第60話 わたしたちはお兄さまを失いたくない(前半ゼルマ視点)
あれは確か、十三年前のこと。
わたしは五歳、妹のイルマはまだ四歳だった。夏の休暇中だったから、お兄さまはまだ十四歳の誕生日を迎えていなかったと思う。
お兄さまが太陽学院から帰省して、家族全員がそろった居間でわたしたちは聞いたのだ。
「ゲアお兄さま、お兄さまはどうして太陽学院に通っているのですか?」
「お友達が『王族や貴族じゃないと太陽学院には通えない、お父さまが言ってたから間違いない』って言ってたんです」
「わたしたちが嘘をついてるみたいに言われて、とても腹が立ったのです」
両親は困ったような顔をし、やがてお父さまがこう言った。
「今は悔しいかもしれないが、大人になればわかるよ」
「父上、それでは答えになっていませんよ」
苦笑しながらそう言ってくれたのはお兄さまだった。
お父さまは眉根を寄せた。
「しかし、ゲア……あのことは、まだゼルマたちに言うのは早すぎる。それに説明しても理解できるかどうか」
「一度説明してみないとわかりませんよ」
お兄さまは真面目な顔になり、「これから話すことは、ちょっと怖い話かもしれないね」と前置きしてから説明してくれた。
お兄さまは「召喚士だから太陽学院に通えている」のだという。
「『しょうかんし』ってなんですか?」
イルマが聞くと、お兄さまはこう答えた。
「召喚士っていうのはね、幽幻界っていう、わたしたちが生きているこの世界とは別の世界に生きる、幻神と呼ばれる生き物を呼び出せる能力を持った人のことだよ」
お兄さまはそんなにすごい人だったんだ!
わたしは誇らしい気持ちでいっぱいになり、「お兄さまはいつ召喚士になったのですか?」と聞いた。ところが、返ってきた言葉は幼児の想像を絶するものだった。
「わたしは昔、神隠しに遭ってね。神隠しっていうのは、子どもや若い女性がふっと姿を消してしまう事件のことだよ。気がついたとき、わたしは幽幻界にいて……運良く幻神たちの助けを借りて、この世界に戻ってこられたんだ。幻神たちは別れるときに言ったよ。『何かあればいつでも呼ぶがよい。我らはそなたの求めに応じ、いつでも力を貸そう』とね。それで、わたしは召喚士になったんだ」
イルマがわっと泣き出した。
「……お兄さま、お兄さまはまた『ゆうげんかい』に行ってしまうんですか? わたし嫌です……お兄さまが太陽学院に通うために、うちになかなか帰ってこないだけでもつらいのに……」
わたしは涙をこらえながら、イルマを抱き締めた。
「イルマ、イルマ、わたしたちでお兄さまを守ろう。お兄さまがまた連れていかれないように」
そのあとで、お兄さまがなんと言ったのか、わたしは覚えていない。ただ、お兄さまがわたしとイルマを二人同時に抱き締めてくれたその温もりだけはよく覚えている。
そのとき、お兄さまを絶対に失いたくない、とわたしはイルマとともに願ったんだ。
***
カルリアナたちがベッシュ家を訪れてから一週間後の休日、カルリアナとディートシウスはギュスターヴを連れて、ゲーアハルトの実家を訪れた。
ギュスターヴはエーフィと仲良くなれたことが少し自信になったらしく、「一緒に行きたい」と自分から言い出したのだ。
ディートシウスが「ゲアの家族なら口が固いから大丈夫だよ」と助言してくれたので、カルリアナはギュスターヴを連れていくことにしたのだった。いろいろな人に会うことは、彼の将来のためになるだろう。
今回もゲーアハルトを馬車で官舎に迎えに行ってから、シュノッル家の門をくぐる。シュノッル邸はこぢんまりした品のよい屋敷だった。
一家はゲーアハルトが太陽学院に通うことになってからというもの、領地よりも王都を中心に生活しているらしい。
「うちの家族は、少し過保護なのです」と馬車の中でゲーアハルトは、微苦笑を浮かべながら説明してくれた。
ゲーアハルトは四歳のときに幽幻界に迷い込み、五歳で戻ってきたというから、両親は相当彼のことを心配したのだろう。
しかも、召喚士としての力を得たゲーアハルトは特別視されたために、ケルツェンに戻ってすぐ、将来は太陽学院に入学することが決まってしまった。
ゲーアハルトが妹たちと歳が離れているのも、両親が彼を溺愛し過ぎた結果なのかもしれない。
(シュノッル准将のご家族はどんな方たちなのでしょう。ご両親はフィロメーラさんとの結婚に賛成のようですが)
カルリアナの心配をよそに、シュノッル夫妻と二人の令嬢は温かく出迎えてくれた。四人とも上品なたたずまいで、シュテルンバールの州都、テルマッセの図書館で会った準貴族らしき若者たちとは格が違った。さすがはゲーアハルトの家族だ。
「お初にお目にかかります伯爵閣下」
「才女と名高い閣下にお目にかかれて光栄でございます」
「お茶の用意をしておりますので、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
「我が家の料理人が作るケーキがお口に合えばよろしいのですが」
説得対象であるゲーアハルトの妹たちは年子だという。長女のゼルマは十八歳。ゲーアハルトと同じく黒髪で、焦げ茶色の瞳をしている。兄のような切れ長の目ではないものの、少しつり目がちな少女だ。
次女のイルマは十七歳で、髪は艶やかな栗色だ。姉と比べ、垂れ目がちな焦げ茶色の瞳がおっとりした印象を与える。
「ディートシウス殿下が息子によくしてくださるので、わたしどもも安心しているのですよ」
「本当に……『よい出会いがあってよかった。息子を太陽学院に通わせて正解だった』と主人とよく話しておりますのよ」
シュノッル夫妻のディートシウスに対する評価は極めて高い。ディートシウスもこの二人の前では猫をかぶり、紳士的に振る舞っている。
しかし、夫妻が人数分のコーヒー、ホールのザッハトルテとチーズケーキを用意させて去り、説得対象の令嬢二人と自分たちだけが客間に残ると、ディートシウスは早速本性を現した。
「ゲア、立って立ってー」
「? これでいいのかな?」
ゲーアハルトがソファから立ち上がると、ディートシウスは美麗な顔をキラキラさせながら「ゲア……」とつぶやき、彼の顎をくいっと持ち上げた。
「好きー!」
ディートシウスはガバッとゲーアハルトに抱きついた。
「ディート、アツクルシイヨ」
(……シュノッル准将の目が死んでいます)
「はあ」とため息をつきながら令嬢たちの方を見ると、彼女たちは憤怒の形相で互いの手を握り合っている。
(これは……常習犯ですね)
絵面だけはやたらいいところが、余計に腹が立つ。
ギュスターヴは呆れ顔でジュースを飲んでいる。ディートシウスが甘えるようにこちらを見た。
「カルリアナも嫉妬してよー」
「どうしてお二人に嫉妬しなければならないのですか。というか、もしわたしが嫉妬していたら、あなたは婚約者の前でご親友に愛をささやき抱きついた最低野郎に成り下がりますよ。それでもよろしいですか?」
「……もしかして、怒った?」
「ええ、少し。ディート、人の嫌がることをしてはいけませんよ」
「ご、ごめん。妹ちゃんたちの反応が面白くて、つい」
「ろくでもない言い訳はしない!」
「……はーい」
ディートシウスはゲーアハルトから離れた。令嬢たちがささやき合っている。
「見た? イルマ」
「はい、お姉さま。わたしたちの天敵、ディートシウス殿下を止められる尊いお方が、ついに顕現なさったようです」
(わたしが「尊いお方」って……ディート、どれだけ嫌われているのですか)
ゲーアハルトが苦笑しながら妹たちに近づいていく。
「二人とも、いつもディートがすまないね。わたしに免じて機嫌を直してくれないか」
兄に声をかけられたゼルマとイルマはうれしそうに目を輝かせた。ゲーアハルトはすかさず、女性の心をとろかすような顔つきになる。
「それで、もう父上から聞いていると思うが、今日は彼女との交際を認めてほしくて――」
「それとこれとは別です」
「そうです、別です!」
やはり、妹たちにはあっさりと拒絶されてしまった。
ゲーアハルトは苦笑いしたあとで、カルリアナに目を向けた。〝いよいよわたしの出番ですか〟と思い、カルリアナは少し緊張する。
「本題に入る前に、少し昔話をしましょうか。ゼルマとイルマも、わたしとディートがどうして仲良くなったのかは聞いていなかったよね?」
「はい」
「聞いておりません!」
恥ずかしいのか、ディートシウスが一人抗議する。
「えー、いいだろ、そんな昔の話」
「みんなには聞いておいてほしいんだよ。まあ、コーヒーとケーキを楽しみながら耳を傾けてくれればいいから」
(これは……ディートがひっかき回したせいで、少し妙な感じになってしまったこの場の空気を和らげるためでは……)
いずれにしても、ディートシウスが諸悪の根源であることを思うと微妙な気分だが、二人の出会いについてはカルリアナも聞いたことがなかった。
婚約者の新たな一面を知れる。カルリアナは新しい本を開くときのようなワクワク感に包まれた。




