第3話 名前
長屋へ到着し自室の扉の前で一度だけ頭を巡らせ、後ろからついてきた娼婦を家の中に招待する。
家具は必要最低限のものしかなく日当たりも悪く、見栄を張れるものは何一つとない部屋へ。
こんな薄汚い場所に招き入れてもいいのか、いや、相手は日ノ国人の娼婦、これよりもさらに劣悪な環境で過ごしていてもおかしくはない。
どちらにしろ、気を使うような相手でもないだろう。
立ち尽くす彼女へ、こちらから話しかける。
「とりあえず、中に入って適当に寛いでくれ」
どうやら俺の言うことを聞くようで、彼女は鈍い動きで玄関に面した和室のちゃぶ台前に控えめに座った。
俺はそれを横目に確認し右手の洗面台へ向かい、顔を歪め呻きを漏らしながら爪が剥げた指を水で洗いタオルでふき取る。
俺の頭の中は今、ぐちゃぐちゃになっていた。
いとも簡単に折られた意地、自分の弱さ、初めて向けられた憐れみ。
それらが混ざり合い、自分の本当の感情が見えなくなっている。
俺はこれからの彼女との生活に希望を抱いているのか、絶望を背負っているのか。
頭の整理も終わらぬまま、簡易的な処置が済んだところで洗面台を離れ彼女の対面に座る。
何を話すか、どう切り出すか、そもそも、会話の必要性はあるのだろうか。
二人の間に沈黙は流れ、天井から吊り下がる電灯のジリジリとした音だけが響いている。
このまま、ただ同じ空間にいるだけの時間に耐えられるだろうか。
別に、これから絵に描いたような幸福が待ち受けているとは思っていないが、それでも、会話ぐらいはすべきか。
そう思いついた俺は不意に口を開く。
「お前、名前はあるか?」
日ノ国人に質問する内容としては意味をなさないもの。
それでも、話の切り出し方なんてわからない俺は不躾にそう告げた。
当然返事はなく、彼女は死んだように身動き一つせず、どこか一点を見つめ、ようやく口を開いたかと思えば一言。
「あり、ません」
かろうじて聞き取れる声帯が潰れたような掠れた声で答える彼女。
しかし、結婚した日ノ国人らが名前をつけあい家庭内でのみ、そう呼び合うのはよく耳にする話だ。
いや、何を考えているんだ。
一時の痛みと恐怖から逃れ呑気にしている場合じゃないだろう。
今までの俺なら、この状況に苛立ちを感じているはずだ。
「それじゃあ、俺が名前を与えてやる」
助けてもらった恩があるというのに、このままぬるま湯に浸かったような関係になっていはいけないと、つい、あいつと同じ方法で嫌がらせをしようとする。
彼女に対する罪を覚えてしまえば、俺自身もそう簡単に好意的な感情を抱いたりしないだろう。
「お前の名前はアイだ。愛情の愛、それが今からお前の名前だ」
少しだけ、彼女の表情が変わったような変わっていないような。
まともな神経をしていれば、こんな名前を与えられたところで怒りを覚えるだけだろう。
いっそ、ここから出て行ってくれるのなら、それでいい。
シンに咎められたとしても、今度こそ殺されてこの世からおさらばできるだろう。
自ら死に向かえない情けない俺は受動的な死を願っている。
しかし、彼女は動かない。
このままでは時間の無駄だと見切りをつけた俺は立ち上がり、台所へ向かう。
とりあえず夕飯の準備をしよう。
俺たちに与えられる食糧は基本的に米と味噌、塩のみで管理者の機嫌がいい日はたまに野菜クズや腐りかけた肉などをもらえる程度だ。
消耗品である俺たちの健康など気遣う必要はなく、俺もあと十年もすればガタが来て捨てられるだろう。
ベコベコのシンクに置いてある、これまた小汚く歪んだ片手鍋に水を入れ、一口のコンロにかけ沸騰させる。
そこに冷凍しておいた米を入れ味噌を溶かすだけのもの。
あいつに飢え死になんてされても困るため、いつもより多めに二人分を作る。
どうせ、彼女も俺と同じで大したものを食べていないだろう舌にはまともな味覚など残っていないだろう。
とにかく腹が膨れるのならそれでいい。
いちいち痛む指に苛立ちながら作業を進め、最後に数分程度煮込み出来上がったそれを二つの大きめの椀にそれぞれよそう。
そして卓に向かい彼女の前に椀を置くと一言。
「食え」
認識はしていそうだが、反応はない。
彼女の意思に関わらず食事を残される方が面倒なため、今度はもう少し強めの語気で言い放つ。
「食え」
二回目の命令で彼女はようやくスプーンを手に取り、飯を口に運び始める。
プライベートな空間で誰かと面と向かって食事をするなど初めての経験だが、そこに特別な情は湧かず俺は自分の分を勢いよくかきこみ、さっさと食事を終わらせる。
「後は好きにしろ」
立ち上がり食器をシンクへ置き、そのまま隣の寝室へ。
既に畳の上にある自分の布団とは別に、ここに入居した時から押し入れにあった一つの布団を取りだし乱雑に放る。
そして、俺はそのまま床についた。