第4話 戸惑い
朝、目が覚める。
昨日の出来事のためか、いつもより重い頭を抱え布団から抜け、もう片方の布団に使用された形跡がないことに気づきながらも居間に向かうと、そこにはいつもと違う光景が広がっていた。
先に目を覚ましただけか、昨日と同じ姿勢のままそこにいたのか、アイは変わらぬ様子で座っている。
いや、それよりも驚きなのは、ちゃぶ台の上に久しく見ていないまともな食事、おにぎりと味噌汁が用意されていることだ。
「これは、お前が作ったのか」
それを見た瞬間、彼女を責め立てるような言葉が不意に口から飛び出す。
彼女以外これを作るものなどいないが、どうにも信じられない。
こいつは、何を考えている?
「質問に答えろ」
そう詰め寄ると、彼女は微かに頷いた。
「これは、なんのつもりだ」
話せないことはないだろうに彼女から返事はない。
それがさらに俺の苛立ちを募らせ、頭の表面上に浮かんだ想いをぶちまける。
「お前の汚れた手で作られたものなんか食えるか。くそ、食糧を無駄にしやがって」
汚れているのは俺も同じだというのに、このままでは悪態しかつけなさそうだ。
二の句を告げてしまう前に用意された朝食を食べることなく仕事の準備を始め、そのまま家を飛び出す。
その時俺は同時に恐怖を感じていた。
シンが彼女にそう命令したのか、それとも彼女自身の意思なのか。
前者ならまだいい。
そうでなければ、人形ではない、人間がすぐ傍にいる状態で生活していかなければならない。
今すぐ全てを放り出して逃げたくなるが、奴隷としての生き方が染みついたこの体は迷いなく職場へと向かい進み続ける。
この身体に染みついた奴隷根性がこれほど憎いことはない。
*
仕事も終わり普段より重い足取りで帰宅すると、やはり彼女はここにいた。
夢のように綺麗さっぱりいなくなっていればよかったのに、そう思いながらちゃぶ台の上に注目する。
そこには今朝と同じようにおにぎりと味噌汁が用意されていた。
朝から放置していたのかと勘繰ったが、微かに湯気が上がっているため再び用意されているのは間違いなかった。
また、部屋の様子に違和感を覚え見回すと溜まっていた洗濯物もなく室内の掃除もしてあるようだ。
こんなものを見せられては、声に出さずにはいられない。
「お前は、何がしたいんだ。媚びているのか?あいつらに、そうするように命令でもされたのか?それとも、なんだ、未だにおとぎ話のような生活を夢見ているのか?」
「あなたは、他の人とは違う」
ようやく口を開く彼女。
昨日、手を差し出された時のようにこちらの目を見つめ、途切れ途切れながら懸命に話し出す。
しかし、俺はその言葉の意味を理解できない。
「は?」
「あなたは、生きている。他の人とは違う、何も考えず、環境に従い、楽になろうと、していない。苦しんでいる。だから、わたしは、あなたと、言葉を、交わしたい」
舌足らずで話し慣れていないように言葉を綴る彼女。
それをいくら噛み砕いても理解が出来ない。
彼女に手を出していないから、管理者にあらがう姿勢を見せたから、他の人間とは違うとでも言いたいのか。
だから、勝手に理想を押し付けて希望でも見出しているのか。
「馬鹿馬鹿しい。他の人間と違うのなら、既にこんな場所からおさらばしてるさ。勝手な理想を押し付けるな」
沈黙が訪れ彼女にも諦めがついたかと思えば、今度は卓上の食事をこちらへ差し出した。
「あ、あの、食べて、ください」
「今朝も言っただろ、お前が作ったものなんか食えるかって」
そうだ、俺は何を勘違いしていたんだ。
彼女に救われた、結局はそれも彼女自身が理想を求めるエゴに過ぎず、俺はそれにあてがわれただけだ。
それなら、むしろ気が楽だ。
「娼婦の手で作った食い物なんて、考えただけでも吐き気がする。なぁ、今まで何人の薄汚い男を相手にしてきたんだ?そんな身体で恥ずかしげもなくよくもまぁ、こんなことができたもんだ」
今までとは違い、明らかに悲痛な表情をする彼女の腕をわざとらしく掴みあげる。
その薄明りに照らされた白い手を見て、俺はたじろいだ。
乾燥しひび割れ、いくつもの赤い筋が通ったその手はとても若女の手とは思えない。
この軽々しい行為がすぐに後悔に変わるほど、痛々しい様子だった。
「ごめんなさい、汚れが、落ちないの」
その姿に俺はさらに苛立ちを覚え、後悔を上書きするように不機嫌さを隠そうともせず強く言葉を放つ。
「同情でもしてほしいのか?辛い思いをした私が、それでも頑張って家事をして飯を作ったって、慰めが欲しいんだろ?ああ、苦しんだもの同士、傷のなめ合いでもしたいんだろうさ」
「ち、ちがう、ただ、あなたと、話したいだけ」
「話だと?今更そんなものが何になる!」
「あ、あなたは、他の人と、違うから」
「わかったような口をきくな。それなら、なぜ俺はこんな所にいる?なぜここで他の人間と同じように濁っている!わかるか、お前に都合のいい現実なんて、ここにありはしないんだ!」
そのまま、目の前の震える女に怒声を浴びせる。
「勝手な理想を押し付けて、お前は現実から逃げ出したいんだろう?だったら、死ねば楽になれるだろ。それなのになぜ、お前はさっさと首を吊らない?ゴミどもの○○○を咥えてでも生き永らえようとする理由はなんだ!」
「う、ううぅ」
遂に、苦しそうに胸を抑え泣きだす彼女。
「くそっ!!」
どうしてこいつは涙を流している。
壊れた人形が相手なら、何も考えずに済んだのに。
俺はそのまますすり泣く彼女を放置したまま、寝室の布団に横になる。
そのまま、寝室の外の泣き声を聞きながら、いつまでも眠れぬ夜を過ごした。