第62話 幸せになるために(後半ゲーアハルト視点)
「――というわけなんだ」
斜め向かいのソファに腰掛けたゲーアハルトが語り終えると同時に、カルリアナは隣に座るディートシウスをじろりと睨んだ。確かに付き合う前、「初対面の上級生になめられたことがあった」とは言っていたけれど。
「……ディート、暴力はいけませんよ」
ディートシウスがビクッと肩を震わせる。
「い、いや、あのころの俺はまだ子どもで、弁が立たなかったし? 手が先に出ちゃったのも仕方ないかなー、って」
「嘘おっしゃい。いじめっ子を追い払うなら口撃にしなさい。口撃に」
「十六年も前のことだから時効ってことで。それに、相手は歯が抜けたり折れたりはしていなかったよ?」
「風の噂によると、しばらく授業に出られなかったみたいだがね」
「ゲア! 余計なこと言うな!」
ゲーアハルトは明るく笑ったあとで、懐かしそうに目を伏せ、コーヒーポットの下で踊る炎を眺めた。ロウソクの炎が、最新の魔道技術で耐熱加工を施された、ガラス製のポット台に反射し、温かな光を放っている。
「でも、ディートに初めて声をかけられたとき、本当はちょっとうれしかったよ。当時はみんな、わたしを腫れ物扱いして、声なんてかけてくれなかったから」
ゲーアハルトの顔は、とても幸せそうだった。きっと、彼はディートシウスと友人になれたことで、ずっと抱えてきた疎外感から救われたのだ。
(……それはもしかして、ディートも同じなのかもしれません)
ディートシウスは次兄イングベルト以外の家族からは愛されていたが、歪な家庭環境に傷ついていたから。
その証拠に、ディートシウスも穏やかな微笑を浮かべている。
自分たちの「今」は、さまざまな出会いによって形作られている。その中には変わっていくものもあるし、不変のものもあるだろう。でも、変わっていくことが悪いわけではない。カルリアナだってディートシウスと出会い、人生がよい方向に変わったから。
カルリアナは、兄を見てじんとした表情をしているゼルマとイルマに向き直る。
「ゼルマさん、イルマさん」
「は、はい」
「どうかなさいましたか?」
「わたしと殿下は先日、シュノッル准将からフィロメーラさんとエーフィさんを紹介していただきました」
「あ……」
「それでお二人が今日……」
令嬢たちは意表を突かれたように、カルリアナとゲーアハルトを交互に見る。
カルリアナは二人に語りかけた。
「フィロメーラさんもエーフィさんもとてもよい方で、シュノッル准将が大好きなのだとよくわかりました」
ゼルマもイルマも、話しているのがカルリアナだからか、反論しないで黙って耳を傾けてくれた。
「変なことを申し上げるようですが、シュノッル准将もフィロメーラさんもエーフィさんも、今でも十分幸せなのだと思います。ですが、准将とフィロメーラさんが一緒になったほうが、きっと今よりもずっと幸せになれると思うのです。お願いします。ご家族として、お三方がもっと幸せになるためにお手伝いいただけませんか。特に、シュノッル准将のようなお優しい方が父親になるかどうかで、エーフィさんの人生は大きく変わることでしょう」
カルリアナは自分の話に耳をそばだてているギュスターヴをちらっと見た。
(わたしはギュスに幸せになってほしい。もちろん、エーフィさんにも)
ゼルマとイルマは複雑そうな表情で押し黙っている。
さて、情緒に訴えるのはこれくらいにして、フィロメーラとエーフィの素晴らしさをプレゼンしなければ。
「それにフィロメーラさんは貴族に匹敵するくらいの教養の持ち主です。クリューゲ語に堪能なのですが、シェジュ語も自由自在に操ることができ、こちらのギュスターヴ殿下も感心していらっしゃいました。わたしは現在、彼女が翻訳した戯曲を読んでいますが、原文のニュアンスを完璧に汲み取ったうえでケルツェン語らしさも加えた素晴らしい翻訳です。ぜひ、お二人にもお読みいただきたいと思います」
「そんなに……」
「才女と名高い伯爵閣下が、そこまでお褒めになるなんて……」
「エーフィも優しくて頭がいいよ。シェジュ語の本も、絵本なら読めるって」
援護してくれるギュスターヴに感謝しながら、カルリアナは続いてエーフィを褒め称えることにした。
「そうです。エーフィさんは一見内気なお嬢さんですが、内心ではいろいろなことに配慮している、とても賢く可愛らしい方です。ギュスターヴ殿下と仲良くなれたことからもわかるように、将来は社交界でも十分に地歩を占めていけるでしょう」
フィロメーラとエーフィは、兄が深く関わる貴族社会でも十分にうまくやっていける。そう力説されたゼルマとイルマは顔を見合わせた。「どうしましょう?」と小声で話し合っている。
やがて二人は結論を出し、ゼルマが言った。
「……かしこまりました。伯爵閣下がそこまでおっしゃるのなら、わたくしたちも否やは申しません。まずはお二人と会ってみます。……その、フィロメーラさんとエーフィさんに」
***
そして、シュノッル家とベッシュ母子の顔合わせの日が訪れた。
当然だが、今日はディートシウスとカルリアナは出席していない。そのせいもあって、ゲーアハルトは内心でハラハラしながら、馬車で迎えに行ったフィロメーラとエーフィを家族に紹介した。
年齢よりも若く見え、溌剌とした美しさを備えるフィロメーラと、内気な子特有の可愛らしさを持つエーフィと対面した両親の反応は上々だった。
(問題は)
妹たちは気まずそうに目くばせし合っている。
フィロメーラとエーフィを客間に案内し、一家はコーヒーとケーキを振る舞った。
両親がフィロメーラに話しかけ、話題は彼女の仕事に移った。
それからしばらくして、ゼルマがおずおずと口を開く。
「あの……実はわたしと妹はフィロメーラさんの翻訳した本を拝読しております」
「まあ、うれしい! どの本ですか?」
「わたしは小説が好きなので、『昼夜の灯火』を」
イルマも続く。
「わたしは戯曲が好きなので、『鳥のいない島』を」
「翻訳なのに、とても読みやすいですね。クリューゲの文学作品はとっつきにくいイメージがあったので、新鮮でした」
二人が会話に加わったことがきっかけとなり、話に花が咲き始めた。
「ゲーアハルトさまのご家族はとても温かな方々でいらっしゃいますね。きっと、彼が素晴らしい方に育ったのも、ご家族があってこそなのでしょうね」
フィロメーラの言葉を聞いた両親は、心を動かされたようだった。
「息子のよさをわかっていただけてうれしいです」
「この子はわたしたちの子どもにしては、出来過ぎていて……」
父がエーフィに笑いかけた。
「エーフィさんはゲーアハルトのことをどう思っているのかな? 息子のことが好きだったら、おじさんもおばさんもうれしいんだが」
エーフィが膝の上でぎゅっと両手を握り締めた。意を決したように、切羽詰まった顔で訴える。
「あのっ……わたし、ゲアお兄さまにお父さまになってほしいです……」
幼い少女の口から発せられた言葉に、フィロメーラも含め、一同が息を呑んだ。エーフィはつっかえながらも続ける。
「わたし……本当のお父さまにも……お父さまのほうのおじいさまとおばあさまにもいらない子だって言われて……わたしが女だったから……跡取りには向いていないって……」
怒りがゲーアハルトの胸を焼いた。その話はフィロメーラから聞いている。離婚するときに、エーフィの父親と祖父母はそう言って彼女の親権を放棄したのだ。
ケルツェンでは女性でも跡取りになれるが、いまだに「家督は男子が継ぐべき」と考えている者も少なくはない。エーフィの父親と祖父母は、そうやってフィロメーラとエーフィの心をずたずたにしたのだ。
「でも……ゲアお兄さまは『エーフィはいい子だね。エーフィがわたしの娘だったらよかったのに』って言ってくれて……お母さま以外にそんなことを言ってくれた人は初めてで……」
「エーフィ……」
フィロメーラが隣に座るエーフィの頭をなでた。ゲーアハルトも今すぐエーフィを抱き締めてあげたかった。〝この子の父親になりたい〟と今まで以上に強く思った。
エーフィは途中からぽろぽろと涙を流していた。その光景を見ていたゼルマの目から、一粒の涙がこぼれる。
イルマが心配そうにゼルマの顔を覗き込む。
「お姉さま……?」
ゼルマはハンカチで涙を拭いながら応えた。
「あ……ごめんなさい。エーフィさんを見ていたら、なんだか昔のことを思い出してしまって……フィロメーラさん、お兄さまが……兄が昔、神隠しに遭ったことはご存知ですよね?」
「はい」
「初めてそのことを話してくれた際、イルマが泣き出して……そのとき、兄はわたしたちに言ってくれたのです。『大丈夫。わたしはいなくなったりしないから。二人が呼んでくれればいつでも駆けつけるよ』って……どうしてそんなに大切なことを忘れていたのか……」
(そういえば、昔、そんなことを言ったな……)
新しく守るべきものができた今でも、その思いは変わっていない。
あれから十年以上たったが、ゼルマとイルマはいつまでも自分にとって可愛い妹たちだ。
イルマが恥ずかしそうに言った。
「わたしも忘れていました。お姉さま、お兄さまはたとえ結婚したとしても、どこかへいなくなってしまうわけではないのですね」
「そうね、イルマ」
ゼルマは涙声でそう応じたあとで、フィロメーラに向き直った。
「フィロメーラさん、お願い申し上げます。エーフィさんと二人で、兄を幸せにしてあげてください」
フィロメーラは大きく目を見開き、すぐに笑顔になった。
「はい。わたくしたちでよければ、喜んで」
その瞬間、ゲーアハルトは今まで張り詰めていた糸が緩まる思いがした。妹たちは、自分たち三人が家族になることを認めてくれたのだ。
(これも、ディートと伯爵のおかげだな。いや、妹たちを説得してくれたのは主に伯爵か)
とはいえ、二人には感謝してもしきれない。
ゲーアハルトが席を立ち、ハンカチでエーフィの涙を拭っていると、フィロメーラと目が合う。ゲーアハルトは彼女とほほえみ合い、すっかりしんみりとした顔をしている家族に明るく声をかけた。
「これから」の話をするために。




