第5話 黒の切符
昨日の夜の出来事が何もなかったかのように用意された朝食。
それに手を付けずに家を飛び出し、今日も今日とて晴れ渡る憎たらしい空の下、職場へと向かう。
そろそろ体力も限界でふらつきながら歩き、虚ろな目で周りの喧騒と奴隷の列を眺める。
なぜ俺は、あいつらみたいに成れない。
なぜ、あいつらのように成りたくない。
そう、思索に耽っていると、カツンと金属がコンクリートを叩くような音が響く。
顔を上げると少し離れた場所に、川面から顔を出す岩のように人の群れを分け立つ、目を見張るほど頓狂な格好をした人間がいた。
突然のこと、日常を非日常へと変えるような、そんな人物が。
赤い鎧を身に纏い、三メートルはあろうかという旗を掲げている女性。
異国人が当たり前に存在するこの国でも珍しい金色の長髪に青緑色の瞳。
いつもは項垂れ地面を見つめて歩く民衆も、この時ばかりはその女に視線を向けている。
驚きも束の間、ああいう手合いには関わらない方がいいと他の者らに紛れ素通りしようとすると、彼女はあろうことか俺の前に立ちはだかった。
そして、彼女は何も言わずに俺に何かを差し出す。
「……なんだ、これは」
「希望号のことは知っているでしょう。あなたは、選ばれたのです」
「希望号?」
「白の列車、と言えばわかりますか?」
白の列車、それに乗車し終着点へと辿り着けば望みが叶うという、あの噂のことか。
「馬鹿馬鹿しい。宗教の勧誘なら他をあたってくれ」
「望む望まぬにかかわらず、あなたは必ず白の列車に乗ることになる。これは、運命です。さあ、受け取りなさい」
こちらの話に耳を傾けようともせず、黒に金色の装飾が施された掌ほどの、おそらく黒の切符と呼ばれているものであろうそれを強引にこちらの懐に差し出される。
素直に受け取らなければテコでも動きそうにないその強い意志を向けられ、俺は切符を手に取った。
そう、受け取った後、捨てればいいだけの話だ。
「これで、俺の願いは何でも叶うってわけだ。はは、馬鹿みたいな話だ」
「そうです。きっと、あなたは幸せになれる」
さっさと去ればいいのに、俺は今までに溜まった鬱憤を晴らすように彼女の妄言に応えてしまう。
「俺は、幸せって言葉が大嫌いなんだ。幸せでない奴は不幸せになる。幸せがあるから不幸が存在するんだ。そんなものを有り難がっている奴らの気が知れないね」
「よくわかりません。それが、幸せを追い求めない理由になるのですか?」
切り上げようと理性は告げるが、俺は余計な口をついてしまう。
「なるほど、いいビジネスだな。そんな曖昧で形のないものを掲げれば、奴隷は永遠にお前たちの駒になってくれるわけだ」
「あなたは何か勘違いをしているようですね。私はただ、神の名の下に人々へ希望を与えているのです。幸福の形は千差万別ですが、それは人類共通の希望でもある。希望がなければ、この世界で生きていけないでしょう?」
「希望がないと生きていけない?俺らを見ても、そんなことが言えるのか?」
「はい。あなたたちは、生きていませんから」
馬鹿馬鹿しい。
こんなもの、意味のない言葉遊びだ。
「他をあたってくれ。金を払ってでもこれを欲しがる馬鹿なんていくらでもいるだろう」
「お金なんて求めていません。平々凡々、いえ、この現状に不満を抱えながら周りの人間を見下しペシミストを気取っているくせに、その実、奴隷としてただ働く人間よりも生産性が低く価値の無い救いようのないクズ。そんな最底辺の人間が試練を乗り越える意義は、生まれついての英雄が世界を救うより価値があり、私たちはそれを求める。あなたは、然るべくして選ばれたのです」
訳がわからない。
何を言っている、初対面の俺に対して、何故そんなことが言える。
日ノ国人は皆そうだと決めつけ見下しているのか。
理解が追いつかない。
こいつは、イかれている。
「皆、今を懸命に生きているというのに、目の前の悲嘆に暮れるだけなんて空虚な生き方に何の意味がありますか。あなたも今の現状に不満を抱いているはず、これはまたとないチャンスなのです」
違う。
彼女と俺は、根っこの部分から違う生き物だ。
理性と冷めきった感情が一致した俺は切符をズボンのポケットにしまい、そそくさと退散する。
「白の列車の到着駅と時刻は切符に記載してあります。それまでに準備は済ませておいてください。もう一度言います、あなたは必ず白の列車に乗ることになる、これは運命なのです」
*
仕事終わり。
アイツがいる家に帰りたくない俺は、なけなしの金を持ってネオン街の適当な居酒屋へ入店する。
赤を基調とした店内は油と強い八角の匂いで満たされている。
空いた席に座ると油ぎった燐国の男が嫌そうな顔をしながら注文を取りに来る。
金が無い日本人に来店して欲しくないのだろう、無言で早く選べとこちらに圧をかけてくる。
俺は適当にメニュー表を指差すと、不機嫌なまま厨房へ去っていく男。
まともな食事が届くかわからないが、それまで店内を無心で眺める。
客は燐国人ばかりで、誰も彼も上気な笑顔で飲み食いしている。
普通なら日ノ国人として怒りを覚える場面だが、そんな気力さえも削がれてしまっている。
冴えない頭で考えを巡らせていると、店員が俺の目の前に乱暴に注文の品を並べていく。
その早く喰って帰れと言わんばかりの視線に促され、目の前の料理に手をつける。
油ギトギトの葉野菜の炒め物を酒で流し込むと、空きっ腹に油と塩気、酒が入り一気に酔いが回る。
とにかく酔えればそれでいいと箸と酒をすすめるも、今朝の黒の切符の件が頭によぎり、口から出掛かった、これでいいのか、という言葉に必死に抗う。
「おい、兄ちゃん、そんな辛気臭そうな顔をしてどうした。ああ、どうせ一人ならジジイの話にでも付き合ってくれや」
唐突にヘラヘラとした顔で白髪と白髭で痩せた見窄らしいジジイに話しかけられたと思えば、彼は有無を言わさず俺の対面に座った。
顔を赤くし酒の匂いを漂わせ、既に出来上がっている状態だ。
「若いのに、つまんねぇ顔をしてるな。ほら、あいつらみたいに女でも侍らせて楽しめばいいじゃねぇか。日ノ国人と言えど、そこらへんの娼婦なら買えるだろ?」
顎で示された方を見やると燐国の若い男が娼婦を数人侍らせ、人目も憚らずに卑猥な行為を繰り広げている。
「ふざけるな、あんな人間と一緒にするな。あと、さっさと俺の眼の前から消えてくれ」
「兄ちゃん、そんな干からびた矜持を齧ってどうするんだい。日ノ国は負けた。だったら、その中で幸せを見つけるべきじゃないのか」
ジジイの戯言を無視して酒をあおるも、彼の歪んだ口が止まることはない。
「なぁ周りを見てみろよ、欲に身を任せ感情を元に動く奴らを。頭の中は金と性欲と見栄で一杯、それでも幸せそうだろう。絶対的な善悪の判断基準は失われ、その人間にとって都合がいいか悪いかだけが基準となった時代だ、兄ちゃん、幸せになりたいのならな、馬鹿にならなきゃならねぇ」
痺れを切らした俺はつい口を開いてしまう。
「黙ってくれ。俺はお前らみたいな生き物とは違う」
「一皮剥げば皆、ああさ。人間だ、それが人間なんだ。兄ちゃん、あんたは誰のためにそんな良い子でいるんだ?ずっとそのままならな、時間と他者が、あんたの周りのもの全てを奪っていくんだぜ」
そんなことはわかっている。
何も考えずに生きていければ楽になれると。
それでも、俺はまだ信じてる。
例えこの先何もなくても、からからのジジイになっても、こうして生きればきっと、人間にならずに済むと。
「おいおい、こんな世界で兄ちゃんは何を守って生きているんだい?自分か?それとも、神の教えでも抱えているのか?何も考えず欲望を解放すれば、楽になれるぜ」
そう言いながらジジイはグラスをこちらへ向けて掲げる。
「乾杯だ。もしも兄ちゃんがその気なら、俺がこの世の生き方ってやつを教えてやるよ」
俺は、手元の酒を一気に飲み干し空のグラスを勢いよく机に叩きつけ立ち上がり、ジジイを見据える。
「醜い世界から抜け出せなかった奴が、偉そうに講釈を垂れるな。あんたは自分が生きてきた世界が正しいと思わなければ耐えられないんだろ?人の数だけ人生があって、それが自分より高尚なものだと嫉妬で頭が狂いそうになってんだ。他者を巻き込んで自分の思い込みを真実だと信じたいんだろうが、俺はそんな情けない話に付き合うつもりはない」
そうまくしたてると、ジジイの顔が見る見るうちに真っ赤になる。
「なんだと?お前だって俺と同じ穴の狢だろうが!お前もそのまま年を取り俺みたいな汚いジジイになるんだ!このバカが、おい、待ちやがれ!」
本性を現した喚くジジイを放って机に金を置き店を後にする。
何も気にすることはない。
誰だって、自分に都合のいいことだけが真実なのだから。
俺だって、そうなんだ。
予想外の出来事に酔っぱらうことすらできなかった俺は気持ち悪さだけを抱え薄暗くなった街中を歩く。
夜も深まり、より一層煌びやかになった街の中、店々の前には何人もの娼婦が溢れ、甘く生理的嫌悪を催す臭いが漂い始める。
「ねぇ、ちょっと待ってよ」
すぐそばで誰かの声が聞こえたかと思えば、何かに左腕を掴まれる。
振り向くと、そこには娼婦がいた。
痩せ細り目は落ち窪み、歯は殆ど抜け落ち、汚らわしい見た目をしているが嫌に瞳だけがギラギラしている。
「あなた、日ノ国人でしょ。ねぇ、寄っていかない?同じ生まれなんだし、サービスしてあげるから」
この貧しい街で娼婦をしているのは殆どが日ノ国人だ。
いや、ここだけでなくこの国全体での話か。
男は死ぬまで働き女は体を売る、年老いて使い物にならなくなればそのまま野垂れ死ぬ、今更何かを言うこともない。
俺は掴まれた腕を振り払い、素早く立ち去る。
そのまま、誰もが自らを正当化する言葉を吐く雑音に満ちた路地から逃げるように、ポケットに手を入れてふらふらと歩いていく。
俺は、ただ人間が嫌いだった。
何処の生まれかなんて関係なく、勝者か敗者も関係なく、ただ人間というものに嫌悪感を抱き、ああなりたくはないといつまでも意地を張っていた。
それでも、そこから逃げる方法なんてどこにもなかった。
さっきのジジイには偉そうなことを言っていたが、結局、俺は何物にもなりきれない半端者だ。