第6話 変容
アイが家に来てから数日の時が流れた。
彼女は相変わらず、媚びるように家事を行い続けた。
そのまま何も変わらない生活が続くと思いきや、俺は意地でも食事を毎食用意する彼女の姿勢に少しだけ胸を打たれていたのかもしれず、遂に、俺は彼女が用意した料理に手を付けるようになっていた。
いつまでも食糧を無駄にするわけにはいかないと、クソみたいな生き物の自分にとってはちょうどいいものだと、娼婦が作ったみすぼらしい食事なんてまさにお似合いじゃないかと、何かと理由をつけながら自分を説得するように、食べ始めたのだ。
いや、ただ空腹に耐えられなくなったというだけだが、ひねくれた俺には素直にそれを受け入れることができなかったのだ。
そして、不覚にも他人の手間がかかった料理を美味いとすら感じていた。
そして、今日も俺が卓につき夕食をとり始めると、彼女も対面に座り何か言いたげにこちらを見つめている。
会話をしたいのだろうが、これ以上慣れ合うことはしたくはなかった。
ただの家事をする便利な人間だと思わなければ、彼女を受け入れてしまいそうで怖かった。
急いで食事を胃に流し込み、ふぅと一息つくと目の前のアイと目が合う。
彼女は確かに、俺を見て微笑んだ。
慌てた俺は急いで立ち上がり、そのまま寝室に向かい軋む体を横たえる。
一時して、向こうから水が流れる音が聞こえ始める。
使い終わった食器を洗っている音。
その音で、この家にいるのは俺だけじゃないという事実がストンと胸に落ちる。
そして、それを聞いていると自然と瞼は蕩け、意識は深い闇の中へ。
──衣擦れの音。
まどろみの中、背中に薄く柔らかい肉と骨の感触、体温。
細い腕が俺の身体をまさぐり始める。
「お前も、所詮はあいつらと一緒か」
ほとんど無意識の状態でそう告げると腕の動きが止まる。
彼女はきっと、確かなものが欲しいのだろう。
だが、今の俺には一線を越える勇気がない。
だから俺は、寝惚けているんだと自分に言い訳をしながら、彼女に与えられる唯一のものを与える。
「いつも、ありがとう。感謝している」
そう呟くと、少しの沈黙の後に彼女は努めて抑えたような泣き声を上げ始めた。
そして俺は、自身の身体に触れている彼女の手をそっと握ったまま、眠りについた。
*
「は?休業?」
いつものように職場に訪れると、入り口は封鎖され、そこには従業員らの人だかりができていた。
背伸びをして先を確認すると入り口のガラス戸に張り紙がしてあり、そこには休業と記されている。
何かしらの大きな問題がない限り、仕事が休みになることなど滅多にない。
皆のどよめきの中、唐突に怒声が響く。
「おい、お前ら、何をしている!今日の仕事は無しだ。さっさと帰れ!」
そこに現れたのは、数人のスーツ姿の男らだった。
この辺りでそのような格好をしているのは幇会の連中で間違いなく、どうやらこれも誰かのいたずらという訳ではなさそうだ。
しかし。
その言葉を真に受けて素直に帰宅してもいいのか?
奴らは俺たちの忠誠心でも推し量っているんじゃないのか?
周りの奴らも俺と同じように右往左往している。
「はぁ。お前らが心配しているようなことは一つもない。ここでウロチョロされる方が迷惑だ!」
男らが不安げな従業員を次々と押し退け、ここから去るように促す。
ここまで来たら疑いようもない。
どうやら、休業というのは本当らしい。
腑抜けた俺はそのまま踵を返しトボトボと帰路につく。
珍しいこともあるものだ。
*
家に着き何も考えずに玄関の扉を開けると、部屋からガシャンという大きな音が響く。
どうやら、左手の台所で皿洗いをしてアイが驚いたようだ。
「俺だよ」
その言葉で落ち着きを取り戻す彼女。
しかし、俺がなぜ帰ってきたのかを不思議に思っているようだ。
「仕事が急に休みになっただけだ。そう気にするな」
そう伝えるも、安堵するどころか後ろめたいことをした子供のように、目を泳がせながら後ろ手に立ち尽くす彼女。
「どうした?」
「か、勝手なことをして、ご、ごめんなさい」
「は?」
唐突な謝罪に俺は目を丸くしてしまう。
「なぜ謝る」
「あなたは、私のことが、嫌いだから。私は、汚いから」
そこで、今になって気づく。
それは、俺が彼女に投げかけた言葉だ。
そのせいで彼女はいつまでも申し訳なさそうにし自責の念を抱え、俺の目に触れないところで家事をしていたのだ。
だから、彼女は今、謝罪しているのだ。
何気なく言った俺の嫌味を、俺の中では既に消え去った言葉を、馬鹿正直に受け止めていた彼女。
今更、何を言えばいい。
いや、簡単なことだ。
「汚くなんか、ない」
産まれて初めて、不格好な裸の言葉を投げかける。
馴れ合うつもりはない。
それでも、悲嘆を抱えて生きる存在が怯えながら近くで過ごしている事実に耐えられそうになかった。
ましてや、その原因が自分とあらば尚更。
どもり拙い俺の言葉を受け止めた彼女は理解できないという顔をしたのち。
涙を流し始めた。
「なぜ、泣くんだ」
「う、嬉しいの」
くそ。
こんなもの、今までの人生には無かった。
こんな残酷な世界に、あるべきではない感情だ。
打ち砕かれるか奪われ踏みにじられる喜びや期待など、持つべきではない。
それでも、せめて、この閉じた狭い家の中だけでも。
「ごめん、俺があの時言ったことは気にしなくていい。もう、何かを隠れてしようとしなくてもいい。好きに生きていいんだ」
その言葉でついに座り込み泣きじゃくるアイ。
ここで彼女を抱きしめでもすれば格好がつくのだが、今の俺にはできそうにない。
だから、ただ、俺は彼女の前に座り様子を見守る。
そして、彼女はひとしきり涙を流し切った後。
「あ、ありがとう」
「そんなことで、礼を言うな」
胸が痛い。
彼女には少しの自由すらも許されていなかったのだろう。
そんな彼女に、俺はさらに痛みを重ねようとしていたのだ。
だから、せめてもの報いに、何かを言いたげにこちらを見つめるアイへ。
「これからは、言いたいことがあるなら遠慮せずに言えばいい。これからやりたいことだって、言っていいんだ」
言葉の意味を処理できないのか、溢れる感情を受け止めきれないのか、おかしな顔になってしまうアイ。
そして、一時の沈黙が訪れた後、再び彼女は口を開く。
「あ、あの、一つだけ」
「なんだ?」
「あなたと、で、出かけたい。い、一緒に、歩いて、買い物もして、そんな、生活を」
そこまで言いかけて、出過ぎた真似をしたかのように押し黙るアイ。
改まって言うようなことでも、申し訳なく思う必要もないこと。
丁度仕事も休みになり、今すぐにでも叶えられる簡単な願い。
たったそれだけで彼女の願いが叶うのなら、そうしてやればいい。
しかし、今の俺には勇気がなかった。
汚らしい二人の奴隷が街に繰り出すなど、好奇の的になるに違いない。
「だ、大丈夫です。ごめんなさい」
少しだけ。
「いや、少しだけ、待ってくれ。いつか必ず、そうするから」
再び仕事が休みになるかも怪しい状況で俺は卑怯な言葉を吐く。
それでも、たったそれだけで、反論もせず彼女は今までにない笑顔を見せた。
その後、俺たちは部屋の中で何気ない時間を過ごした。
得体の知れない生まれたての感情を抱えながら。