第8話 失楽
痛む身体を抱えながらなんとか帰宅する。
何も変わらないでいてくれと、シンが言ったことは嘘であってくれと願いながら、扉を開け家に入る。
居間へ向かうと、そこにはいつもと変わらず彼女が座っていた。
しかし、いつものように夕食の準備はない。
「アイ」
声をかけるも返事はなく、彼女の光を灯さない瞳は一点から動くことはない。
近づくと、彼女から鼻を突くヤクの匂い、甘ったるい匂い、獣臭さが入り混じった酷い臭いが漂い、シンが言ったことは嘘ではないという事実を俺に突き付けた。
これが、この世界だ。
最初から分かっていたことじゃないか。
「お前は変わりたいと、この状況から抜け出したいと、思わないのか」
血の味で満たされた口で自分自身へ問うべきものを彼女に投げかける。
情けない、今、これに答えが返ってきたとして何になるんだ。
──ああ、そうか。
彼女が言っていた、話したい、言葉を交わしたいとは、こういうことだったんだ。
何もかもが、遅すぎたんだ。
いや、このままじっとしていて何になる。
まずは、アイを風呂場へと連れていこう。
そう思い立ち彼女の腕を持ち上げるも全く身動きすら取らないため、仕方なく横抱きして持ち上げる。
中身がないと錯覚するほど軽い体重、だが、腕に感じる微かな体温が、これは人間だと証明している。
そのまま、風呂場の脱衣所で彼女の服を脱がせると、白く貧相な細い身体が露になる。
曲がりなりにもここにいるのは一組の男と女、淫靡な空気が訪れてもおかしくはないが、その兆候は全くない。
原因は裸になった彼女の身体にある。
古い傷から新しい傷、火傷のような跡まで、数えればキリがないほどの痛みがそこには刻まれていた。
この状態でも人は生きていけるのかと感心するほどだ。
彼女は性的なものだけでなく拷問に近い暴力も受けてきたのだろう。
なるべく、それらの傷を直視しないように彼女を浴室に座らせ、シャワーを出しゆっくりとその身体を流していく。
そして、ボサボサで汚れた髪を洗うため、十分に濡らした頭へ大量の洗髪剤を使っていく。
とにかく手を動かしながら俺は物思いに耽る。
そうだ、これが人間の本質だ。
理性というタガが外れた人間は、すぐに動物的な欲求を顕わにし底の見えない腹を満たすために他者を餌として貪りつくす。
弱者に甘く思考力を奪い依存性がある平和という食料を与えブクブクと太らせ強者はそれを喰らうのだ。
気づくのが遅すぎた。
いや、見ないふりをしていただけだったのかもしれない。
弱者の性欲とエゴによって産み落とされた時点で、その事実に向き合うべきだったのだ。
平和を捨て戦う道を選べなかった人間の結末が、これだ。
だが、俺たちは生まれながらにして牙を抜かれていた。
どうすればよかったんだ?
命を懸けて無謀な戦いを挑み何も変わらずともやりきったと自己満足の中で死んでいけばよかったのか?
世の中が悪いと他者のせいにして酒をあおり目を逸らしながら一生を終えればよかったのか?
頭に後悔をこびりつけたまま彼女の身体を割れ物のように扱いながら洗い続け、時折触れる肉の柔らかさと浮き上がった骨の固さ、体温と脈を感じ取る度に後悔を塗り重ねていく。
そして、身体を洗い終えた俺は再び彼女を抱え上げ寝室へと向かう。
踏ん切りがつかない、それでも、俺が何とかしなければ彼女は獣どもに身体を貪られ続ける。
力があれば、ここから逃げ出す力があればよかったのに。
無力な俺は彼女を布団に横たえ、撮影用の端末を傍に設置する。
そして、覆いかぶさるように彼女の上に四つん這いになった。
彼女の瞳は俺を見ているようで何も映してはいない。
俺は、今からこの娘を犯す。
「嫌だったら、言ってくれ」
彼女を救うために彼女を犯す。
それは、俺自身の偽善を満たす行為に過ぎない。
今までいいように男に弄ばれ、ここまで傷ついた彼女に、さらに苦痛を与えるのだ。
「頼む、何か、言ってくれ。否定でもいい、俺が、こんな」
その行為を前にして回らなくなった頭を、誰かに思い切り殴ってほしかった。
叱ってほしかった。
それでも、彼女は虚空を見つめたまま全く反応を示さない。
どうしていいかわからない。
それでも時間は進んでいく。
ようやく俺は意思を固め、せめてこれを獣らしさで終わらせないために口づけをかわそうとする。
そうして、顔を少しずつ近づけたところで。
「ごめん、ごめん」
俺は、嗚咽を上げながら涙を流していた
俺に力があれば、こんなことにはならなかったのに。
いいように流され大人になっても空っぽの人間、それが俺だ。
情けない、情けない。
そして、この期に及んでもまだ、俺は誰かに赦しを求めている。
「なあ、他人は自分の欲望を満たすものじゃないって考えは間違っているのか?自分のために誰かを犠牲にするのは間違っているんじゃないのか?こんな世界に生まれて、せめて楽になろうと何も考えずに感情任せに生きることが、賢い生き方なのか?教えてくれよ。俺は、お前に苦痛を重ねたくないんだ。お前が、一言否定してくれるのなら、俺は」
――俺は何を言おうとした?
彼女が否定して俺が何もしなければ、より一層の痛みを味わうのは彼女自身だ。
結局は自分が汚れたくないだけの綺麗ごとを並べているだけじゃないか。
「違う、違うんだ。俺は、お前に苦痛を与えたくないし、犯したくもないんだ。俺は、俺は、どうしたらいい」
声を震わせたまま子供のように泣きじゃくる。
こうなる前にもっと言葉を交わせばよかったのに、自分でない誰かが壊れることがこんなにもつらいと教えてくれたら、こんな思いをすることはなかったのに。
数えきれないもしもを並べ、後悔はとどまることなく溢れてくる。
そんな俺を表情を変えぬまま黒い瞳でこちらの姿を映す彼女。
その視線に耐えきれずに目を閉ざすと温いものが顔に触れる。
目を開けると、そっと白く穢れた両手が俺の頬を包んでいた。
そして、それは頬を撫でるようにして首の後ろへと移動し、俺を彼女の身体へと、ゆっくりと引き寄せる。
彼女の表情は未だに読めず、これが無意識に刻まれた彼女の生きる術なのか俺への慰めなのかは知る由もなかった。
ただ、沈んでいく。
泥濘のように温く心地のいいその柔らかさに、もはや抗う力など残っていなかった。
ついに、俺は、あの忌々しい人間たちと同じものに成り下がった。