三矢と少女と炭酸水
「え⁉ 部活辞めんの⁉ あんなに絵上手なのに⁉」
「うん。進路で使えるほど上手いってわけでもないし、別に美術系の仕事に就きたいと思ってるわけでもないしね。無駄な時間になっちゃうから、二学期入ったらすぐ退部届出す予定」
三矢は流れる景色を見つめながらそう答える。
一時間ほど前くらいだろうか、助手席から見えるものは山ばかりになった。いつもは高層建築物に囲まれているので、周りに緑しかないことは珍しい。道も修繕が間に合っていないような、がたがたとしたものが増えてきた。
「あ、見えた。あれあれ、あれがお義母さんの家だよ」
示された指を辿って、助手席の窓ガラスからフロントガラスの方へ顔を向ける。そこには、昭和初期に建てられたような立派な日本家屋があった。二階建ての木造建築で、日中はずっと日が当たり続けるよう計算された場所にくれ縁が設置されている。古さは否めないが、丁寧に管理されてきたことがうかがえるいい家だ。
ここが――顔も知らない祖母が住んでいた家。
思わず感嘆の息がもれる。この大きさの家を維持することは簡単ではなかっただろう。
父から聞いた話によると、祖母は祖父が亡くなって以降、ずっとこの家で一人生きてきたそうだ。彼女は病気にかかることもなくすこぶる健康。しかし、一週間前に階段から転落し腰椎を圧迫骨折。退院後はすぐ介護施設に移動する予定らしい。さすがの祖母も歳には勝てなかったというわけだ。
「それにしても偉いねぇ三の字。ばあちゃんっていっても、会ったことない人になるわけじゃない? その人の家の片づけとか進んでやれることじゃないよ」
「父さんも母さんも文句言うだけで全部ゆうくんに任せようとしてたし、それなら俺がやろうかなって思っただけだよ。ちょうど夏休みだし」
ゆうくん――茂木祐介が、三矢の言葉を聞いて引きつった笑みを浮かべる。三矢の両親に無理やり押しつけられる光景を想像したのだろう。あの二人によって面倒ごとに巻き込まれたのは一度や二度じゃない。苦労が多い人なのだ、三矢の叔父は。
そんな祐介を見ながら、三矢は祖母が入院したと連絡があった時のことを思い出す。「どうしてこんな忙しい時に」「これだから父さんが死んですぐ施設に入れって言ったのよ」などと、両親からは散々な言われ様だった。――もはや赤の他人同然の祖母が可哀想に思えてしまうほどに。
書類上は家族だ。血だって繋がっている。それなのに、こんな風に言われてしまうなんて、そんなのは辛すぎる。
両親と同じような人間だと思われたくなくて、気づけば自分からこの件に名乗り出ていた。無理しなくていいと言いながらも、面倒ごとを引き受けてくれる人が見つかったことに安堵の色を浮かべていた彼らの顔は記憶に新しい。
家と同様、広い庭に車を停めてもらい、三矢は丁寧にシートベルトを外して助手席から荷物を持って降りる。
「ちょ、ちょっと待って三の字」
そんな彼の腕を、運転席から身を乗り出した祐介がつかんだ。
「ねぇ、本当にこの家泊まるの? たしかに趣はあるけどさぁ……その、何か出そうだよ」
「何かって?」
「言わせないでよ、幽霊のこと!」
祐介は形のいい眉を八の字にしてそう言い放った。もう三十五歳のはずなのにどこかあどけなさの残るこの叔父のことを、三矢はけっこう好いている。
「大丈夫だよ。じいちゃんが死んでからずっと一人でばあちゃんは住んできたんでしょ?」
「それはそうだけどさぁ。……三の字、本当に遠慮してない? 夏休みの間くらいうちに泊まったっていいんだよ?」
「遠慮なんかしてないよ。大丈夫、ありがと」
口角を上げてそう言えば、祐介は不満そうに口を噤む。
たしかに、祐介の家はここから一時間半ほどの距離だ。しかし夏休みの間、毎日送迎を頼むわけにもいかない。彼にも彼の生活があるのだ。
「……わかった、三の字がそこまで言うならもうなにも言わない。でもね、なにかあったらすぐに連絡すること、これだけは約束して。時間とか気にしなくていいから」
つり目な三矢とは正反対のたれ目が真剣さを帯びる。茶化すわけにもいかなくて、素直にうなずいた。
やけにゆっくり去って行く祐介の車が見えなくなって、三矢は改めて祖母の家を真正面から眺める。
今日から一ヶ月、ここは自分だけの城だ。片づけを目的としているため物は次々減っていくだろうが、まるで大きな秘密基地を手に入れたようでなんだかわくわくする。
家の中に入るため、玄関引き戸に手をかける。最近では玄関が引き戸という家もめっきり見なくなった。からから、という乾いた音をたてて引き戸がスライドする。祐介から聞いた通り、鍵は開いていた。そこから一歩踏み出せば、籠ったような埃臭さが三矢を襲う。例えるならば、体育館のような匂いだろうか。うん、嫌いではない。
ぐるり、と屋内を見渡す。家主がいなくなって一週間経つというのに、中々きれいに保たれていた。適度に掃除をしていたことがうかがえる。
祖母は、きれい好きだったのだろうか。
正直に言うと、なんというか、もっとごちゃごちゃした家を想像していた。老人は不要な物を買ったり、家のデザインに会わない小物を飾ったりするイメージがある。だが自分の祖母は、少なくともそういうタイプではないことがわかった。
「ここまできれいだと、俺がやることあんまりないかも……」
他の部屋も見て回り、思わずそんな言葉がこぼれてしまう。それほどまでに物がないのだ。
もしかしたら、祖父が亡くなった時点で周りに迷惑をかけないよう捨てられる物は捨てていたのかもしれない。想像上ではあるが、淡々と目の前のことを考えて動くそういう部分は好感が持てる。
実の娘だという母とは大違いだ。そう思い息をつく。
彼女は感情第一で行動する節があるのだ。父と喧嘩になった際も、「本当はあれが嫌だった」「こういうところがわかり合えない」などと、思いつく限り過去のことを掘り返してくる。第三者としてその姿を見ていると、いくら親とはいえうんざりしてしまう。
嫌だと思ったその時に伝えればいいのに、なぜ今になって言うのだろうか。三矢にはそれが理解ができなかった。
そこまで考えて、はっとする。――いけない。せっかく夫婦喧嘩ばかりの両親と物理的に距離をおけたのだ。こんな場所でまであの二人を思い出す必要はない。考えていたことを吹き飛ばすように頭を振る。
まずは今日の夕飯のことでも考えよう。消費期限が切れていないものは食べてしまっていいと許可が出ている。
そう思い立って、三矢は台所へ向かった。
「たしか台所は居間の隣だってゆうくんが――」
――言ってたな。
紡ぐはずだったその言葉は、ひゅっ、という息の音に変わった。
ここは、一週間前に入院した祖母の家。祖父が亡くなって以降、祖母だけが住んでいた家。その家の台所に――一人の少女が立っていた。
日焼けした肌。薄汚れた白割烹着にもんぺ姿。黒く長い髪を後ろで束ねただけのシンプルなヘアスタイル。余分な肉がついていない身体。
それはまるで、歴史の教科書から出てきたような人だった。
なんか、いい匂いがする。
真っ先に思い浮かんだことはそれだった。家の匂いではない。油を使った料理みたいな、そんな香り。
「……痛い」
ぼやけた視界に飛び込んできたのは、うねうねとした木目の天井。次いで襲ったのは、後頭部の鈍痛。自分が横になっていると気づくのに、そう時間はかからなかった。
右肘をついて上体を起こす。ここは……居間だろうか。
痛む後頭部に手をやると腫れていることがわかる。こぶができているようだ。
いや、そもそもどうして自分はここで寝ていた? たしか台所に向かおうとして――
刹那、もんぺ姿の少女が脳裏をよぎる。
「…………女の子が、いたような――」
自分のものとは思えないほど掠れた声。まるで老人だ。
脊椎から這い上がってくる恐怖に息が浅くなる。誰もいるはずがないこの家で、自分が見たあれは何だったのか。
硬く拳を握ったその瞬間、
「――あ、起きたん?」
台所から、おいしそうな匂いを引き連れた少女が現れた。手には卵焼きを乗せた皿を持っている。
「急に倒れっから心配したで。まぁ、んな貧相な身体してんじゃしょうがねぇわな。おら食え、なんか腹に入れろいな」
きれいに丸まった卵焼きを押しつけられ、思わず受け取ってしまう。湯気が立つそれはたしかにおいしそうだ。
「ほれ、箸」
「あ、ありがとうございます……」
それにしてもすごい訛りだ。理解できないほどではないが、独特なイントネーションが聞き慣れないから別の言語みたいに聞こえる。口もしっかり開いていないのか、言葉が潰れているようだ。
「……あのぉ」
「ん?」
「俺、気絶してました?」
「おん。あたしを見た瞬間ぶっ倒れてたで」
「さ、さようでございますか……」
なんとなくそんな気はしていたが、まさか本当に驚いて気絶していたとは。きっと後頭部のこぶは倒れた時にできたものだろう。
「何はともあれ、目ぇ覚めてよかったよ。白目むいてぶっ倒れんだもんなぁ、あたしゃ一瞬死んだかと思っちまった」
現状を飲み込めずろくな返事すらできない三矢よりも、目の前にいる少女の方が落ち着いているというのは一体どういうことだ。普通、見知らぬ男と一緒にいたら少なからず警戒するだろうに。
「あの、俺と二人だけですけど、その、危ないとか思わないんですか?」
そう問えば、少女は一瞬きょとんとし、耐え切れないとでもいうように笑い出した。そんな面白いことを言った覚えはないのだが、と思っていると、彼女は息を整えてから言葉を紡ぐ。
「はー。おめぇさん、なからひょうきん者だな」
「は? ひょうきん?」
「おん。いっぺん鏡見た方がいいで」
なぜそんな話になったのか理解できない。そんな三矢の心境を理解しているように、少女は言葉を続けた。
「見た感じ武器も持ってねぇし、おめぇさんみてぇなひょろい奴ぁ兵士じゃなかんべぇよ。それに、あたしを見ただけで気絶しちまうような男衆に負ける気はしねぇなぁ」
そうですか。そこまで弱そうですか。
別に鍛えているわけでもないし、自分がひょろい身体つきだということくらいわかっているが、こうも真正面から言われると刺さるものがある。
落ち込んでいる三矢の耳に、それにしても、という少女の声が届く。
「この家は見慣れねぇもんばっかだなぁ」
そうだろうか。そんなことはないと思うが。そう少女に伝えれば、彼女は大きく首を振った。
「そんなわきゃねぇ。台所だけでも変なもんがえらいあったんだ」
「変な物って?」
「まず使い方のわかんねぇ四角い箱だんべ? あとは丸くて線が生えてるやつに、火が吹き出るコンロ。あんなもんが水場にあったら動きづらくて敵わねぇ。どこで配給されたもんだ?」
配給? 一体なんの話だろうか。
「よくわからないけど、台所にあるなら大体は家電量販店とかで買った物だと思う……」
いまいち理解できていない表情を浮かべる少女。その顔をしたいのはこちらの方だ。そもそも、台所にある物が見慣れないっていつ時代の人だよ。どこの家もそんなに変わらないだろうに。そこまで考えて、ぴたりと思考が停止する。
――いや、この子、本当にいつ時代の人だ?
服装からしてこの時代ではないだろう。もんぺなんて歴史の教科書でしか見たことない。そう、まるで戦争時代に生きていた人のような――
「ねぇ……自分が何年生まれかわかる?」
「ん? そんくれぇわかるよ――一九三二年生まれだい」
耳を疑った。今、彼女は何と言った? 一九三二年?
目の前の少女を見つめる。薄い眉毛が特徴的のどこにでもいそうな子だ。一九三二年生まれでこの若さはありえない。もしも本当であれば、この子はもうしわくちゃのおばあちゃんのはずだ。
そこまで考えて、ある一つの考えに辿り着く。
――これはもしや、タイムスリップというやつなのでは?
そう考えれば、台所にある物が見慣れないと言っていたことにも説明がつく。
「……名前はなんていうの?」
名前が現代風なら、彼女は三矢をからかっている可能性がある。そう思って尋ねたが、
「――千代。今年で十四だい」
彼女はしっかりとそう言った。
…………駄目だ。超昔っぽい名前だ。
遠くなる意識をどうにか繋ぎとめて、千代と名乗った少女を見つめることしかできなかった。
「三矢は今日二階の部屋を掃除するん?」
「うん、そのつもり」
「わかった。じゃあ洗濯が終わったら手伝い行ぐ」
「ありがと。……あ、千代ちゃん、洗剤の量は――」
「蓋に書いてある線まで、だんべ? わぁかってるよ、もうえらい量入れて泡まみれにしたりしねぇって」
朝八時半の朝食。居間で一日の予定について話すことが最近の日課だ。
千代がタイムスリップしてきて早二週間。
名前くらいしかお互いのことを知らないくせに、中々どうして上手く暮らせている。
会話がないわけではない。むしろよく話している方だ。今日の夕飯についてとか、掃除の仕方はこっちの方が効率いいだとか。
なのに、喧嘩は一度もしていない。
正直、彼女と一緒に暮らし始めて、困ることがないのだ。
「ごちそうさまでした」
「はいお粗末様」
なぜこんなにもすごしやすいのだろう。そう思いながら手を合わせる。
今日の朝食は卵焼き、納豆にご飯というシンプルなラインナップだ。しかし、卵焼きはほんのり甘く、出来立てのため温かい。
それだけで、満たされるものがある。
「今日もすごくおいしかったです」
「そう言われっと作り甲斐ってもんがあらぁな」
嬉しそうに笑う彼女を見てから、食べ終わった食器を台所へ運ぶ。
彼女が料理を作り、三矢が洗い物をする。話し合ったわけでもないのに、いつの間にか役割分担がきっちり決まっていた。そして不思議と不満はない。
両親が喧嘩ばかりしている実家よりも居心地がいい。そんな風に思えてしまうのも仕方がない。そう、仕方ないのだ。
あぁ、そっか、とやっと気づく。この家に流れている空気はやわらかいのだ。
怒鳴り声がしない。沈黙も辛くない。言葉一つが痛くない。
いつだって呼吸はしていたはずなのに、今日はえらく息が吸いやすかった。
「掃除機しまってくっから、三矢は休んでろいなー」
「うん、ありがと」
廊下に出た千代の背を見送り、三矢はその場に腰を下ろす。
千代は物覚えがいい。炊飯器も電子レンジも掃除機も、一度使い方を教えるだけですぐに覚えてしまった。
そのおかげもあり、家の片づけは順調に進んでいる。この進み具合で考えれば、一ヶ月も時間はいらないかもしれない。
「うぅぅ、全身が痛い……」
毎日元気に掃除してくれる千代とは打って変わって、三矢の身体は悲鳴をあげていた。重い物を運んだり、棚から降ろしたりと、普段使わない筋肉を酷使するため、ほぼ毎日筋肉痛に悩まされているのだ。
こんなにも自分が「もやし男子」だとは思わなかった。
筋肉痛独特のだるさに襲われていると、夕方五時を知らせる「夕焼け小焼け」が鼓膜を揺らす。
もうこんな時間だ。夏は日が長いので、時間間隔が狂ってしまう。そんなことを考えていると、軽そうに駆ける足音が三矢のそばで止まった。
「三矢!」
「うん」
「すーぱー!」
「そうだね。行こっか、スーパー」
音が出るのではないか、という勢いで首を縦に振る千代。そこまで嬉しそうな顔をするなら、もっと早くに連れて行ってあげればよかったなと思う。
四日前のことである。好物である炭酸水が切らしたために、千代を連れて近所の小さなスーパーに行ったのだが、それ以来ずいぶんと気に入ってしまったらしい。
ご本人曰く、あんなに食べ物が並んでいるなんてすごい。一生いても飽きないとのことだ。
一生いたらさすがに飽きるだろ、と思ったが、満面の笑みを浮かべた彼女を前にそう言うのは野暮というものだ。
「ここは田舎だから小さめのスーパーしかないけど、もう少し街に出たらショッピングモールとかもあるよ」
玄関の鍵を締めて、二人並んで歩き出す。紫と橙が混じり合った空を眺めながらそう言うと、千代はすごい勢いでこちらを向いた。
「も、もーる⁉ ってなんでぇそりゃ! すーぱーよりすげぇん?」
「すごい……かはわからないけど、大きくはあるかな。あ、コンビニっていうのもあるね。食べ物だけじゃなくて、だいたい何でも手に入る便利なお店って感じのやつ」
千代は目をきらきらさせ、鼻息荒く三矢の話を聞いている。
十四歳の割に言動が大人びているように感じたが、こういう部分は年相応なのではないだろうか。
「あー、うん。今度行こっか」
「やった!」
踊り出しそうなくらい喜ぶ彼女を見る。
最初に会った時のようなもんぺ姿ではなく、三矢が持って来ていた半袖シャツとステテコというラフな格好。髪は変わらず後ろで一つに束ねている。日焼けした肌も相まって、ただの活発な女の子にしか見えなかった。
きっと、タイムスリップしてきたなんて誰も思わない。
そう考えるたび、三矢の中ではいつも問いが生まれる。
――千代は、いついなくなってしまうのだろうか。
こっちの時代にタイムスリップして「来た」ということは、いつか彼女が生活していた元の時代に「帰る」時が訪れるだろう。
それは、もしかしたら三日後かもしれない。いや、今すぐであったとしておかしくないのだ。
そう思った瞬間、身体が動いていた。
「うおっ」
車道側を歩く千代の腕をつかんで自分の方へ引き寄せたのだと気づいたのは、彼女が不思議そうな顔でこちらを見上げていたからだ。
はっとしてすぐに腕をはなす。
「あ、ごめん……。えっと、車が来てたから……」
嘘だ。たしかに車は走っていたが、速度も遅く危ないことなんて何もなかった。
ならどうして、こんなことをしてしまったのか。
まるで子どものような理由であったことに羞恥を覚える。何をしているんだ、十七にもなって、こんな、三つも年下の女の子に。
頬に集中する熱を隠すように、両手を顔の前に持ってくる。それと同時に、千代の荒れた手が頭に乗せられた。
「えれぇなぁ三矢は。えれぇ、えれぇよ」
「……何が偉いの?」
「洗い物はしてくれるし、『いただきます』と『ごちそうさま』は忘れねぇ。さっきもあたしを気にしてくれたんだんべ? 本当にいい子だ。おめぇさんを産んだ母ちゃんは自慢もんだなぁ」
――そんなことない。自慢だなんてそんなこと、言われたことない。
母さんは俺の進路しか考えてないから、放任主義の父さんと喧嘩ばっかりで、俺のことなんて見ちゃいない。俺がどれだけ立派な大学に行くのか、それだけが大事なんだよ。俺が通う学校が、あの人のステータスなんだ。父さんだって、それがわかってるのに面倒くさくて見て見ぬ振り。子どもなんて、所詮はその程度なのだ。
でも、千代が生きていた時代ではそんなこと悩みの種にもならなかっただろう。
彼女の生まれた年を思い出す。
――一九三二年。そこに彼女が生きてきた十四年を足すと、一九四六年。
つまり、千代は終戦から一年後の日本で生きていた人ということだ。まだ戦争の残り火だってあっただろう。生きるか死ぬか、それ以外を考えている暇がないことくらい容易に想像がつく。
もし今の心の内をさらけ出したとして、彼女は静かに聞いた上で三矢が欲しい言葉をくれるだろう。長い付き合いではないが、そういう子だということはわかっている。
だが言葉にすることで、年下の女の子よりも弱い自分がどうやったって見えてしまう。
それは嫌だ。情けない。
痛いくらい唇を噛みしめる。すると、千代の手が三矢の人差し指に触れた。指が一本だけ絡んで、くい、と引かれる。
「ほら、早く行ぐんべぇ。すーぱーが開いてる時間に間に合わなくなっちまうよ」
「……うん」
怒られた後の子どもを彷彿させる小さな返事は、車が通りすぎた音にかき消されてしまった。
日が完全に沈んでしまえば、暑さも少しはやわらいでくる。
夕飯を食べ終えた後はお互いに自由な時間だ。といっても、三矢は夏休みの課題があるためそれをやらなくてはならないのだが。
黙々と課題を進める三矢と、文字で埋まっていく課題を見ている千代。よくもまぁ毎日観察していて飽きないものだ。
「見てても面白くないでしょ?」
「いんや、思ってるより面白れぇで。内容はわからんけど」
そういうものなのだろうか。三矢にはわからない。
「明るいうちは家のことやって、暗くなりゃあ勉強する。いい子だなぁ」
「そうしみじみ言われるほどいい子でもないよ」
「いい子だい。元気に生きてるだけでいい子」
「もうそれ勉強関係ないじゃん」
そう言えば、千代は悪ガキのように潰れた声で笑う。
「なぁ、ほかには?」
「ほかって?」
「三矢は学生さんなんだんべ? 勉強のほかに学校で何してるん?」
身を乗り出し尋ねてくる千代を横目で見て、頭を捻りながらテーブルにシャーペンを置く。
学校という小さな箱に、勉強以外の何かがあっただろうか。そもそも学校とは、勉強をしに行く場所である。それ以外を見つけることの方が難しい。
「あ――」
いや、一つだけあるかもしれない。勉強に比べればまだ幾分かマシなものが。
「部活――とかかなぁ」
「部活?」
あぁ、そうか。たしかにそこからだよな。
「えっと、なんて言えばいいんだろ。何人かの生徒たちが集まってやる団体活動……みたいな感じなのかな。一日の授業が終わった後にやるんだよ」
上手く説明できているとは思えないが、千代は興味深そうに何度もうなずいた。
「なるほどな。三矢はその部活っての何やってるん?」
「俺? 俺は美術部。基本的に毎日絵を描いてるだけ」
「え⁉ 絵ぇ描けるんか⁉」
想像以上の食いつきに思わず面食らってしまう。
「すげぇ! 何か描いてみてくれいな!」
「何かって……お題がないと何も描けないよ」
「それもそっか。んー、じゃああたし! あたしを描いてくれい!」
「えぇ⁉」
急なお願いに瞠目する。まさかそうくるとは思っていなかった。
「写真なんて高価なもんめったに撮れねぇかんな、三矢に描いてもらえりゃ大助かりよ」
「そ、そんなこと言われても……」
「なぁに下手だっていいんよ。三矢が見てるあたしを描いてくれりゃそれでいいだい」
「うっ……」
そこまで言われてしまっては断る自分が悪者のようじゃないか。
数秒悩み、一つ息をつく。次いでテーブルの上に広げていた課題を片づけ、鞄の中からスケッチブックと鉛筆を複数本取り出した。
「描くのは構わないけど、これだけは約束してよ。……下手でも怒らないで」
尻すぼみになっていく三矢を見て、千代は吹き出す。
「言ったんべ? 下手だっていいんよって」
どうやら建前で言っているわけではなさそうだ。であれば、もうどうにでもなれの精神でやるしかない。
「…………」
「…………」
モデルである千代の顔をよく観察する。きれいな額、薄い眉毛、大きめな口、若さの代名詞でもあるハリのある頬。
その特徴を噛み砕いて吸収し、薄くアタリをつけていく。かろうじて顔の部品がわかる程度。その上に影や輪郭を少し濃く描いていく。
「……んふっ」
千代の口から照れくさそうな声が漏れ出る。まさかここまでじっくり観察されるとは思わなかったのだろう。
「なぁ三矢」
「まだ動いちゃ駄目だよ」
「そういうことじゃねぇさ。聞きてぇことがあるだけ」
「なに?」
手は止めずに話の先を促す。
少し斜めを向いている彼女は、目だけで三矢を捉えて口を開いた。
「なんで美術部入ったん?」
一瞬だけ、手が止まる。なんで? なんでだろう?
再度、意思を持ったように手は動き始める。紙の中にいる千代が、少しずつ濃くなっていく。
「なんで、って聞かれると困るけど、まぁ消去法みたいな感じかな。運動は苦手だから論外だし、歌も上手くないから音楽関係もなし。でも絵は昔から嫌いじゃなかったから……」
――あれ、なんで嫌いじゃなかったんだっけ?
ふと、そんなことを考える。数ある部活の中から美術部ならば、と選択した理由。それはなんだったのだろう。
黙り込んでしまった三矢と同じく、千代も真一文字に口を結ぶ。それから、どれだけ沈黙が続いただろうか。完成するまで二人の間に言葉はなかった。
しかし、できあがった絵を千代に渡すと、先ほどまでの静かさが嘘のように彼女は喜んだ。
初めて――絵が描けてよかったと思えた。
「――うん、それじゃ明日のお昼に。うん、うん、ありがと。ゆうくんも気をつけて」
電話を切って息を吐き出す。叔父である祐介からだった。
電話の内容は、片づけの状況と三矢の近況を問うもの。そして、祖母の家に来てからそろそろ一ヶ月が経過するため、明日の昼には迎えに行くというものだった。
「そっか、もう一ヶ月経つんだ」
もれた言葉は容赦なく三矢を刺す。だが、刺された部分からは痛みではなく焦りが生まれた。
祖母の家の片付けという点だけでいったら何も問題はない。昨日時点で全ての部屋の掃除が完了していたのだ。夏休みの課題だって順調に進んでいる。
問題は千代のことだ。
彼女はどうする。警察に相談するか? いや、タイムスリップしてきたなんて馬鹿正直に言ったら頭の心配をされてしまう。彼女には戸籍もないし、高校生の自分じゃ養えるわけもない。一体どうしたらいい。
あてもなくさまよう視線が、壁に掛けられた額縁で止まる。おそらく片づけ忘れていたのだろう。
「……あ、ほかのごみと一緒にまとめないと」
抱えている問題から目を逸らしたくて、今すぐでなくてもいいのに、その額縁へと手を伸ばす。
「あっ――」
しかし指が強張っていたのか、うまく外せずに畳の上へ落としてしまった。中に入っていた写真が足元に散らばる。
……何をしてるんだ俺は。
自分自身に苛立ちを感じながら、祖母の記憶の欠片を拾っていく。色褪せてしまったものばかりで、祖母の顔はよく見えない。
刹那、指の腹に違和感を覚える。写真よりも厚く、ざらざらとした手触りのもの。それが何か、理解するのは早かった。使い慣れたものだったから。
それは、画用紙だった。
描かれていたものは――少女の顔。
きれいな額、薄い眉毛、大きめな口、若さの代名詞でもあるハリのある頬。
見覚えがあった。いいや、描き覚えがあったという方が正しいのかもしれない。
どうしてこれがここにある? 彼女が入れたのか? 様々な考えが頭を巡るが、本当はわかっているのだ。ただ、その真実を信じたくないだけ。
ずいぶんと黄ばんでしまったその紙を、折らないよう丁寧に拾い上げた。
その日の夕食後、明日の昼ごろにはこの家を出ると千代に伝えた。すると、彼女は特段驚いた様子もなく、そっかそっか、と笑うだけだ。
「毎日がんばって掃除したもんなぁ、これでおめぇさんのばあさんも安心できらぁ」
「驚いたり怒ったりしないの?」
「んー、別にそんなことねぇな。それにな、がんばったいい子を褒めはすれ怒るこたぁねぇさ」
えれぇ子だ、と千代の手が頭を撫でる。三矢より一回り小さい、だが、働き者の荒れた手。
彼女の体温が頭皮から伝わり、腹の底で熱が生まれる。
「うわ……どうしよ……」
「どうしたん?」
「……いま、すごく抱きつきたい」
「抱きつきゃいいだい」
「いや、よくはないでしょ。千代ちゃんだって困るじゃんか」
「困らんよ」
「え、」
「困らんし――嫌でもない」
そんなこと言わないでよ。こっちが困るじゃんか。
そう言いたいのに、喉がはりついてしまったように声が出ない。気づけば千代に手を伸ばし、彼女の腹辺りに顔をうずめていた。
肺いっぱいに息を吸い込んで、そのまま飲み込む。
あぁ――この人の子供に生まれたかったなぁ。
彼女といると、ひどく我が儘になってしまう気がする。
欲しかった言葉をくれるから。最後まで話を聞いてくれるから。まっすぐに目を見つめてくれるから。
話さなくていいことまで話したくなるし、昔のことすぎて忘れていたことも思い出してしまう。
三矢の両親は毎日喧嘩ばかりしていた。それはもう、よく離婚しなかったなと驚くくらいに。
どこに行ってもそれは変わらなかった。チェーン店のファミリーレストランでも、遊園地でも、デパートでも。
しかし、両親が唯一喧嘩しなかった場所があった。――美術館だ。
父親が会社の同僚から割引券をもらったと言うので、もったいないから行ってみることになったのだ。
誰も美術になど興味はなかった。絵画も、彫刻も、一体なにが素晴らしいのかわからない。まだろくに字も読めないほど幼い三矢にいたっては、面白くないを通り越して退屈の二文字だった。展示品の説明は漢字だらけでもはや記号だ。周りには品のある老夫婦や、いかにも天才肌っぽい若者くらいしかいなかった。三矢と同年代の子どもなんて一人も見当たらない。
早くここから出たいという考えしかなかった三矢だが、順路の折り返し地点であることに気づいた。
パパとママが、けんかしてない……。
美術館では静かに鑑賞するのがルールである。両親はそれに則って口を噤んでいただけ。よく考えればわかることだ。
しかし、そんなことすら知らない三矢には、まるで革命が起きたような衝撃だった。
美術館にいれば、両親は喧嘩をしない。それがどう転じたのか、美術は喧嘩の抑制剤だと思うようになっていた。
下手くそながらに絵を描き続け、中学で美術部に入部した。絵以外のことも学んだが、一番好きなのはやはり絵だった。高校生になって、一応全ての部活を見学したが、足は美術部へと向かっていた。
どれだけ彼女の腹に顔をうずめていただろう。そのまま中に入ってしまいそうなくらい強く押しつける。
「んふふ」
頭上で空気がもれ出たような笑い声が聞こえる。少しだけ顔を上げると、かさついた親指が三矢の眉毛をなぞった。
「眉毛薄ぃな」
「そう? たしかに濃い方じゃないけど……」
「かわいい」
その一言で、腹の底で生まれた熱が暴れ回る。何度か深呼吸し、どうにか落ち着いた。
「……千代ちゃんはさ、これからどうするの?」
「さぁなぁ、まぁ多分帰んだべぇよ」
まるで他人事のように彼女は言う。
「そんな簡単に帰れるものなの?」
「なんに関しても帰る方が簡単だい。一ヶ月もここにいられた方が奇跡だろうさ」
なら――帰る方が簡単だと言うなら、
「じゃあ、どうしてこんなに長く一緒にいてくれたの?」
眉毛をなぞる手が止まる。次いで、彼女は薄い眉毛を下げて困ったように微笑んだ。
「……かわいそうだったからかねぇ」
それは、血の繋がった家族からどうにかして離れて暮らそうとする浅はかな自分のことだろうか。それとも、この広い家で一人すごした祖母のことだろうか。今の三矢にはわからない。
「千代ちゃん」
「ん?」
あふれるこの感情が――
「好きだよ」
「ん」
――好きという言葉で合っているのかさえ、わからない。
でもこの言葉が、今の感情には一番ふさわしいと思うのだ。
「忘れ物……はないな」
居間や客間、自分が一ヶ月すごした家を隅々まで見て回る。元々物が少なくきれいな家だったが、大きな家具以外を捨てやすくまとめてしまった今では「もぬけの殻」という言葉がよく似合うようになってしまった。
黙々と片づけをする時間はけっこう楽しかったな、と考えていると、正午を知らせるチャイムが鳴る。
約束通り、もうすぐ祐介が迎えに来るだろう。
「千代ちゃん、いる?」
台所を覗き込むと、やはり千代はそこにいた。目をとじてキッチンシンクを撫でている。
「何してるの?」
そう問いながら近づくと、彼女はぱっとこちらを向いた。
「一ヶ月使わせてくれたお礼してたんだい」
「じゃあ俺も」
彼女にならってキッチンシンクに手を置く。ひんやりとした無機物特有の温度を感じた。
同じ行動をし始めた三矢を見て千代が口を開く。
「なぁ、この家に住んでた人はどんな人だったん?」
「……ごめん。教えてあげたいのは山々なんだけど、会ったことないし、顔も見たことないんだ」
隠すことでもないので、そう素直に伝える。
「でもきっと――訛りがすごくて、他人をよく褒めて、こんな俺をかわいいって言ってくれるような人だったんだと思うよ」
「三矢はその人のこと好きけぇ?」
「うん、大好きになった」
千代は満足そうにうなずく。
「帰り方はわかってんな?」
「『ただいま』ってちゃんと言うよ」
「それが言えりゃ十分だ。道中気ぃつけてな」
「千代ちゃんこそ。俺より遠い道のりでしょ」
沈黙。でも、どこか心地いい。
「ねぇ、千代ちゃん」
返事はない。
「会いに行くからさ、楽しみにしててよ」
その言葉は、誰もいない家によく響いた。
車の音がする。
きっと祐介が到着したのだろう。待たせるわけにはいかない。荷物を持ってすぐに出なければ。
あぁでも――こんなぐしゃぐしゃな顔で向かったら、驚かせてしまうだろうか。
寄りたい場所があるのだとお願いすると、祐介は一瞬面食らった顔をする。しかし、すぐにうなずいてくれた。
車で一時間ほど走って訪れたのは病院だ。ろくに風邪すらひかない三矢には慣れない場所である。
受付の女性に見舞いである旨と自分の身分を明かせば、笑顔で目当ての病室を教えてもらえた。
病院独特の匂いに包まれながら歩を進める。緊張しているようで、歩いて身体が揺れるたびに関節が硬くなっていることがわかった。それでも前に進んで、探している名前が書かれたネームプレートを見つける。
――関根千代
口の中でその名を呟く。もう呼び慣れたものだ。
中に入ると、一定の間隔で置かれたベッドが四つ見える。だが、そのうちの一つしか埋まっていない。実質一人部屋というわけだ。
唯一埋まっている奥のベッドに向かう。
そこには、髪が真っ白で、しわくちゃな顔の――眉毛の薄い女性がいた。
八十代前半に見えるその女性は、まるで来ることがわかっていたかのようにまっすぐ三矢を見つめている。
「――ばあちゃん、初めまして。告白の返事を、聞かせてくれますか?」
そう尋ねれば、彼女は吹き出すように笑った。そして、
「ええ、あたしも――好きでしたよ」
しわがれた、でも少女の時の面影が残る声で、そう言ったのだった。
――この恋、きれいに破れたり。
失恋したはずなのに、三矢は嬉しそうに破顔した。
次は見舞いの品を持って訪ねることを祖母に伝え、駐車場で待ってくれている祐介の元に戻る。
「待たせてごめん」
「そんなに待ってないよ。あとはい、これ」
彼はそう言って、炭酸水のペットボトルを手渡してきた。
「好きだったよね?」
「うん、好きだよ、ありがと。……まぁこれからは失恋の味になりそうだけど」
祐介がぎょっとした顔で瞠目する。
「え、ちょ、は⁉ 失恋の味ってなに⁉ どういうこと⁉」
「ひみつ」
自分の好きな飲み物を覚えてくれていた叔父に悪戯っ子のような笑みを向けて、三矢はポケットの中にある黄ばんだ画用紙をぐしゃりと握りしめる。
今の彼女には、もういらない物だ。
こんな絵よりも、もっときれいになっていたのだから。
「ねぇゆうくん。俺、やっぱり部活続けてみようと思ったんだよね」
「え? お、おぉ、いいと思うよ。でも急だね。前は辞めるって言ってたけど……なんか心境の変化でもあったの?」
「ん? そうだなぁ」
ペットボトルの蓋を開けると、ぷしゅっ、という聞き慣れた軽い音が鼓膜を揺らす。
「『元気に生きてるだけでいい子』って言われたから――かな」