第9話 別れ
あれから、言葉を交わすこともできず物言わぬ彼女と肌を重ねる毎日が続いていた。
もう、全てを諦め考えることを放棄できればいいと、そう思っていた。
しかし、あの日以降、夕食だけは律儀に用意されていた。
洗濯や掃除は以前と比べ粗が目立ち、全く手が付けられていない時の方が多くなっているというのに、仕事から帰ると決まって不格好なおにぎりと味噌汁だけはそこにあった。
こんなこと、して欲しくはなかった。
アイが壊れて何もしなくなれば、いっそのこと、彼女を捨て、あいつらのような悩みのない生き物になれたかもしれないのに。
それなのに、食卓のこの貧相な食事の温かさが彼女の生を俺の身体へ知らしめるのだ。
「なぁ、俺と話がしたいんだろう。何とか言ったらどうなんだ」
今まで散々、彼女を避けて過ごしていたのに今更こんなことを言うのは都合が良すぎるだろう。
それでも、今の俺は感情を失った人形に救いを求めずにはいられない。
「もう話せなくなったのか?冗談だろ?あんなこと、お前にとっては慣れたことじゃないか」
何がしたいんだ、俺は。
悪態をつくくらい後悔をしているのなら、彼女と出会った時からもっと胸がすくような行動をしていればよかったのに。
今になって、失ってしまってから醜く愚図るなんて。
それでも、過去を清算したいがために一番最初に言うべきだった言葉を今更言い放つ。
「なぁ、二人で逃げ出さないか。誰もいないところに」
一時して、ただの錯覚か、その言葉を受けて彼女の無表情が少しだけ動いたような気もするが、薄暗い電球色の下ではよくわからない。
「ここから抜け出して、人間のいないところでただ生きるんだ。何もなくても、こんな場所よりかは遥かにマシだろ」
これは俺の願望だ。何の力も持たない子供が描く夢のようなものだ。
ああ、そうだ、もう、何の意味もないんだ。
もう、たくさんだ。
立ち上がり、物言わぬ彼女の首に手をかけ力を籠める。
真っ白な肌は次第に赤みを帯び、無表情だった顔には苦悶が現れる。
そして、久しぶりに開かれた彼女の口から蚊の鳴くような声が聞こえ始め俺は我に返る。
すぐに手を離し、咳き込む彼女を俺は茫然と見下ろす。
恐ろしくなった俺は家を飛び出し行く当てもなく夜の街へ逃げ出した。
*
どれくらい時間が経っただろうか。
空は青藍に染まり夜明けが近づいてきた頃、冷静さを取り戻した俺は家に戻っていた。
彼女に合わせる顔なんてないが、仕事に行くために一度帰る必要があった。
扉を開け玄関へ入ると室内は静まり返っていた。
ここから居間を眺めてもアイの姿はなく寝室へ向かう。
薄暗くてはっきりとは見えないが、そこに彼女はいた。
なぜか彼女は壁にもたれかかるように座っている。
「アイ、さっきは、悪かった。俺は、どうかしてたんだ」
いつものように反応はない。
しかし、嫌な予感がする。
急いで部屋の明かりを点けると、そこには、目を閉じ黒いケーブルを首に巻き口から泡を吹いたアイがいた。
考えるより先に窓の鍵に掛けられたケーブルを外し、彼女を横たえ心臓マッサージを始める。
冷たさを感じる体に、それでも蘇れと無駄なあがきをいつまでも。
めまい、動悸、呼吸の乱れは収まらず、それでも腕は止めずに。
「一緒に出かけようって、約束したじゃないか!!」
どうして、今になって。
今まで平坦に生きていたじゃないか。
俺があんなことをしたせいか?
俺はどうしてこんなに動揺している?
彼女が死んだから?
いや、俺はその光景を見て安堵するべきなんだ。
永遠の眠りにつき彼女はようやく楽になれたのだ。
俺自身の後悔だって、今の彼女にはどうだっていい。
「もう、いい」
どれだけやっても彼女の身体に変化が現れることはない。
アイは、死んだのだ。
感情も涙も鼻水も出せるものは全て吐き出した俺は腕を止め落ち着きを取り戻した後、二度と目覚めない彼女の遺体を抱え布団の上に運ぶ。
そう、こんなに軽かったんだ。
こんなに軽いのに、こんな身体で人間の業を受け止めながら生きてきていたんだ。
いや、何も考えるな。
もう、終わったんだ。
居間に戻ると、ちゃぶ台の上には冷めた味噌汁と存在すら忘れていた黒の切符が置いてあった。
そして、虫が這うような文字でごめんなさいと書かれた紙が一枚。
ただ、俺は呆然と立ち尽くす。
しかし、視界に飛び込んできた黒の切符に記載された出発日を見て俺の意識は徐々に鮮明になる。
出発日は、今日だ。
時刻も、今から駅に向かえば間に合うだろう。
『望む望まぬにかかわらず、あなたは必ず白の列車に乗ることになる』
あの女の言葉が思い出される。
これが、運命か?
アイが死に、この場面で黒の切符が現れる、これが。
ああ、それなら。
何処へでも連れて行けばいい。
希望が待っていようと絶望が待っていようと、このクソみたいな現実をぶっこわしてくれるのなら。
意を決した俺はお椀を手に取り胃の中へ味噌汁を一気に流し込む。
この冷めた塩辛いだけのものが、もう味わえないと思うと妙に悲しい。
そして、寝室の押し入れから取り出したすえた匂いがする唯一の私服に着替え、ジャケットの内ポケットに彼女の書置きを折りたたんでしまう。
その後、キッチンから取り出した古い油を寝室の彼女が眠る周りに撒き散らす。
人は死んでしまえば熱さや痛みを感じないのか、それに決着をつけないまま死者に生者のエゴを押し付けるのは気が引けるが、このまま彼女を腐らせるのはしのびない。
なにより、彼女がここに形を保って存在する限り、俺はもう何処にも行けそうになかった。
これは決別なんだ。
呼吸を一つ吐き台所から持ち出したマッチに火をつけ、それを地面に落とす。
瞬間、床や壁を炎が走り出す。
そして、寝室に一瞥、俺は自宅を飛び出した。
この辺りはボロの木造住宅が密集しているため、小さな火はあっという間に全てを飲み込む炎になるだろう。
これでいい。
多くの命が失われるかもしれない、それでも構わない。
ここにある悲しみも痛みも全て消し去ってくれるはずだ。




