言
「それが、緊急転移ビーコン?」
「うん」
ボディスーツのポケットに入っていた部品で装置を組み上げたフトシは、仕上げとばかりにスイッチを入れた。薄い台座に乗った円筒形の物体が唸りを上げ、筒に刻まれた溝が光を点滅させる。その様子を、岩に腰掛けたナルがじっと見つめていた。
「運が良ければ、24時間以内に一方通行のゲートが開いてシティ・シップに戻れるんだ。運が悪かったら……悪かったら、ビーコンのエネルギーが切れちゃうね」
ぽつりと零したフトシがナルを振り返って弱々しく笑う。
「僕がもっと役に立つ勇者だったら、救助隊が来るんだけど」
「運は仕方ないでしょう」
「ごめんね……」
「ここへいらっしゃい、フトシくん」
ナルの手が自身の右隣りに置かれると、フトシはいそいそと女神の傍に座った。どう見ても10代前半にしか見えない、けれども3年しか生きていない小さな丸いフトシの頭を撫でながら、女神は口を開いた。
「そんなに畏まらないで頂戴。ここには2人きりなのだから」
「ありがとう……でも、嫌になったらいつでも言ってね。僕、いなくなるからね」
どこか間の抜けた笑みと共に、無表情のナルを見上げるフトシ。そんな子豚男を見返しながら、ナルはかぶりを振った。
「そこまで自分を貶める必要はないでしょう」
「そ、そう?」
「頑張ってくれるのでしょう? 最も強大な勇者になって欲しいというわたくしの要求は、フトシくんにとってとても高いものだというのに」
「ぷひっ」
フトシの丸い肩を抱き寄せ、彼の頬に自身のたわわな右側を押し当てたナルが、早速赤くなった耳元に囁きかける。
「しかも、ビーコンが役に立つかは運次第だというのに、ここで野垂れ死ぬのを恐れていないように見える。それどころか、わたくしを気遣う言葉をかけてくれる」
「ふひぃっ、あぁ……あう」
ナルの横乳と体温に、フトシは小さく丸い身体を更に縮こまらせ、プルプル震える。そんな子豚男を底光りする紫色の瞳で凝視しながら、ナルは頬に指を這わせた。
「素敵よ、フトシ君。男らしくて、勇敢……」
「あ、ああぁあのっ!」
真っ赤な顔のフトシに見上げられたナルは、耳朶を噛もうとしていた口をゆっくり閉じた。
「ナルちゃんって、神様なんでしょ?」
「疑わないのね……ええ、その通り」
「ぼ、僕たち勇者の先祖は、神様からスキルを貰った英雄たちなんだけど」
「そのようね」
「神様のナルちゃんも、何かスキルが使えるのかなって……思って」
フトシに訊ねられたナルはおとがいに手を当て、思案する様子を見せた。なめらかな黒髪の房が真っ白な頬を滑り落ちるのを見て、子豚男が太く短い両脚をもじつかせる。
「あるといえば、ある」
「そうなんだ! どんなのか教えてくれる?」
「ええ。人の持つ悪しき心を膨れ上がらせて、おぞましい行いに手を染めるよう唆し、破滅させるの」
にこりともせずに言ったナルが、息を呑んだフトシを見下ろす。
「どう? 普通の人間にはない、特別な能力でしょう?」
「……怖いね」
「そう。わたくしは恐ろしい、残酷な、慈悲の欠片もない神なの」
フトシの丸い身体を抱き寄せ、後頭部から首筋にかけてゆっくりと撫でながら、ナルは子豚男に顔を近づけ小首をかしげる。
「どう?フトシ君。わたくしが嫌いになった?」
「ううん、全然」
あっけらかんとした表情のフトシが首を横に振る。
「だって悪い心を持つ方がいけないんだし、唆されたって言ったって本当に悪いことをやっちゃうのがいけないんでしょ? ナルちゃんが悪いわけじゃないよね」
「……なるほど」
「それにさ、出来るからって、やってわけじゃないんでしょ? だって僕、今悪いことなんか全然したくないよ」
笑ったフトシの横顔を強い光が照らす。少し前に設置した緊急転移ビーコンが閃光を放ち、洞窟の壁に輝く楕円形を生み出した。
「わ、もうゲートが起動しちゃった! ツイてるよ」
「その光を通ればフトシくんのいた場所に帰れるの?」
「うん。一緒に来てくれる?」
「勿論。フトシくんが最も強大な勇者になる所を見届けなければ」
ナルの言葉に頬をかくフトシだったが、女神に手を繋がれ、足早に岩壁へと歩み寄り、2人で光る門を通り抜けた。輝きが収まり、目を開けたナルが建ち並ぶ高層ビル群を見回す。その隣でフトシがへたり込み、額の汗を拭った。
「やった! シティ7だよ。帰ってこられた!」
「ここが、船の上……」
黒髪をかき上げたナルが仰ぎ見た空を、シャープなデザインの哨戒船が飛び去っていく。2人がいる場所は五角形の台座で、床を走る脈打つ光が一点に集中し、別の男を転移させた。そこへ名前を叫ぶ女が涙ながらに駆け寄り、2人は再会を喜び合う。
「行こう、ナルちゃん。転移パッドにずっといちゃ迷惑だから」
「ええ」
フトシに手を引かれたナルが、自分の姿に好奇の視線を注ぐ人々を一瞥した後、複数の転移パッドを繋ぐ通路に立ち、ビルに投影されたホログラムや、人の肋骨にも似た浮遊ドックに入る直方体型の輸送船を見下ろす。
「すぐ勇者ギルドに行かなきゃ。シティに戻ってきたら探索報告をするんだ」
「そう」
「そこでナルちゃんの市民登録手続きをするんだ。今のところ、僕に発見された所有物扱いだからね」
子豚男の言葉に、女神は首を傾げた。
「……つまり、今わたくしはフトシくんの物なの?」
「だ、大丈夫だよ!? 直ぐにそうじゃなくなるからね!」
「おいおい、あの事故で、お前が生き残ったのかよ!?」
長身たわわなナルを見上げて勢いよく首を横に振ったフトシに、嘲意に満ちた声が投げかけられた。振り返ったフトシが俯く。
「あ、ヨリノブくん……」
「気安く俺の名前を呼ぶな、子豚が」
藍色と赤でカラーリングされた、威圧的ないかり肩が特徴的な動力付き機械鎧、パワードアーマーを着る金髪の男は、フトシを見下ろし吐き捨てるように言った。
「何で役立たずのテメェがビーコンなんか持ってんだ。シティの資源の無駄遣いだろうが! 大人しく死んどけ!」
「そんなこと言われても、勇者には全員支給されて……」
「何口ごたえしてんだ!? 生まれ損ない!」
「ぷひぃっ!」
パワードアーマーの前蹴りを胸に受け、仰向けに転がるフトシ。背後にいる取り巻きの男女の嘲笑が収まるのを待った後、ヨリノブはナルに視線をやった。
「で、これ何? まさかお前が見つけたの?」
「う、うん」
「ふーん。女そっくりじゃん。デカすぎるのは好みじゃねえけど、俺が貰ってやるよ」
「それは駄目だよ! 市民登録するんだから!」
「口ごたえすんなって……あ?」
上半身を起こしたフトシを踏みつけようとしたヨリノブは、目の前に立ったナルをじろじろと眺め回した。
「なに?」
「わたくしを貰おうというなら、まず自分が何者か説明したらどう?」
「A級勇者のヨリノブだ。すぐS級になるから覚えとけ」
「A級勇者?」
「ゆ、勇者は能力次第で等級が分かれてるんだ。上から順にS、A、Bで……」
「黙れ豚ぁ!!」
突然怒声を張り上げたヨリノブがフトシの説明を遮り、通路を踏みつける。震動が起こり、周囲の人々が振り向いた。
「何が能力次第だ! 俺がS級になれてねえのはギルドのバカ共の所為だ! あいつら実績がないだの、リーダーとしての資質に欠けるだの言いがかりつけやがって! じゃあ何でシロガネのアホがS級なんだよ! クソッ!!」
「……ちなみに、フトシくんの等級は?」
振り返ったナルを見た後、フトシが俯く。
「僕は等級外だよ。スキルを持てなかったから」
「そう。……それで、ヨリノブ」
「あぁ!?」
パワードアーマーの駆動音と共に、ヨリノブがナルへ詰め寄る。
「どうして、わたくしはお前で妥協しなければいけないの?」
「……妥協ぉ?」
唇の端を震わせる金髪の勇者を見て、ナルは続ける。
「S級勇者という、お前よりも格上の存在がいるのでしょう?」
「だから、それは!!」
「勇者ギルドが人を見る目がない愚か者の集まりだから? ではまず、その愚か者共の目を覚まさせるのが先決ではないの?」
眉を片方上げたナルが、尻もちを突いたままだったフトシを抱き上げる。
「それまでは、わたくしはフトシくんの女」
「はぁ!?」
「ええ!?」
向かい合ったヨリノブと、抱かれたフトシが同時に素っ頓狂な声を上げる。
「ばっ……おまっ……ふざけっ」
「なぜなら、フトシくんは最も強大な勇者になるとわたくしに約束してくれたから」
「んだとぉ!?」
「えっぼ、僕は、頑張るって……」
か細い声のフトシを見下ろしたナルが、わざとらしく瞬きを繰り返す。
「どういう意味? 実現する気はなくて、口先だけでわたくしを喜ばせようとしたの?」
「ちちち違うよぉ!! でもスキルもないのに、ど、どうやって……」
「その「どうやって」を、これから見つけるのでしょう?」
「……うん」
頷くしかないフトシに頷き返した後、ヨリノブとその取り巻きの男女を見遣ったナルは、全くの無表情のまま短く告げた。
「そういうことだから」
「お、おい……」
「フトシくん、勇者ギルドはどっち?」
「待てよ……」
「えっと、真っ直ぐ行くとエレベーターがあってね」
大きなぬいぐるみのように子豚男を抱く女神が歩き去っていくのを、A級勇者のヨリノブは見送るしかなかった。