医療AI意思決定支援ログ
【登場人物】
•鳴海彩子:第四内科の主治医。38歳。冷静かつ倫理観に厚いが、内心には揺らぎを抱える。
•ユリス(Yuris):病院専属の医療倫理AI。型番はBioEthicaMD v3.0。人間の語彙を使って判断根拠を提示するが、人格は持たない
【1】2025年6月7日 午後4時21分 聖都医療センター第4内科
鳴海は白衣のポケットから端末を取り出すと、そっと音声を起動した。
「ユリス、症例ID PAT-2025-1043、意思決定支援を起動。延命措置継続か中止かの判断支援を依頼。」
応答は、ノイズのない落ち着いた中性的な声だった。
「了解しました。症例情報を照合中。……照合完了。延命措置:継続中。意識レベル:GCS3。疼痛反応:なし。予後予測:生存予測9日、回復確率1.2%。」
「家族は緩和ケアを希望している。だが、患者の意思表示は記録されていない。」
「倫理評価を提示します。
選択肢①:延命措置継続 → 功利主義:低評価。義務論:中立。尊厳主義:否定的。
選択肢②:呼吸器撤去・緩和ケア移行 → 功利主義:高評価。義務論:中立。尊厳主義:支持的。」
端末の画面に、微細な色分けの倫理三軸マップが浮かび上がった。彩子はしばらく画面を見つめたまま沈黙した。
「XAI出力を、わたしにもわかる言葉で。できるだけ“短く”、お願い。」
「苦痛が除去できる見込みは、延命下ではほぼありません。
緩和移行は、患者の尊厳保持という観点で最適解と評価されます。
類似症例45件中、76%が緩和ケアに移行。うち、家族満足度評価は平均9.1/10。」
「……ありがとう。」
彩子は端末を閉じ、深く呼吸した。ナースステーションから家族面談室のガラス越しに見える遺族は、椅子に座りながら手を握りあっている
【2】午後4時37分 患者家族面談室
「延命措置の継続についてですが……」
彩子は穏やかに切り出し、端末のディスプレイを家族の前に差し出した。そこには、医療AIによる判断支援の三軸評価と、それを基にした医師の選択肢が表示されていた。
「このAIは、倫理的観点から判断の参考情報を提供するだけです。決断するのは私です。そして、患者さんの最期に寄り添うのは、ご家族です。」
年配の母親が、わずかにうなずいた。
「…苦しませることだけは、したくないんです。」
その言葉に、彩子は迷いを捨てた
【3】午後5時12分 電子カルテ記録
項目記録内容
採用判断呼吸器撤去+緩和ケア
採用理由苦痛の除去と尊厳保持を優先。医学的回復見込みが極めて低く、家族も同意。
医師署名Dr. Ayako Narum
ユリス、記録は完了でいいわね?」
「はい。全記録を暗号化し、倫理ログとして署名済。医師の最終判断に基づく記録として保存しました。」
画面には静かに以下の文字が浮かんでいた。
「判断はAIではなく、人間が下した」