カーディナルへようこそ!
2024年10月
細かな個所を加筆修正致しました。
少し読みやすくなったかな…と思っています。
お楽しみ下さい。
「再雇用?また、その話ですか…!」
ものすごく太々しい態度だという自覚はある。が、最後にどうしてもキッパリと言っておかねばならない。
「どうしても…どうしてもとおっしゃるなら、再雇用先は温泉付きの国営旅館にしてください。それ以外のところでは働きませんよ。嫌です!」
…俺は60歳!定年です。
38年も働いたんです。もう、いいでしょう?
これからは温泉巡りでもして、妻と2人、ゆるゆると暮らしたいのですよ…!
そんな顔をして俺はランドン宰相殿を見た。
ここはヤムル国のランドン宰相の執務室。宰相殿の性格を表すかのように、殆ど装飾のない質素な…じみぃ〜な部屋である。
大きなデスクに座る宰相殿は机の上で両手を組み、俺の顔をじっと見た。
ニコリとも笑わない鉄仮面の様な宰相殿のモノクルがちょっと光った様な気がしたが…まぁ、知ったこっちゃない。
「ウィリアム…本当にいいのか?」
「はいはい。左様でございます。私の気持ちは変わりませんよ!」
俺は辞める気、満々である。
この国の国営旅館なんて聞いたことがない。つまり、そんなものは存在しない。
だから、俺は再雇用されるはずない。
…まさか、嫌がっている俺に無理に他の仕事を押し付けることもあるまい。
これで俺は自由になるのだ!
「では、そういう事で私はめでたく定年退職いたします」
俺は右手を左胸に当て、ゆっくりとお辞儀をした。顔を上げて最高級の笑顔で宰相殿を見ると、宰相殿の顔が妙に歪んで見えた。
すみませんねえ、とは思うが気にせず宰相殿の執務室を後にした。
スタスタスタと事務室に戻りカバンを手にすると、俺は片手を上げて皆に挨拶をした。
「じゃ、みんな。今日はこれで失礼する」
皆が立ち上がってお辞儀をする中、俺はにっこりと笑い颯爽と歩き出した。
事務室を出て廊下の角を幾つも曲がり、城の通用口に着いた。
「お疲れさん」
通用口で衛兵に身分証を見せて一声かけて労い、キリッと敬礼をする衛兵に手を振り外に出た。
「ふうぅ〜」
思わず大きく息を吐いてしまったが、これは仕方あるまい。
退職の日まであと1週間。
言いたいことは言ったし、有給休暇は山の様に残っている。退職の日まで自宅でダラダラとして過ごすと俺は決めている。
城の通用口前のバス停で待つ事しばし。
借りている家まで、乗合バスで約10分、更に徒歩2分。
暗くなり始めた道をコツコツと足音を響かせて歩く。
閑静な住宅街にある借り住まいの我が家の窓からは、暖かな灯りが溢れていた。
「エベリン、ただいま戻った!」
俺が言い終わらないうちに、妻のエベリンがエントランスまですっ飛んで来た。
「だんな様っ!お帰りなさい!」
エベリンが俺に抱きつき、待ってたの…そう囁いてキスをした。
「うん、待たせたね」
俺はエベリンを抱き締める。
「夕食はだんな様のお好きなハンバーグを作りました!」
そう言うと可愛いエベリンはにっこりと笑った。
どう見ても二十代半ばにしか見えない俺の可愛い妻、エベリンは俺と同じ歳、60才…のはずなのだが、1ヶ月前のある朝、起きたら……若返っていた。
驚いたさ。
ベッドの中に若い女がいて、俺にピトッとくっついて寝ていたんだ。驚かないわけがない。
「何者だ!ここで何してる。」
俺はパニックに陥って飛び起きた。
なのに、その女は可愛いらしくあくびなどして俺を見た。
「ふふっ!だんな様、おはようございます」
「へっ?」
俺は間抜けな声を出してしまったが、その女はよくよく見ると若い頃のエベリンにそっくりで…。
エベリン(?)は目をこすりながらゴソゴソと起き出して俺を見てにっこりと笑って言った。
「だんな様、朝ごはんにしましょう。お腹が減りました!」
そして身支度をして鼻歌を歌いながら台所に行ったのだ。間違いなく鏡を見たはずなのに、自分の変化に全く驚いた様子もなかった。
なんと言ったらいいんだろう…。実際のところ、俺には何が何だかわからなかった。
女を叩き出すのもためらわれ、なぜか流されるように俺も顔を洗いダイニングへと行ってみた。
エベリン(みたいな女)はごくごく普通に朝食を作っていて、自分で淹れたコーヒーを一口飲んで、美味しいですねえ…などと言ってニコニコとしていたのだった。
訝しく思いながらもエベリン(らしい女)と朝食を食べ会話をすると、やはり女はエベリンで間違いなかった。
なぜそう断定できたのかって?
エベリンの右腕には昔、事故で負った大きな傷の跡があるんだ。だから、ちょっとすまんね、などと言ってシャツの袖をめくって見たんだよ。
そうしたら…!
見覚えのある傷はしっかりと女の右腕にあった。特徴的なその傷…。いつものエベリンならその傷を必死で隠すのに、その時のエベリンは隠そうともせずに笑っていた。
「やだぁ…だんな様、見ちゃダメェ〜」
俺はきっとポカンとした顔をしていたと思う。
だって、そうだろう?
誰だってそんな時、ポカン…だ。
その頃、俺は妻のエベリンを帯同して、自分たちの国ヤムルから遠く離れたカナン国に駐在大使として赴任していた。
丁度定年になったんで、ヤムルに帰国する事になった時だったんだ。
そんな時にいきなり妻が若返って俺は大いに慌てた。
帰国の準備やらなんやかやと忙しかった、というのは言い訳なんだけど…。本当に、どうしたらいいのかさっぱりわからなかったんだ。
こんな変な話、誰かに相談出来るわけもないだろう?
エベリンの外見は可愛い二十代。中身も若い二十代の女性になったまま、何日経っても元には戻らなかった。
そして、なぜか、過去の苦しくて辛い記憶だけは都合よく忘れていた。
一番不思議なのは本人がその事をなんとも思っていないこと。
いやはや…なんとも…言い難し。
そんな訳で、俺は若返った可愛いエベリンをどうにか隠し通して帰国してきた。
帰国後、エベリンは職場の皆にも、親戚一同にも、友達にも、誰にも知られない様にひっそりと隠れて暮らしている。
なぜなら…。
「この事が見つかると、若返りの研究とか言ってどこかに連れて行かれるかもしれないな…」
俺がボソッとそう言ったから。
脅すつもりはなかったんだけど、エベリンは青ざめて泣き出してしまった。
「えっ?そうなんですか?そんなの嫌です。だんな様と離れるのは嫌です。
連れて行かれるなら…2人で連れて行かれたいです」
…と、いうことで、俺はさっさと定年退職して、可愛い妻と2人で誰にも知られない土地に行き、のんびりと暮らす事に決めたんだ。
これからどうする、なんて事はとりあえず後回しだ。貯金を取り崩しながらの年金暮らし…いいじゃないか!温泉を巡り、美味いものを喰う。そして、エベリンと2人で幸せに暮らすのだ!
今夜のハンバーグも美味かった。
「エベリン、ごちそうさま。今日もおいしかったよ。いつもありがとうね」
俺が微笑むと、エベリンは顔をちょっと赤くした。
俺の胸の鼓動も、心なしか速くなる。
2人で片付けをして、食後の時間を窓辺のソファに座って過ごした。
エベリンが俺の肩に頭をそっと乗せている。俺はエベリンの蜂蜜色の髪の毛をくるくるといじりながら、今日の報告をした。
「ランドン宰相には、キッパリと再雇用の話は断った。これで俺達を知っている人のいない所に行って暮らせるよ。待たせたね」
うん、と頷いてエベリンは俺の首筋にキスをした。俺はエベリンを抱きしめた。
俺はこの国、ヤムルの外交部で働き、ほとんどの時間を国外で過ごしてきた。
なぜだかわからないが、俺が駐在するとその国と我々の国ヤムルは、必ずと言っていいほど良い関係を築く事ができるのだ…と宰相殿は俺に言う。
ランドン宰相殿は、そんな俺を '人たらし' と呼んだ。
「お前は相手を暖かく包む才能があるのだよ。お前にかかると誰もが優しい気持ちになる。
…悪く言えば '人たらし' だな。
私も国王陛下も、お前の才能を活かして、これからもヤムルに貢献して欲しいと思っているのだ…」
そう言われましてもね。
俺はエベリンのそばにいてやりたいのですよ。この決心は揺らぎません!
エベリンと2人で楽しく過ごしていると、退職の日がやってきた。
俺はヤムル城に行ってマシュー国王陛下に謁見した。魔力を持たない文官である俺は、これまでに戴いた勲章を付けたモーニングに身を包み、城の大広間で畏まって陛下をお迎えした。
「ウィリアム、楽にせよ」
ゆっくりと顔を上げると、陛下がにっこりと笑っていらっしゃる様に見えて、俺は少し嫌な予感がした。国王陛下の右斜め後ろにいるランドン宰相殿は無表情のままだ。
「ウィリアム、長い間、この国のために尽くしてくれて感謝しているよ。お前の希望はランドン宰相から聞いた。本当にいいのだな?」
「はい、もちろんでございます」
可愛い妻と2人、ゆるゆると温泉…
「その言葉に、感謝する。」
ん?か、ん、しゃ?んんん?ん???
国王陛下は微笑んで退室してしまった。
「また連絡する」
ランドン宰相殿もそう言って退室してしまった。俺の頭の中はぐるぐると渦が巻いた。
マシュー国王陛下に感謝された!
なぜ?
疑問は湧き起こるがゆっくり考える暇もなく、退職に伴うセレモニーが始まってしまった。
皆から握手責めにあい、花束や記念品をたくさん貰い、いろんな人からハグやらキスやらされて、門の所まで迎えに来ていた王家の車に揺られ、ヨレヨレな感じで家に戻った。
「エベリン、ただいま戻った!」
俺が言い終わらないうちに、妻のエベリンがエントランスまですっ飛んで来た。
「だんな様っ!お帰りなさい」
エベリンが俺に抱きついた。
長い長い間、お仕事、お疲れ様でした…とキスを1つ。
「本当に、ありがとうございました」
エベリンは背伸びをして、俺に首に抱きつく様にしてキスをした。俺もそれに応えてエベリンを抱きしめた。
皆から記念にともらった品々を2人で見て、ちょっと高級な赤ワインを開け、チーズとプロシュートを食べ、いい調子に酔っ払った。
そして、2人でイチャつき、抱き合ったまま眠りについた。
***** *****
鶏の鳴き声で目が覚めた。
…誰が飼ってるんだ鶏。いったい何羽いるんだよ!
辺りを見回すとまだ辺りは薄暗い。
…誰だよ!近所めいわ…くえええっ……
…えっ?えええっ!
ここは何処だ?俺達の借りた家じゃない!
「おいっ!エベリン、エベリン!起きろ。大変だ!」
エベリンは裸で俺にピトッとくっついて眠っていた。すごく可愛いんだけど、今はそれどころではない。
「エベリン!起きろ!俺達、知らない所にいるぞ!」
エベリンはうっすらと目を開け、さらに俺にくっついた。
「はい…私は昨日の夜、だんな様に天国に連れて行ってもらいました…」
うん、そうだったね。何回も天国に連れて行ってあげたんだけど…今はそんな話じゃなくて…!
「ちがう、エベリン!俺達2人、本当に知らない所にいるんだよ」
起き上がったエベリンは、ぎゃぁっ、と叫んで俺にしがみついた。
「だ、だ、だんな様!こ、ここはどこですか!」
「エベリン、とりあえず服を着よう。裸では何もできん!」
「そうだな。そうしてもらえると…私もありがたい」
何処からか聴き覚えのある声が響いてきた。
途轍もなく嫌な感じがする。
エベリンはますます俺にしがみついた。
聞き覚えのある声は更につづけた。
「服はクローゼットに入っておる。私はダイニングルームでコーヒーでも淹れておこう」
2人で服を着たが、エベリンは俺にくっついたまま離れようとしないし、震えて歩けそうもないのでお姫様だっこをした。俺の首筋にしがみつくエベリンを連れ、コーヒーの香りをたどってダイニングルームに着いた。
コーヒーの芳しい香りに包まれて座っていたのは、ランドン宰相殿だった。
「やぁ!」
宰相殿は片手を挙げた。
「まぁ、2人とも座りたまえ。コーヒーに砂糖とミルクはいるかね?ん?ミルクだけ?では、冷めないうちにどうぞ」
気さくな感じでコーヒーを勧めた宰相殿は突然目を大きく見開き、俺を見た。
「…ウィリアム、ちょっといいかな?」
そして、エベリンに向かって優しい顔をした。
「ああ、貴女はそのままコーヒーを飲んでいてくだされ。私はちょっとウィリアムと話すだけだからね。大丈夫。何もしないよ」
俺は宰相殿に首根っこを掴まれ、引っ立てられる感じで廊下を曲がり小部屋に入った。
ランドン宰相殿は俺をどすんと放り投げ、睨みつけた。
「おいっ!ウィリアム!どういう事だ?妻のいる身で、あの様な若い女子と!エベリンはどこにいる?隠し立てすると容赦はしないぞっ」
宰相殿の放つ怒りが魔力を発動し、魔針となって俺の体に突き刺さる。
「痛い、痛いです…あいたたたっ!やめてください!痛い!痛いって!」
「正直に話せ!えっ?あの女子は誰だ!」
あまりの痛さに、涙目の俺は正直に言った。
「エベリンですよ!エベリン!」
「嘘をつくでない!」
さらに強い魔針が俺を突き刺す。
「いた〜い!やめてください!痛い!痛い!あれはエベリンですってば!エベリーン!」
「バカを申せ!エベリンはお前と同じ歳だ。60才ではないか!あの女子はどう見ても20代だぞ!」
そこにエベリンがヨロヨロしながらやって来た。
「ランドン宰相さまっ!お久しぶりでございます。私はエベリンでございます。若返ってしまったエベリンでございます!」
ランドン宰相は目だけでなく口も大きく開けて、あわあわとした。
「エベリン?エベリンなのか?おお、なんと!其方はエベリンではないか!なんでそんな形をしておる!早く元に戻らんか!」
「…戻れるモノなら…とっくに戻っておりますよ!」
そう言ってエベリンは泣き出した。
あわあわしていた宰相殿はコーヒーを2杯飲んで自分を取り戻し、ようやく俺達の話を聞いてくれた。
「なるほど…。
そういう訳でウィリアムはさっさと退職して、雲隠れしたかったのか…。それなら、丁度良かったではないか!
ここがお前の再雇用先だ」
へっ?という顔をしていると宰相殿がにこやかに言った。
「カーディナルへようこそ!」
ん?んんん?カーディナル…ってなに?
「ここはヤムル国営旅館 'カーディナル' ……温泉付きだ。お前の希望通りだろう?」
国営旅館?
そ、そんのもの、聞いたこともない!
ランドン宰相は、ちょっとばかりドヤ顔で俺を見た。
宰相殿が言うには…
ヤムル国には太古の昔からこの温泉があるのだそうだ。どんなモノでもこの湯に浸かると疲れが取れ、元気が湧いてくる不思議な温泉である。
ヤムル国はこの温泉が利用できる国営旅館 'カーディナル' を作り、人以外のモノ達に利用してもらっている。料金は取らず 'ヤムル国、やるね!' といってもらう事だけが目的の温泉旅館。
人以外のモノ達と上手くやっていくためにこの旅館は存在するという事らしい。
それが国民の幸せにつながるのだ、とランドン宰相殿は力説した。
「しかし、人間にこの温泉のことがバレると、ここを探し出して人間が押し寄せて来るであろう?それは避けたい。
なので、この旅館の事を知っているのはマシュー国王陛下と私、外務7課に在籍する事務官4人だけだ。その4人も職場が変わる時に、ここの事は記憶から消される事になっておる」
俺はただ畏まって宰相殿の話を聞いている。
若干頭も混乱しているし、口を挟める感じでもないし…。
でもどうしても聞いておきたいことがある。
「あのぉ〜、人以外のモノ…って、どんなモノなのでしょう」
「まあ、それはおいおいにな…」
くそっ!ごまかされた!
「では…あのぉ…なんで、私達はいきなりここに連れてこられたのでしょう?」
「馬鹿者!決まっておるではないか!お前に逃げられない様に強硬手段に及んだのだ!
諦めよ。これは国王陛下の命令である」
…俺は '逃げられない' という事だけはしっかりと理解した。
ここから逃げ出したら王命に逆らったって事で叛逆罪…?
やだっ!それって絞首刑じゃん!
「ここは暫く適任者が見つからなかったのだが…。お前がここに来てくれることになって良かった。早く再開して欲しいとあちこちから言われておるのでな。 '人たらし' のウィリアムなら、ここの運営も任せられると国王陛下も大変喜んでおられるのだよ」
ランドン宰相殿はすこぶる機嫌の良い顔で俺とエベリンを見た。
「さて、すまんが、私は忙しい。取り敢えず今日はこれで帰る。詳しい話は明日ゆっくりとしよう。質問も明日だな」
そう言ってかなり分厚いファイルをドンとテーブルの上に置いた。
「あとはこのマニュアルと職務規定を読んでくれ。
あぁ、家にあった荷物は明日届くから心配するな。
この旅館の物はなんでも好きな様に食べたり使ったりして良いぞ。では、また明日」
そう言って、と言うか、言いたいことだけ言って宰相殿は消え、しーんとした部屋に俺とエベリンが残されてしまった。
さてさて、これからどうしたものか…と俺は頭をフル回転させながらエベリンを見た。すると、エベリンは俯いて泣き出しそうになっていた。
「エベリン、大丈夫だよ。俺がそばにいるからね」
俺が手を握ると、エベリンはゆっくりと顔をあげて、涙が溜まった目で俺を見た。
「…だんな様…どうしましょう!
こんな時なのに………私…お腹が減りました」
俺は思わず笑ってしまい、エベリンの頭をポンポンとした。
「そうだな。俺もだ。
まずはそこから始めよう。飯だ!」
俺が手を差し出すとエベリンはぎゅっと俺の手を握った。
2人で手をつないで部屋を出てみると隣にキッチンがあった。食材と調理道具も揃っている。食器もかなり良い物が綺麗に整頓されてある。
冷蔵庫の中を覗いたエベリンが嬉しそうに声を上げた。
「あっ!卵とベーコンがあります!」
ゴソゴソと棚を探して、エベリンはまた嬉しそうな声をあげた。
「美味しそうなイングリッシュマフィンも見つけました!お野菜もあるし、だんな様のお好きなエッグベネディクトが作れる!」
エベリンは俺を見てにっこりと笑った。
「俺も一緒に作ろう。
何をすればいいかな?野菜を洗おうか?」
「はいっ!お願いします。…だんな様と2人で作るなんて、わくわくして楽しいです」
出来上がったエッグベネディクトはなかなかの美味だった。エベリンが、卵が美味しい、野菜も美味しいとはしゃいでいて、それを見ている俺もなんだか嬉しい気分になった。
食べ終わって2人で片付けを終えると、俺達は旅館の中を探索することにした。
旅館は本当に広かったし、まるで新築のように綺麗に整備されていた。
どうやら一番最初にいたのは俺たちの部屋と言う事らしい。Office と言うプレートが部屋のドアに付いていた。
Office以外に客室は3つ。どれもバストイレ付き。小さなキッチンがついていて、広い広いリビングと大きなベッドルーム2つがあるという豪華な客室だ。
エントランスホールへと続く廊下にはたくさんの花が飾られていた。花の甘い香りも漂っている。
エントランスホールには螺旋階段があり、昇っていくと屋上に出た。
そこは緑あふれる庭で箱型ブランコやカウチなどがあり、どこから流れてくるのか小さな小川と滝が作られていた。
屋上の一角にはまた階段があり、昇っていくとテラスになっていた。視界を遮る物が何もない展望台で、真ん中に大きな丸いベンチが置いてあった。
360度周りを見渡せる眺めに、エベリンは顔を輝かせていた。
「素敵な場所ですね、だんな様。
初めてのデートを思い出します。あの時はヤムルで1番高いタワーに昇り夜景を見ました。とても綺麗な夜景だったから、うっとりと眺めていたら、だんな様が私に…」
「あぁ、そうだったね。懐かしいなぁ…。
今夜もう一度、ここに来よう。きっと夜景が綺麗だよ」
うん、と頷くとエベリンは嬉しそうに笑って、俺と手を繋いだ。
「だんな様、もっといろいろ見てみたいです。お庭に行きましょう」
2人で建物を出て広い庭に行ってみた。
手入れの行き届いた芝生がどこまでも広がり、花であふれた花壇、噴水もあり、四阿もあった。
旅館の裏手には畑があり、食べ頃になった野菜があった。りんごやみかんなどの果樹もあり、実が成っていて、エベリンは嬉しそうにしていた。
エベリンが突然走り出した先には鶏小屋があった。卵がいくつか見えているが、エベリンは怖くて中に入れないらしく遠巻きに見ている。
「今朝の卵もあなた達のだったのね。ありがとう。美味しく頂いたのよ」
「エベリン、入れ物も持ってないから、卵はあとで取りにこようか。野菜もね」
俺がそう言うとエベリンは元気よく頷いた。
ちょっと庭を見るだけ…と思ったが、結構歩いた。喉も乾いたし、広い庭を全部回るのはまた明日にする事にして、俺達は一旦旅館に戻ることにした。
ダイニングルームに戻って、珈琲を飲みながら2人で並んで座りマニュアルを見たが、分厚い割にマニュアルは至って簡単だった。
簡単にいうと、この 'カーディナル' はヤムル国の王家の魔力で運営されているため、呪文を唱えるだけでなんでもできる、という事らしい。
畑の世話、鶏小屋の管理、庭の手入れ、客間の掃除…なんでも呪文でできる。買い物はキッチンのホワイトボードに書き出して呪文を唱えると2、3時間後には届く…という。
なんとも簡単便利なシステム。
悪いけど料理はやってね、と書いてあって、エベリンが喜んだ。
「だって、お料理は好きだもの。だんな様に美味しいお食事をいっぱい作りますね」
俺はというと…温泉のマニュアルを見て、はしゃいでしまった。
「エベリン、見てごらん。温泉も呪文で出てくるらしい。えぇ〜っ!すごいな。3つもあるみたいだけど…。1つは屋上、1つはこの旅館の庭。ん?もう1つはこの先の湖がそうらしい。徒歩5分だそうだ。落ち着いたら行ってみようか?」
「はいっ!温泉、入りたいです!」
「そうだね。じゃあ、今日は屋上の温泉に入ろうか?」
「うわぁ、楽しみ!温泉なんて、久しぶりですもの」
エベリンは眼をキラキラとさせている。
「でも、だんな様、その前に…。
畑の野菜と卵を一緒に取りに行ってください。鶏小屋は、ちょっと怖いから」
2人で大きなバスケットを持ち、のんびりと庭を歩いた。
鶏小屋の卵は4つもあった。エベリンはちょっと離れた所から俺が小屋に入るのを見ていたが、鶏達が騒ぐので、だんなさまぁ〜と心配そうな声を出した。
畑の野菜には初めて見るものも多かったが、ネームカードが付いていて、サラダ用と今夜の温野菜、スープ用とたくさん収穫した。エベリンはキラキラとした笑顔で俺を見た。
「だんな様、楽しいです〜」
エベリンの笑顔は俺の心をとろとろにしてしまった。
早めの夕食を済ませた俺達は温泉に入りに屋上に行った。
俺がマニュアル通りに呪文を唱えると、小さかった滝は大きな温水の滝になって滝壺が出来上がり、露天風呂になっていった。周りの景色も鄙びた温泉宿の雰囲気に変わっている。
おお〜っ!と俺は思わず感嘆の声を出してしまった。エベリンも眼をまん丸にしている。
「だんな様、これは凄いですね!
ん?混浴…ですか?」
「うん、そうだよ。俺とエベリンだけだから、混浴の呪文を唱えた。男湯と女湯に分ける呪文もあったけど…別々の方がよかったかい?」
「一緒がいいです!2人で入りたい!だって、誰もいないんですもの!」
エベリンは喜んで俺に抱きついた。
2人でのんびり湯に浸かり、ちょっとイチャついて幸せな一時を過ごしていると、日が沈み昼と夜の境目がやってくる時間になった。
「エベリン、テラスに行こうか。この時間の夜景が一番綺麗だと思うんだ」
バスローブを羽織りテラスに行くとエベリンは息を呑んだ。
「うわぁぁぁ、だ、だんな様!素敵です。こんな綺麗な夜景、初めて…」
360度の夕焼け空に夜の帷が降りようとしていて、1番星がキラキラと輝いていた。しばらく俺はエベリンの肩を抱いて、煌めく夜景を眺めた。
辺りが真っ暗になった時、俺はエベリンの頬を両手で挟んで上を向かせた。
「初めてのデートの時、本当はこうしたかったんだ」
俺はエベリンの唇の右端に1回キスを落とした。左端に1回、真ん中に1回と続けてキスをして、エベリンの眼を真っ直ぐに見つめた。
「大好きだよ。エベリン」
若かった頃の様に、俺達は長い長い口付けをした。
そんなこんなですっかり湯冷めしてしまった俺達は、またゆっくりと温泉に浸かった後、部屋に戻った。
昼に見つけておいた赤ワインとおつまみでいい調子に酔って、2人でものすごくイチャイチャとしたが、寝る前にちゃんと寝衣だけは身につけた。
こう見えて、学習能力はあるのだよ。
鶏の鳴き声で目が覚めた。
「だんな様、おはようございます!鶏に起こされました」
「うん、目が覚めるね。おはよう!」
俺はエベリンに軽くキスをして起き上がった。いつもより体が軽いのは、きっと温泉の効果だろう。疲れを取り、元気が湧いてくる温泉なのだから…。
ふとエベリンを見た。
温泉の効果で若返りが元にもどっているのではないかと思ったのだが、昨日と全く変わらない、20代のエベリンのままだった。
朝食を食べようと寝室を出るとリビングには置いてきた荷物が届いていた。
俺達の荷物は本当に少ないんだよ。
2人で遠くのどこかに行ってひっそりと暮らすつもりだったからね。
エベリンの服に至っては、帰国前にこっそりと買いに行った物しかない。20代の女性らしい可愛い服や小物も、もっと欲しいだろうにとかわいそうに思っていたんだ。
昨日鶏小屋から取ってきた卵と新鮮な野菜のサラダとパンで朝食を終えて、2人で庭の四阿に座り珈琲を飲んでいると、ランドン宰相殿がふわっと姿を現した。
「やぁ!おはよう」
ランドン宰相は片手を挙げた。
「どうだね?カーディナルは?」
宰相殿はドヤ顔で俺達を見た。
「仕事はやってみないとわかりませんが、この国営旅館はとてもいいですね。こんな温泉があったなんて、本当に知らなかったですよ。
……あぁ、宰相殿、珈琲はいかがですか?」
「そうだな、もらってもいいかな?」
返事を聞くや否やエベリンは、いっぱい淹れて持ってまいりますね、と元気に走って行った。
その後姿を見て宰相殿はポツリと呟いた。
「若返ったことで、あの病は治ったのだろうか?」
俺は軽く首を振った。
「…わかりません」
「そうか……」
俺はやや俯き加減になり、左手薬指の指輪をくりくりと回した。
「元気そうだし、今はそれで十分です。ここなら私もずっとそばに居ることができますしね。退職して雲隠れするより良かったのかもしれません。
エベリンは昨日、とても楽しそうに過ごしていましたから…」
宰相殿は、うんうん…と頷いた。
しばらくしてエベリンが珈琲とブルーベリーマフィンを運んで来た。
「宰相様、今度いらっしゃった時にはエベリン特製のアップルパイを食べていただきたいです。今日は間に合いませんでしたので、ここにあったマフィンです。でも、美味しそうな香りがします。
だんな様も…はい、どうぞ!」
エベリンは屈託のない輝くような微笑みで俺を見ていた。
珈琲とマフィンで一息付いた所でランドン宰相殿が、仕事の話をしよう、と俺達を見た。
'人以外のモノ' が来る、って誰が来るんだというのが最大の疑問だ。
魔物とか、幽霊とか、モンスターとか…そういったモノ達が温泉に入りにくるというのか?
まさか…ねぇ。
そうランドン宰相殿に聞くと、返事は一言だった。
「その通り」
「えっ?」
大きく目を見開く俺。
怖がって俺にしがみつこうとするエベリン。
「そういった方々が疲れをとり、病気を治したり、英気を養うための温泉旅館なのだ。
大丈夫だよ。事務方がきちんと調べておる。変なお客様は来ない。ここのお陰で我が国はそういった方々との揉め事がないんだ。大事な場所なのだよ」
でも、どうやって来るのだ?
俺達はどうすればいいんだ?
…大体 '人以外のモノ' なんて会った事ないし、本当にいるのか?想像上の生き物だろ?
…ありえない。
頭の中は疑問で渦巻くが、やるしかない。
なぜなら、これはマシュー国王陛下の命令。俺達は逃げられないのだから。
俺にしがみついているエベリンの手を握って、俺は言った。
「俺がいるから大丈夫だ。
…大丈夫だと思う、たぶん…」
宰相殿は '人以外のモノ' なんてどうって事ない、という風情で話を続ける。
こういう職種なので、休みはなかなか取れないだろうと思っていたが、3ヶ月に1回、1週間のお休みがもらえると職務規定に書いてあってびっくりした。
週5日の勤務、給料も良し、健康保険、社会保険も良し。文句はない。ここから街に出たい時は、呪文を唱えると3カ所あるポートに出る事が可能と書いてあった。
宰相殿はちょっと考えて言った。
「エベリンと出かける時には少し姿を変えた方がいいかな?知った者に会うとめんどくさいだろう?
ウィリアムは魔力を持ってないから、私が手伝おう。連絡をくれればいつでも大丈夫だ」
エベリンがものすごく嬉しそうな顔をして俺を見た。俺も、うんうんと頷いて、エベリンの手を握った。
「よかったな。買い物に行けるぞ」
宰相殿は話はこれで終わり…と言う風情で俺たちを見た。
「他に質問がなければ、5日後からお客様の受け入れを開始しようか?最初の内は穏やかな常連さんに来ていただこう。
3日前には、白板にスケジュールとお客様の情報が出てくる。すまんが食事は作ってもらいたい。食事はタイムリーに提供してほしいからね。材料とレシピはお客様の情報と共に白板に出てくるから、心配はいらないさ」
そうだ…と宰相殿が一段と大きな声を出した。
「今日これから街に出かけるかい?そうなら、一緒に街まで移動しよう。ポートの説明も出来るしね」
エベリンは顔を輝かせた。
「宰相様、ありがとうございます!
だんな様、行ってもいいですか?」
「もちろんだよ。行こう!」
ということで、蜂蜜色の髪を黒髪に変えてもらい伊達メガネをかけたエベリンと、金髪で髭面になった俺は街に出て買い物を楽しんだ。
いいのでしょうかと躊躇いながら、エベリンは洋服や小物、靴などをたくさん買った。俺がこれも買え、あれも買えと言ってかなりの量になってしまったが、嬉しそうなエベリンを見ていると俺の胸は暖かいもので溢れてしまった。
くたびれて入った店で食べたアイスクリームも美味しかった。
習った通りにポートから呪文を唱えカーディナルに戻ると、エベリンはファッションショーだと言って買ってきた服などを着て俺に見せてくれた。
実に可愛い。
カーディナル、2日目の夜は '人以外のモノ' の衝撃を孕みつつ、静かに更けた。
***** *****
初めてのお客様の情報が白板に現れた。
お客様は常連様で山深くにお住まいの '仙人' リリ様。
温泉は屋上で、食事は本人がご希望ならお粥を提供する様に、と書いてあった。
「仙人様って、どんな方でしょう…」
「俺も会った事ないからねぇ。わからんなぁ…。
まあ、常連のお客様だから新人の管理人にも寛大であることを祈ろうか?」
当日、リリ様はカーディナルのドアベルをキンコンカンと鳴らして現れた。
杖を付いて、白髭で…と思っていた通りの出立だった。
「カーディナルへようこそ!」
エベリンと2人、並んで初めてのお客様を迎えた。リリ様は、おやっ?という顔をされたがすぐに笑顔になった。
「新しい管理人のお二人だね。よろしく頼むよ」
リリ様は手ぶらで、ちょいと遊びにきましたよ、という感じでニコッと笑った。
「もう、何回もここに来ているからね。あまり気を使わんで構わんよ」
リリ様はそう言って部屋の鍵を受け取り、スタスタと部屋に入って行った。
温泉もいつ入られたのか物音ひとつしなかった。
そんなリリ様から、俺に来て欲しいと連絡が来たのは外が暗くなった頃だった。
部屋をノックすると、入られよ、とリリ様の声がした。
リリ様は座禅を組み宙に浮いていたが、ゆっくりと降りて立ち上がった。そして、にっこりとして俺を見た。
「呼び立ててしまい申し訳ない。ご主人と少し話がしたくてな」
リリ様はリビングのテーブルを指差した。そこには大きい徳利とぐい呑みが2つ置いてあった。
「いつもはこんな事ないのに、今宵は誰かと酒が飲みたくなって…」
「…リリ様、これを持ってこられたのですか?荷物は何も持っておられませんでしたが…?」
ふふ、とリリ様は笑った。
「わしは仙人と呼ばれている爺よ。これぐらいの事は出来る。この爺に少し付き合ってくれるかな?」
はい、と答えるとリリ様が座り、俺も向かい合わせに座った。
リリ様は、とくとくとくと酒を注ぎ、にぃ〜っと笑って俺を見た。俺も好きです、酒!というオーラを全開にした。
リリ様は山深くでの暮らしについて話してくださった。
霞しかたべない、というのは作り話で、山にある木の実や草の実を食べ、米、野菜も栽培しているのだという。酒も自分で造るらしく、一緒に飲んだ酒は味わい深かった。
失礼ながらとお年を聞くと、千歳ぐらいまでは数えておったが…正確な年はわからなくなってしまったよ、と笑っていた。
徳利の酒は飲んでも飲んでも減らなかった。
リリ様も俺も結構酔っ払った頃、ところで…とリリ様は俺の顔を見た。
「ご主人、其方の嫁御は…本当は見た目よりもう少し歳を重ねているのであろう?」
はい、その通りです、と俺は正直に答えた。
酒のせいなのか、相手がリリ様だからなのか…。俺はとても素直になっていた。
「妻は私と同じ年の60才です。2ヶ月程前、長く長く病に苦しんでいた妻が突然若返り、あの様に明るく元気になりました。今までの記憶はあるのですが、辛かった出来事は忘れています」
そう言うと俺はクビっとぐい呑みを空けた。リリ様がとくとくと酒を注いでくださった。
「ですが…今はそれでもいいのかなと私は思っているのです。妻が元気ならばそれで十分です。
それに、若い妻と一緒にいると私まで若返っていく様です。私も毎日が楽しいですし…」
俺はぐい呑みの酒をまた一気に飲み、リリ様が酒を注いだ。リリ様も一気に飲み、手酌で注いでまた一気に飲んだ。
2人揃って底なし…。
「若返る前の妻は自分の殻にこもっていました。感情を外に出す事が出来なくなってしまったのです。
若返ってからの妻は感情を外に出せる様になってきました。嬉しい、楽しいと自分の口で言えるようになったのです。
辛く悲しかった事もその内思い出すのだと思いますが…。その時にはその気持ちも私に話して欲しい。
私は妻をしっかりと支えたい。
妻に寄り添える自分で在りたい。
以前はそれがうまく出来ませんでした。だから妻は自分の殻に閉じこもってしまったのだと思っています」
リリ様は俺をじっと見ていた。
「なにがあったのかは聞かんよ。…ただ、嫁御の心の闇は深そうだな。大変な事も多かろうが、これからも、嫁御を大事にしてあげなされ。わしに出来ることが有ればいいのだがな」
「そのお言葉だけで、私には十分です」
リリ様は頬をポリポリッと人差し指で掻いた。
「すまんな。年寄りは色んな事に首を突っ込んでしまう。気分を害したら申し訳なかった」
「いえ、そんな事はございません。
今まで仕事上必要で、私の上司にしか妻の若返りの事を話していませんでしたが、リリ様に聞いていただいて心が軽くなりました。
辛い事、悩んでいる事を誰かに話す事で少し楽になる、というのは本当なのですね」
俺は目を瞬いた。
泣いてるのかな、俺は…。
リリ様は、うんうんと頷いた。
それからしばらく俺とリリ様はぐい呑みを傾け続けた。
言葉はなかった。でも、長く生きてこられた仙人様が俺の側にいて俺に心を配ってくださるということがとても嬉しかった。
「わしの酒でよかったら、…また2人で飲もう。
…そろそろお開きにしようか。あまり遅くなると嫁御が心配するであろうからな」
リリ様はそう言って俺の肩をポンポンとした。俺はものすごく素直な気持ちになって、リリ様に頭を下げた。
「リリ様、今日は私の事を聞いていただけてよかったです。ありがとうございました。また私の話を聞いていただきたいです。リリ様のお酒も美味しいですし…」
「今度は別の酒も持ってこよう。まだまだいろんな酒を作っておるのだよ。楽しみにしてくだされよ」
部屋に戻ると、エベリンはすやすやと眠りについていた。エベリンの頬にかかる髪を手で払い、頬にキスをして囁いた。
「ゆっくりおやすみ。エベリン」
翌朝、リリ様はお粥を所望された。エベリンは雪平でお粥を作り、リリ様の所へと運んでいった。
しばらくして戻ってきたエベリンは嬉しそうな顔をしていた。
「リリ様がね、いつか山に遊びにおいでって言ってくださったの。美味しい木の実があるのですって。ありがとうございます。是非ってお返事しちゃった」
俺はエベリンの頭を撫でた。
「よかったな。俺も遊びに行きたい。一緒にお邪魔しような」
初めてのお客様 '仙人 リリ様' は来た時と同じ様に、静かに帰って行った。
また、来させていただくよ、と微笑んで。
心がほんの少し軽くなっていた俺は、リリ様に感謝の気持ちでいっぱいになった。
「ありがとうございました。
またのお越しをお待ちしております!」
***** *****
2人目のお客様の情報が白板に現れた。
ラウール様とおっしゃる常連のお客様で、屋上ではなく庭の温泉をご希望されている…との事。
お食事のリクエストはいたってシンプルであった。ラタトゥイユとパンドカンパーニュ、カマンベールチーズ。朝食もパンとコーヒーのみで良いという事だった。
ラウール様がいらっしゃる前に、希望された庭の温泉をエベリンと2人で試した時は驚いてしまった。
呪文を唱えると、遠くに噴煙を吐く大きな火山がゴゴゴ〜っという地鳴りと共に出現し、庭のあちこちに溶岩に囲まれた温泉が現れたのだ。
一つ一つの温泉は個性あふれるものだった。
寝転がれる温泉、少し温度の低い温泉、滝に打たれてマッサージできる温泉、硫黄泉、塩泉、花の香りに包まれた温泉…。
エベリンは大はしゃぎで全部の温泉に入ってのぼせてしまい、しばらく起き上がれなくなっていた。
ラウール様はキンコンカンとドアベルを鳴らし、すっとエントランスに現れた。まるで人間の様なお方であった。
「カーディナルへようこそ!」
エベリンと2人で並んでお迎えすると、ラウール様はちろりとエベリンを見たあと、私達2人に向かって軽くお辞儀をした。
「よろしくお願いする」
お名前や身のこなし、漂う雰囲気からあのお方であろうと俺には想像がついた。変装をしていらっしゃるので、俺の知っている出立ではなかったけれど…。
有名なお方である。
しかし、当然、その事には触れずに部屋へとご案内した。
ラウール様が俺の思っている通りの方ならば、アルコールはお飲みにならない。お飲みになるのは、多分、水であろう。
そう考えて、庭の温泉を楽しんでいただくために少し工夫をしてみたんだ。まあ、違うお方だったとしてもこの工夫をお怒りにはならない…と考えて。
大した事じゃないけれど、シャンパンクーラーに氷を入れ、その中に瓶に入れた水を冷やしておいたんだ。
それとワイングラスをセットにして庭のあちこちに置き "カーディナルに湧き出る冷泉の水でございます。お好きなだけお召し上がりください" とメッセージを添えておいた。
エベリンの様にのぼせる事はないだろうけど、念のため…。
ラタトゥイユはエベリンの得意料理の一つででよく作っていたメニュー。パンドカンパーニュは出来立てのほかほかで湯気をたて、パリッとした外側が美味しそうだった。
エベリンはカマンベールにはクラッカーと庭のマスカット、蜂蜜をほんの少し添えて準備していた。
ラウール様が俺に食事を運んで欲しいとリクエストされたので料理をワゴンに乗せて運び、部屋のドアをコンコンコンとノックした。
どうぞ、と一言お返事があり、俺はゆっくりとドアを開けた。
部屋の中にいたのはあの有名な出立ちをしたラウール様だった。
「お主、私が誰か分かったのか?」
部屋に入るや否や、ラウール様はおれを睨んで仰った。
「はい」
「どうしてわかったのだ?」
「身のこなし、雰囲気…からでございましょうか」
「私は変装の名人と言われている。バレたことはあまり無いのだがな」
「ご安心ください。
ヤムル国の温泉旅館カーディナルはお客様の秘密を外に漏らす事はございません。今までも、そしてこれから先も。
お客様に安心して温泉を楽しんでいただく、それがカーディナルの使命でございます。
どうぞ、ゆっくりとお寛ぎくださいませ。ラウール様」
俺は右手を左胸に当てて、お辞儀をした。
ラウール様は帽子とステッキを横に置くと優雅な身のこなしでテーブルに座った。
「大抵の奴は私がアルコールを嗜む、と思っている。普通なら温泉には冷えたシャンパンを用意する所を、お主は私のために水を用意した…。
お主の返答次第では、このまま消えようかと思ったのだが…。その必要はなさそうだな。
おっ?カマンベールに葡萄と蜂蜜…。美味そうだ」
ラウール様は一口召し上がり、俺を見た。
「あの女性は、お主の娘か?」
「いえ。妻でございます」
ほんの少しラウール様が驚いた表情を見せた。
「ほう…。普通の女は私を見ると反応があるのだが、お前の妻は全くの無反応だった…。
お主に惚れておる証拠だよ。羨ましい事だ」
「…恐縮でございます」
ラウール様はゆっくりと食事を楽しみ、そばに控える俺に色々と話しかけてくださった。
ラウール様の冒険談は尽きる事なく、楽しい時間はゆるゆると過ぎていった。
翌日、ラウール様はお帰りになった。
お見送りをするために俺とエベリンがエントランスでお待ちしていると、燕尾服にシルクハット、モノクルを付け、片手にステッキという出立で現れたラウール様はにこりと微笑んだ。
「最高のもてなしであった。料理も美味でしたぞ、奥方。また、参る。今度は最初から変装せずに来よう」
「はい、またお越しくださいませ。お待ちいたしております」
俺は右手を左胸に当てゆっくりとお辞儀をしながら心の中で呟いた。
また、お越しくださいませ。
でも、私の妻の心は盗めませんよ。ラウール…またの名をルパン様!
そんな事を思いながら、俺は自分自身にちょっと驚いてもいたんだ。
普通にルパン様の事を受け入れて、会話をしているなんて…。
俺は外交一筋で生きてきた男なんだよ。
事実のみを分析して現実に立ち向かい、皆が幸せに暮らしていけるようにと考えていくのが仕事だったんだ。
なのに…!
人ではない…物語の中で生きているお方、現実には存在しないお方と交流しているなんて!
そして、その相手がここでのもてなしを喜んでくださるなんて!
普通に考えるとあり得ない事だよ。
でもね、人ではない方も心を通わせて信頼し合えれば鎧を脱いで素の自分を出してくださる…改めてその事を教えられた気がしたんだ。
ランドン宰相がこの温泉旅館 'カーディナル' は外交上とても大切な場所なんだと仰っていた理由が少しわかった気がする。
ここは心の鎧を取り外す、そんな温泉宿だったんだ。
それからもいろいろなお客様がいらっしゃって、お料理のリクエストも多岐に渡った。
エベリンは料理のリクエストに応えるための研究に余念がなかった。
味見係は当然俺なのだが、何を食べても本当に美味しかった。
「だんな様、どうでしょう…?」
「大丈夫、カーディナルの親父好みの味、と言ってお出しすればお客様に喜んでいただけるよ。俺がそう言ってるんだから、自信を持て。エベリン」
俺がそう言うと、エベリンは嬉しそうに笑うのだった。
***** *****
そんな頃にいらっしゃったのは、マリー様だった。
マリー様は初めていらっしゃるお客様で、温泉も初体験、お料理もお任せしたいとの事、と白板に書いてあった。
エベリンと2人でどんな方なのかとワクワクしながらお待ちしていると…。
キンコンカンとカーディナルのドアベルを鳴らして現れたお方を見て、さすがに俺も驚いた。
このようなお方もここにおいでになるのか…!
狼狽えている事をマリー様に悟られないようにお迎えをした。
「カーディナルへようこそ!」
そのお方は深々とお辞儀をする俺達に微笑みを浮かべて挨拶された。
「マリーです。よろしくね」
可愛さの溢れる女性だけど、思わずひれ伏したくなる威厳を身に纏っておられた。
「知ってると思うけど、今は魂だけになっちゃってるの。でも、有名なカーディナルには魂になっていても来れるって聞いたから、様子を見に来たのよ」
畏れ多い事でございます、とエベリンと二人で思わず畏まってしまった。
マリー様、よく知られている名前はマリー アントワネット様。
そんなお方が目の前にいらっしゃるんだから、ちょっとビビったのは致し方ない…と思うんだ。
「私は魂で、もう身分なんて関係ないの」
つつつ…と俺達に近づいてマリー様は仰った。
「それより、ここを案内してくださる?すごく楽しみにしてきたの。だって、昔いた所ではあまり自由に動けなかったんですもの」
…という事だったので、案内はエベリンに任せることにした。きっとその方がマリー様も喜んでくださる気がしたから。
確か、マリー様は宮殿に農村を作って庭いじりをなさっていたはず。カーディナルの庭も喜んでくださるに違いない…。そう思い、エベリンには、まず庭を見ていただくといいと話した。
籠を抱えたエベリンとマリー様は庭中を小走りで巡っていた。
マリー様は畑の野菜を引っこ抜いて泥だらけになって大笑いし、エベリンが今だに怖がる鶏小屋で果敢に卵を入手し、果樹によじ登って果実を獲っていた。
ニコニコとしながら庭を回り、二人であれこれと話す姿はもう何十年もの親友のように見えた。
その後、二人は温泉へと向かって行った。
屋上の温泉に入っているはずなのに、あまりに静かなので様子を見ると、入浴着を着た2人は並んで昼寝をしていた。
ほんわかとした2人の姿に思わずくすりと笑ってしまった。
おやつの時間には、エベリン特製のアップルパイと紅茶をお出しした。
「アップルパイ?食べた事なかったわ。とても美味しい。
えっ?エベリンが自分で焼いたの?ステキ!
こんなことができるなんて、ちょっと羨ましいな」
マリー様は興味津々で、アップルパイの作り方を熱心に聞いていた。
その後、マリー様とエベリンは庭の温泉にも入って歓声を挙げていた。
硫黄の香りに驚いて逃げ出そうとするマリー様の腕を掴んだエベリンが、お待ちください!と引き留めていた。
「マリー様、これは美肌効果が高い温泉なのです!試さない手はございません」
半信半疑のマリー様だったが、しばらくするとご機嫌でエベリンに聞いていた。
「ねぇ、このお湯、持って帰れないかしら…?
あっ…でも私は魂だけだから、無理よね。きっと。残念だわ…」
その声が聞こえて、魂だけになった今だからマリー様には何もかも忘れてのんびりしていただきたいと俺は心の底からそう願った。
温泉から上がったマリー様は俺にリクエストがあるの、とおっしゃった。
「お一人様ディナーは寂しいわ。エベリンと一緒に戴きたいのだけど…いいかしら?」
「もちろんでございます。
夕食は庭の四阿で召し上がっていただこうと考えておりますので、マリー様とエベリンの2人分をご用意させていただきます。
きっとエベリンも喜びます!」
と、いう事で俺が2人にサーブする事になった。
俺はまた、あれこれと考えを巡らせた。
シャンパンやワインよりも、好奇心旺盛なマリー様ならば、絶対飲んだ事がないであろうアレをお出しすれば喜ばれるに違いない。
そう考えてお出ししたのは、キンキンに冷えたビールだった。
「珍しいわね。ずいぶんと黄色いシャンパンだこと。それにこんなに泡立って…」
「マリー様、このお酒はこの泡ごとグビッといくのが美味しいのです!
では、まず…アレッ(乾杯)!」
2人はグラスを掲げた。
マリー様の最初の一口は恐る恐る…と言う感じだった。でも、エベリンがビールを飲む様子を見て目を見張り、そして大きく頷いた。
「わ、私もエベリンのようにやってみますわ!」
そして、マリー様はごくごくごくとビールを飲み、ぷはぁ〜となさった。
そんなマリー様は本当に可愛らしかった。
ビールを気に召したご様子のマリー様は、何杯もグビグビと飲んで俺を慌てさせた。
エベリンが考えて用意した夕食はBBQ。
前菜の代わりに取ってきた野菜を切って出し、肉と魚は俺が目の前に置いたBBQグリルで焼いて熱々をお出しした。つけて食べるソースはエベリンが考えたもので、エベリンはマリー様に笑ってこう言った。
「カーディナル特製、夫のウイリアム好みのソースでございます」
「まぁぁ!ステキ!
だんな様好みのソース、いただくわね」
一口食べたマリー様はにっこりとした。
「愛よ!愛を感じるわ!
美味しい。すごく美味しい」
と喜んでくださった。
エベリンがニコッと俺を見たので、俺も 'なぁ、そうだっただろう' という顔でエベリンを見た。
食後には採ったばかりの果実をスライスし、アイスクリームを添えた物を用意した。
「もうお腹が一杯だわ。入らない!でも、この誘惑には勝てないわねぇ」
2人はペロリとデザートも平らげた。
食後は二人でゆっくりとしてもらう事にして、食後酒のマールをご用意した。何を話しているのか、2人は小さなグラスを傾けながら真剣な表情で話し合っていた。
夜が更けても話は尽きなかったようで、エベリンが戻ってきたのは真夜中を過ぎた頃だった。
「だんな様、遅くなってしまいました。夕食の後片付けもお願いしてしまい、ごめんなさい。でも、マリー様と楽しい時間がすごせましたし、マリー様も喜んでくださいました」
俺はベッドに入ってきたエベリンを抱きしめた。
「良かったな。今夜はもうお休み。明日の朝はパンケーキを焼くのだろう?」
「はい。一緒に作りましょうとお約束いたしました。お料理はあまりしたことがないそうで、楽しみにしていらっしゃいます。だんな様は私達のゲストですよ。楽しみにしていてくださいね。
では、おやすみなさい、だんな様」
他にも何かあったのか、エベリンは俺にしがみつくようにして眠りについた。
翌朝、エベリンの言葉通りに、俺はダイニングに座ってパンケーキが運ばれてくるのを待った。
甘い香りが漂い、マリー様がパンケーキとメイプルシロップをワゴンで運んで来た。後ろからエベリンがヨーグルトと果物、紅茶をワゴンに乗せて運んで来た。
「お待たせいたしました」
マリー様が芝居っけたっぷりにそう言ってパンケーキを配ると、エベリンもささっとワゴンの上のものを配る。なかなか息が合っている。
「それではウィリアム様、お召し上がりください。」
と言ったところでマリー様が笑い出した。
「初めてパンケーキっていうものを作ったの。普通はまん丸なのでしょう?私のはまん丸ではないけど、美味しいと思うのよ。だって、私が作ったんですもの!なんだか、とっても楽しいわ。さぁ、いただきましょう!」
確かに形は歪だったが、ふんわりと優しい味のパンケーキだった。
それから暫くしてマリー様は帰って行った。
「またおじゃまするわね」
そういうマリー様にエベリンから小さな袋に入れたお土産をお渡しした。
「まあ、なぁに?」
「この温泉の湯の花、お肌に良いものでございます。匂い袋がわりに持っていてもよろしいかと…。
あっ。硫黄の温泉ではなくて、お花の温泉の方の湯の花です。硫黄の方は…匂いがちょっと…なので」
マリー様はクスッと笑った。
「ありがとう。とても嬉しいわ。大事に持ってるわね」
そして俺達に軽く頭を下げた。
「今度はルイと一緒に来るわ。ルイも今は魂になっているから自由なの。二人で畑に行ったら、きっと楽しいと思うのよね。
私達2人もウィリアムさんとエベリンの様に、とても仲が良かったのよ。
…でも周りがね。…もう、遥か昔のことですけどね。
では、お世話になりました。ごきげんよう」
マリー様は消えていった。
マリー様が帰った後、エベリンが悲しそうな顔をして俺を見上げた。
「昨日の夜ね、マリー様は私に、だんな様を大事にするのよ、っておっしゃったの。死んじゃったら、愛していても本当のキスも出来ないの、それって寂しくて悲しいのよ、って」
エベリンは俺にしがみついた。
「あとね、お子様の事がすごく心配だった、っておっしゃって…。今は皆、魂になって苦しむことは無いけどねって。
その時、私もとても悲しくなってしまって、涙が止まらなくて…。
マリー様が、私のために泣いてくれてありがとう、って抱きしめてくださったの。
本当に悲しかった」
俺は何も言えず、ただエベリンを抱きしめた。エベリンは涙をポロポロと流して俺を見た。
「だんな様、しばらくこのままでいてください。
なんだか辛くて、悲しくて、寂しくて涙が出てくるから…」
マリー様が帰った後、エベリンはずっと悲しい顔をしていて、俺にベッタリと甘えてなかなか離れなくなってしまったんだ。
丁度1週間の休暇を取る事になっていて、どこかに行こうかと考えていたけれど、俺はエベリンの様子を見てカーディナルでのんびり過ごすことに決めたんだ。
エベリンもここにいたいって言ったしね。
「エベリンは何もしないでいいよ。俺が料理をも片付けもするからさ。俺の側で見ていて…」
俺がそう言うとエベリンは眼をクリクリとして笑い、俺に抱きついた。
「えぇ〜っ?見てるだけ?」
「うん、そう。見てるだけ…」
エベリンの指導で俺が作った食事を食べ、屋上の箱型ブランコに乗ってゆらゆらしたり、庭の温泉でくつろいだり…。そうやってのんびりとした時間を2人で過ごした。
それからピクニック気分で湖まで行ったりもしたんだ。
その湖は呪文を唱えると3つ目の温泉になる湖で…いやいや、なかなかにすごかった。
エベリンは湖が温泉になる様子を見て絶句していた。
「だ、だんな様…この温泉を希望されるお客様って、どんな方なのでしょうか?私、想像がつきません」
「そうだなぁ…。例えばドラゴンの親子とかさ…」
「えぇ〜?ドラゴンですか?お会いしてみたいですね」
冗談でそう言ったのだが、後にそれは本当の事になり、腰が抜けるほど驚いた。
でもまあ、それはもう少し先の話。
2人でくつろいで過ごしたおかげで、エベリンは徐々に元気を取り戻していった。
そんなこんなで…
気がつくと、カーディナルに来て数ヶ月が経っていた。
ある日、ランドン宰相殿がやって来て、カーディナルの評判がすこぶる良くて、希望者が殺到しておるぞ、と笑顔で、と言うかドヤ顔で言った。
エベリンは新作のモンブランを出して、宰相殿に味見をしてもらっていた。
「宰相様、いかがでしょう?お客様にお出ししても大丈夫でしょうか?
庭に栗の木があって、だんな様が実を取ってくれたのです。ね、だんな様」
一口、二口と食べた宰相殿はニッコニコだった。
「エベリン、これは美味いぞ!自信を持ってお出ししろ。困ったなぁ、また希望者が増える」
ランドン宰相殿は、嬉しそうにそう言い残して帰って行った。
***** *****
団体のお客様がいらっしゃることになった。
有名なアニメのヒーロー、パワフルレンジャーズ様5人とその関係者の慰労会。公にはなっていないがレッド様は既婚者らしい。
カーディナルのマニュアルによると庭にコテージを出す事も出来るので、試しに呪文を唱えてコテージを出してみた。
これもなかなかに豪華で10棟まで出せる。これなら建物の中の部屋でもコテージでも、パワフルレンジャー様達にも満足していただけそうだ、と安心した。
当日、パワフルレンジャーズ様達はキンコンカンとドアベルを鳴らした後、なかなか入っていらっしゃらなかった。
一体どうしたのかと思ってドアを開けると、関係者の皆様の大拍手の中、5人でキメ台詞でキメのポーズをして下さった。
「すみませんねぇ。これをしないと、落ち着かないのです。長年の習慣で…。」
リーダーのレッド様がニコッと笑った。
5人はそれぞれのイメージカラーのマフラーをして、それぞれの必須アイテムを持ち本当にかっこいい。
そんな皆様に俺達はいつも通りのご挨拶をした。
「カーディナルへようこそ!」
挨拶をした後、エベリンは、本で見た通りですねぇ、と感激していた。
「さて、皆様。
当カーディナルでは旅館の中のお部屋と外のコテージをご利用頂けますが、どちらがよろしいですか?
どちらでもお好きな方をお選びくださいませ」
そうお尋ねすると、パワフルレンジャー様達は全員、庭のコテージが良いと仰り、ご同伴のご両親様一組は中のお部屋を希望された。
ブルー様のお母様と思しきお方が小さな声で俺とエベリンに囁いたのだ
「だってね、この人達、ザルのようにお酒を呑んで騒ぐの。うるさいのよお〜。
だからね、私と夫は離れて寝たいの…。せっかくのカーディナルなんですもの。のんびりしたいわ」
「それはそれは…。きっと毎回大変な思いをされたのでしょうね。今夜はゆっくりと休めますようにお手伝い致します」
俺がそう言うと、ブルー様のお母様はパチンと片目でウインクをした。
御一行は総勢17人。それぞれ両親、兄妹、恋人と一緒だった。
それぞれのお部屋に入る様子を見ていると、レッド様と一緒にいらっしゃったのは奥方様のようだった。はややふっくらとしたお腹でゆっくりと歩いていらっしゃる様子から察すると、妊娠6ヶ月ぐらいだろうか。悪阻も治まった頃だろう、のんびりと温泉を楽しんでいただきたいとあれこれ考えた。
まずはレッド夫人のために、カーディナル全体に呪文で滑り止めを強化した。
温泉は混浴にして、その時に着る様にと入浴着を準備した。これで、皆様ご一緒に楽しめる。
食事は特に希望はない、という事だったので、バイキングに決めていた。
悪と戦う皆様はきっとたくさん召し上がるに違いない。それに、妊娠中のレッド夫人もその方が遠慮なく食べることができるだろうから、バイキング形式にして本当によかった。
エベリンは大忙しで料理を作った。作り置きできる料理をたくさん用意し、宰相殿に願って呪文で出せる様にしておいたのだが、正解だった。
エベリンは50種類の料理、10種類のデザートを作り上げた。飲み物はアルコール、ノンアルコール合わせて30種類。並べてみると壮観だった。
途中からブルー母の仰っていた通り、皆様かなり酒を呑んで大騒ぎとなっていたが、野中の一軒宿である。誰に迷惑をかけると言うこともなし…。
皆さまは心から楽しんでくださっている様子に俺もエベリンもホッとした。
特に新作のモンブランは女性陣に好評で、レッド夫人がエベリンに申し訳なさそうに聞いていた。
「モンブランがとても美味しかったの。それでね…明日、お土産に持って帰りたいんですけど…。お願いできるでしょうか?」
「もちろんでごさいます」
エベリンは満面の笑みでそう答えていた。
「今からお作りいたします。何個お作りしましょうか?」
「30個…。お世話になっている方々にお配りしたいの。だって、とても美味しいんですもの。私も手伝うわ。だから、お願い!30個!」
話を聞いていたブルー母もノリノリになった。
「まあ、私も手伝うわ。だから私も10個持って帰りたい」
3人は早速キッチンに籠って、40個を作り始めた。
様子を見ているとキッチンから声が漏れ聞こえてきた。
「あっ!しまった!
大変なことになりました!」
と、エベリン。
「本当だわ。どうしましょう…」
と、レッド夫人。お手伝いのブルー母も大慌てな様子。
キッチンを覗くと3人は大慌てで何かを隠していた。
どうやら3人で味見と称してマロンクリームを半分程食べてしまったようだった。
「やだぁ〜。だんな様!
覗かないで下さいね。今、大事な所なんですから!」
エベリンが笑って誤魔化す仕草が微笑ましかった。
3人は慌てて追加をつくっていたが、いつまでもくすくすと笑う声が聞こえてきていた。
その夜も更けた頃、レッド様が赤ワインのボトルを手にお一人で俺たちの所にやって来られた。
「妻が眠っているので、ご迷惑でなければ少し話に付き合ってほしいのですけど…」
あんなに呑んだのにレッド様は顔色も普通で酔った様子など全くなかった。世の中にはこんなザル…(失礼しました) 酒豪がいるのだなとびっくりだ。
椅子を進めるとレッド様は悩ましげな声で話し始めた。
「実はね、初めての子がもう直ぐ生まれるのですよ。だからなのか、なんだか落ち着かないんです。
大体、結婚してる事も公になっていないですしね。グリーンは小さい頃からの許嫁がいるってことになってるんで、今回も一緒に来てるんですけどね。
でも、俺の結婚は…秘密です。
俺は物語の中に既婚で子持ちがいてもいいと思うんです。でも、なかなか受け入れてもらえない。
ヒーローって思い通りに動けません…」
レッド様の話は尽きない。
「出産も不安ですよ。だって物語の中に絶対そんなシーンは出せないでしょう?隠さなくちゃいけないんです。俺は妻の出産に狼狽える隊長レッド…っていいと思うんです。でもねぇ…」
レッド様は俯き、俺はふむふむと頷く。
「確かに、読者あってのパワフルレンジャーズ…ですものね」
そうなんです!とレッド様はワインをまるでビールの様にグビッと飲んだ。
「それに子育ても妻に任せきりになりそうで、今から心が痛いのです。俺は妻を愛しているのに…」
これからの子育ての不安をあれこれと話すレッド様は、心から夫人を愛している様子。
ワインもどんどん減っていく。
そんなに飲んで、大丈夫か?いやいや、レッド様は底なしだから…
などと思っていると、隣に座るエベリンが青ざめて震えていることに気がついた。
し、しまった!
エベリンは忘れているはずだけど、辛い話だった…。
「レッド様、すみません…。
妻が酔っ払ってしまったみたいです。寝かさないと…」
「おお、本当だ。無理に押しかけて長話をしてしまい申し訳なかったです。
エベリンさん。ゆっくり休んでください」
レッド様はコテージへしっかりとした足取りで帰っていかれた。
エベリンを抱きかかえてベッドに横たえ顔を見ると、エベリンは泣いていた。
「だんな様、私、どうしたのでしょう…。お話を聞いているうちに胸が苦しくなって涙も出てきました。
私、どうしてしまったのでしょう。なんだか辛いです」
俺はエベリンの頭を撫でて、額にキスをした。
「大丈夫だよ。俺がそばにいる。心配はないさ。今日は頑張りすぎたんだよ。今夜はこのままお休み」
エベリンは頷くと俺の胸に顔を埋めて泣いていたが、その内に静かな寝息を立てて眠ってしまった。
俺は心の中でエベリンに語りかけた。
エベリン、思い出しかけているんだね。
でも、大丈夫。辛くても大丈夫だよ。
俺がずっと側にいるんだから。
今度こそきちんと受け止めるから。
翌朝、元気を取り戻したエベリンはレッド様に謝っていたが、レッド様はこめかみを抑えながら仰った。
「俺も酔っ払っていたんです。失礼な事は言わなかっただろうか…。申し訳なかったです。
今は二日酔いで、頭が痛い…」
ん?あれで酔っ払ってたのか…。
などと思った事は黙っていよう。
パワフルレンジャーズの皆様は、ほぼ全員二日酔いで帰られた。
レッド夫人とブルー母はモンブランの入った箱を大事そうに抱えて、終始微笑んでおられた。
レッド夫人はにこにこと上機嫌だった。
「子が産まれて落ち着いたら、酔っ払い達とは別にゆっくり来たいです。女子会…ね。きっとブルーのお母様も一緒にいらっしゃると思うわ。モンブラン以外のお菓子も作ってみたいの。その時はまた、教えてくださいね。
あっ!グリーンの婚約者が一緒に作りたかった…って言ってましたから女子会に来るわね。
楽しかったです。
ありがとうございました」
嵐のようなパワフルレンジャーズさま御一行は、例の決めポーズをしながら消えていき、後にはほんの少し砂埃が舞っていた。
***** *****
暫くするとまた団体様の予約が入った。
今度は小さな妖精たち。
背中の羽であちこち飛び回るらしい。
リクエストは、とにかく楽しく遊びたい!という事だった。
俺はランドン宰相殿に相談して、庭の温泉の周りをジャングルにしてもらい、昆虫や鳥がやって来て妖精達が困った事にならない様に結界を張った。
そしてあちこちに小さな遊具を配置し、カフェ仕立ての小さな休憩所も作った。
そしてエベリンがとても楽しいアイディアを出してくれたんだ。
みんなで色々な変装をして楽しめる様に、色々なコスチュームやら小物を大量に揃えたらどうか、というのだ。サイズは色々なので、呪文でジャストフィットすることが重要だとエベリンが力説した。
ランドン宰相殿も俺もそのアイデアに乗った。好きなものに何度でも着替えて、何にでも成り切って遊ぶ…。
考えただけでも楽しい滞在になりそうだった。
妖精の皆様は食事はなんでも食べるという事なので、全てを小さく小さくしてお出しすることにして、お部屋は男部屋と女部屋の2つをご用意した。
小さな入浴着とバスローブの準備も万全だ。
そうして、準備万端整えてお迎えしたのは、総勢50人の妖精達。
ピンピンピンと羽音を立てて、嬉しそうに飛び回りながらいらっしゃった。
「カーディナルへようこそ!」
ご挨拶をすると、リーダーで一番年長のキャッシー様が全員を並ばせて1人1人に挨拶をさせた。
高めの可愛い声で名前を言ってクルクル回ったり、歌を唄ったり、カーテシーをしたり、踊ったり、胸に手を当ててお辞儀したりと楽しい事この上ない。
途中でエベリンが、あっ!と小さな声で言った様な気がしたが、すぐに何もなかった顔で妖精達の挨拶を見ていた。
その後、妖精の皆様にいろいろな事を説明して、洋服のサイズを合わせる呪文も伝授して解散となった。
わぁ〜いと言いながら皆、勢いよくあちこちに飛んで行き、あっという間に見えなくなってしまった。
俺はエベリンが少し気になったんだけど、エベリンは鼻歌を歌いながらキッチンへ行ってしまった。
さあ、俺も仕事をしようとOfficeに戻りかけたけれど、なぜかその場にキャッシー様と男の子の妖精が残っていて、キャッシー様は俺に何かを言いたそうにしていた。
キャッシー様はピンピピン、ピピピンと羽音を不規則に立てていて、緊張している様に思えた。
「どうされましたか?」
と、聞くとキャッシー様がググッと俺に近づいて来た。
「ご主人にご報告とご相談があるのです」
キャッシー様は至極真面目な顔でそう言ったが、男の子の方はピンピンピンと元気な羽音を立て、俺とキャッシー様の周りを飛び回っていた。
「では、リビングでお話をお聞きしましょうか?」
俺は2人をカーディナルのリビングへに誘った。キャッシー様がピンピピンと不規則な羽音をたてた。
「ご主人…ウィリアムさん。この子に見覚えはありますか?」
キャッシー様の隣にいる男の子は俺の目の前を周りをピンピンピンと羽音をたてて飛び廻り、しばらくして俺の目の前で止まった。そして、ニコニコとして俺の顔をじぃ〜っと見つめた。
「えっ?…申し訳ありません…わ、わかりません」
男の子の妖精がガックリと項垂れ、ブルルンと羽音が低くなって下へと落ちて、テーブルの上に立った。
そして、元気な声でこう言ったんだ。
「お父さん、僕だよぉ!ぼく!
ティモシー!ティモシーだよっ!」
えっ?
「ティモシーが帰ってきたんだよぉ〜っ!」
俺の目はあまりの衝撃にまん丸に見開かれていた…と思う。
「えっ!ええええ〜っ!ティモシー?えっ?本当に?
…なんでその姿?」
キャッシー様がゆっくりとテーブルに降りてきた。
俺は慌ててエスプレッソカップを2つ、テーブルに伏せて置き、キャッシー様とティモシーにも座ってもらった。
「びっくりしないでくださいね」
キャッシー様はそう前置きをした。
…すみません。
もう、ものすごくびっくりしています…。
俺の動揺に気づいているのか、いないのか。キャッシー様は鼻眼鏡をクイっと上にあげて、ごくごく普通のトーンで話し始めた。
「ティモシーは事故で命を落としましたけど、お父さんとお母さんのそばに帰りたいたいという強い願いがあって、妖精として蘇ったのですよ」
以前の俺だったら、絶対に信じない。
信じるわけがないだろ?そんな話。
だってティモシーは死んでしまって、もうこの世にはいないのだから。
でもカーディナルに来てからの俺は、この世の中には不思議がたくさんあるのだと知っている。
千年以上生きている仙人がいたり、死んでしまった人がここでパンケーキを焼いたり、本の中の主人公が普通に暮らしていたり…。
そう、自分の妻だって若返っている。
だったら、死んでしまった俺の息子が蘇って妖精になる事があっても、おかしくないはずだ。
カップに腰掛けて膝の上に両手を置き、ちょっともじもじしているティモシーを俺は見つめた。
そこにいるのは、確かにティモシーだった。
背中に羽根があり、小さく小さくなっていたが、ティモシーだった。
「ティモシー…」
キャッシー様が俺の目の前までピンピンピンと飛んできて言った。
「ティモシーを褒めてあげてくださいね。
普通は100年以上かかる所をティモシーはたったの15年で蘇ったのですから。
お父さんとお母さんに会いたい一心で頑張ったのですよ。とても優秀な妖精なんです」
そう言われて、ティモシーが思いっきり胸を張った。
キャッシー様の顔を一度見たティモシーが俺に言った。
「それでね、僕、キャッシー様に許可をもらって、こっそりお父さんとお母さんのいたカナンっていう国まで2人の様子を見に行ったんだ」
ブブンとティモシーの羽音が低くなった。
「そしたらお母さんが泣いてたから、…だから、ほんのちょっとだけ僕の妖精のパウダーをふりふりってしたんだけど…」
項垂れて涙目になっているティモシーに変わって、キャッシー様が話をつづけた。キャッシー様はとても優しい眼差しでティモシーを見ていた。
「ティモシーのパウダーは '元気パウダー' なのです。かけると元気が湧いてくるんです。ステキでしょう?
でも、ティモシーは妖精パウダーを振り掛けたせいでお母さんのエベリンさんが元気になり過ぎて若返ってしまった、と言うのです」
ブ…ブブ…とティモシーの羽音は更に低くなっていた。
「その後で私がここにこっそり様子を見に来た時、エベリンさんはとてもお元気な様子だったので、心配はいらないよとティモシーに言ったんですが…。ティモシーはすごく落ち込んでいてここにくるのが遅くなってしまったんです」
ウィリアムさん、とキャッシー様が俺を真剣な目で見て言った。
「ティモシーはお二人のそばにいたいと言っています。ですから、お父様であるウィリアムさんのご意見をお聞きしたいのです」
キャッシー様は、また鼻眼鏡をクイっと上にあげた。
「エベリンさんは妖精になったティモシーがそばにいても大丈夫でしょうか?
あの事故は本当に悲惨な事故でしたから、ティモシーや事故の事を忘れているなら、このままそっとしておいてあげた方がいいのかもしれない、と私は悩んでいるのです」
ブゥ〜ンとティモシーの羽音が止まった。
「えええ〜っ…」
そして、ブルルンと低い羽音をたてて天井まで飛び、ゆっくりと部屋の中を回って降りてきた。
ティモシーは泣きそうな顔になっていた。いや、目にはいっぱい涙が溜まっていた。
「僕はそういう経験値が低いから、キャッシー様の指示に従った方がいいのかな…。悲しいけれど…」
ティモシーは俺を見つめた。
俺はまず、ティモシーの前に右の人差し指を横にして差し出した。ティモシーは、ん?という顔をした後、人差し指にちょこんと腰掛け、ニコニコと俺を見た。
俺はそっと人差し指を目の高さまで上げた。
「お帰り、ティモシー…」
こんな時、父親の俺はなんて言えばいいのだろう。何も言葉が浮かんでこなかったんだよ。
ティモシーはニコニコとしたまま、俺をじっと見て、ただいま、と答えた。
「ティモシー、触っても大丈夫なのかい?」
平気だよ〜、というティモシーの頭を左の人差し指でよしよしと撫でると、ティモシーは目を細めた。
「ティモシー、帰ってきてくれてありがとう。俺達に会うために頑張ってくれてありがとう」
なんだか、視界がぼやける。鼻水も出てきたみたいだ。喉の奥から勝手に声も出そうになる…。
暫くそうしていると、ティモシーがふりふり…と金色に光る元気パウダーを俺に振りかけた。
「お父さん!笑って!」
キャッシー様はにこにこと俺を見ていたが、そろそろ行かないとみんなが心配するわ、とティモシーの肩をポンポンとした。
頷いたティモシーはピンピンピンと羽音を経てて、俺の周りをくるくると周り、またねと手をふりながら飛んで行った。
その姿を見送ったキャッシー様は言った。
「あの子は自分のせいでエベリンさんが若返った、と思っていますが多分違います。元気パウダーは若返りの力はありません。エベリンさんがその時に昔に戻りたい、とか、若返りたい、と強く念じていたのでしょう。たまたま重なったのだと思います。元に戻るかどうかは、エベリンさん次第ですね」
「そうだったんですね。ティモシーのやつ…。可愛いな」
俺はしばらく考えてキャッシー様にこういった。
「今夜、ティモシーを連れて、私とエベリンの部屋に来て下さいませんか?エベリンとティモシーを会わせたいです。
エベリンはきっと大丈夫。だって、ティモシーのお母さんなんですから」
キャッシー様は頷いてくるくるくると天井近くまで昇り、わかりました、と言いながら飛んで行った。
その後、俺は深呼吸をしてキッチンに行き、エベリンの手伝いをした。そして、小指の先ほどの小さな小さなクッキーを作りながら、エベリンとティモシーの事を思い出していた。
俺とエベリンはなかなか子が授からず、諦めていた時に俺たちの所に生まれてきてくれたのがティモシーだった。
ティモシーが5才になった頃、エベリンとティモシーが乗っていたバスが他のバスとぶつかり、他の車も巻き込んで100人近い犠牲者が出る大惨事が起きた。偶然に乗り合わせたエベリンは大怪我をし、ティモシーは即死だったと言う。
だが、激しい紛争地に単身赴任中だった俺はなかなか帰ってこれず、ようやく戻ってきた時、エベリンは意識不明のままで、ティモシーは既に小さなお骨になっていた。
1ヶ月後、目覚めたエベリンからは表情が消えていた。
医者は、事故の時にティモシーの最後の瞬間を見だのだろう、と言った。ティモシーを助けられなかった自分を責めているのではないか、とも言った。
エベリンは泣く事もせず、笑いもせず、どんどん自分の殻に閉じこもっていった。
俺はエベリンに声をかけた。
「なぁ、エベリン。残念だけど、ティモシーはこの世からいなくなったんだ。そうしていても、ティモシーは戻っては来ないんだよ。ティモシーが悲しむだけだよ」
エベリンは首を振るばかりだった。
俺の半年の特別休暇が終わる時、俺はどこに行くにもエベリンは連れて行くと決めた。ずっとエベリンのそばにいて、エベリンを護る、そう心に誓った。
でも、ずっとエベリンは笑うことはなかった。
それから15年経ち、定年退職で俺達はヤムルに戻らなくてはならなくなった。
エベリンにその事を話すと、エベリンは俺の顔を見てポツリとこう言ったんだ。
「そんなに時間が経ったの?…いつの間に?」
「うん、いつの間にか…ね」
エベリンは、元に戻りたい、と呟いた。
「笑っていた頃に戻りたい」
エベリンの頬に涙が一筋落ちていた。
その夜、いつもは隣のベッドで寝るエベリンが俺のベッドにそっと入って来た。
そして、抱きつくでもなく、キスするでもなく、ふるふると肩を震わせて、泣きながら俺の隣で眠りについていた。
そして、次の朝…
俺の隣にはエベリンが眠っていた。そして可愛いらしくあくびをしてこう言った。
「ふふっ!だんな様、おはようございます」
そう、俺の隣には若返ったエベリンがいた。
出会った頃の、よく笑う、可愛いエベリンがいたんだ。
エベリンはキラキラの笑顔で俺を見ていて、慌てふためく俺に抱きついた。
「だんな様、朝ごはんにしましょう。お腹が減りました!」
何の疑問も持っていない様子でエベリンは食事を作った。
俺はエベリンに、どうして、どうやって若返ったのか、と聞いた。
「ん〜、起きたらこうなってました!」
エベリンは屈託なく答えて、にこにこと笑った。
「なぁ、元に戻れるのかい?」
と聞くと首を傾げるだけだった。
とりあえず、皆が驚くから家から出ない様にと言い聞かせたが、俺が戸惑い困っている内にどんどん時間が過ぎてしまった。
帰国直前。
俺はエベリンに、これからどうしたいのかと尋ねた。するとエベリンは驚いた顔をした。
「えっ?…だんな様…どういう意味ですか?
これからも2人で楽しく暮らすのですよね?えっ?違うのですか?」
「俺は60才のおっさんだよ?」
「えっ…?
私、だんな様の事が大好きです!だから、ずっと一緒にいるつもりですけど…。
えっ…?
だんな様は私と一緒にいてくださらないのですか?ダメなのですか?ええ〜っ?」
泣きそうな顔をしているエベリンを俺は抱きしめていた。エベリンが若返ってから、初めて自分から抱きしめてキスをした。
「ダメなんかじゃないよ。どうして、なぜ…なんて考えず、2人で楽しく暮らそうか。
エベリンがそのままの姿で暮らせる様に、俺たちの事を知っている人が誰もいない所に行こう。そして、エベリンが元に戻っても、戻らなくても…今までと同じ様に、ずっと一緒にいよう」
そう、そうして俺達はここに、カーディナルにやって来たんだ。
ふと気付くと小指の先ほどのクッキーが大量に出来ていて、エベリンが大笑いして喜んでいた。
「だんな様、凄ぉ〜い!いっぱいできましたね。
そうだ!小さな袋に入れて皆さんのお土産にしましょう。だから、もっとたくさん作って下さい!」
そう言ったエベリンは、珍しく鼻歌を唄って料理をしていた。それはティモシーによく歌って聴かせていた子守唄だった。
50人の妖精の皆様は、大はしゃぎで過ごしていた。
フェイクの蜘蛛の巣に引っかかった仲間を助けるレスキュー隊を作ったり、妖精サイズのカフェで店員になってカフェラテを作ったり、大きな温泉におもちゃのヨットを浮かべてレースをしたり、ファッションショーをしたり、とにかく楽しそうだった。
夕食は屋上のテラスの大きな丸いベンチにセットした。夕焼け空の下、妖精達は食べて踊って大騒ぎして楽しんでくださった。
見ている俺達も本当に楽しかった。
…そして、夜が来た。
俺がエベリンに、話があるんだ、と言うとエベリンは怯えた顔をして震えた。
「悲しい話は嫌です。聞きたくありません」
俺はエベリンを抱きしめて、大丈夫だよと囁いた。
トントントンと小さなノックが聞こえて、キャッシー様がティモシーを連れて俺たちの部屋にそっと入って来た。
ティモシーは不安げな顔で、ブブブンと羽音も低かった。
でも、心配なんかはいらなかった。俺が何かを言う前にエベリンはティモシーに駆け寄っていたのだから。
「ティモシー、やっぱりティモシーだ!最初に会った時にそうだと思ったの。
だんな様、だんな様!ティモシーです!ティモシーが帰って来てくれました」
ティモシーがピンピンピンと天井まで行って急降下し、エベリンの目てピタっと止まった。
「お母さん、僕の事分かったの?すぐに分かったの?」
うん、とエベリンは頷いた。
「当たり前でしょう?ティモシーだもの。
でも、もしかしたらティモシーは生まれ変わって私達の事を忘れてるかもしれないって思ったの…。
そんな事ないのにね。魂になっても愛する人のことは忘れないのだから、妖精になったティモシーがお父さんとお母さんの事、忘れることなんて絶対にないのにね。
ティモシー、お帰りなさい。
ずっと待ってたの」
ティモシーがくるくると回ってあちこちを飛び回り、エベリンの肩にちょこんと座った。
「お父さん、お母さん、僕ここにいてもいい?
側にいたい!いさせて!」
エベリンが俺を見た。
「もちろんだ!当たり前じゃないか!ティモシーは僕達の息子だよ」
ティモシーが部屋中を飛び回った。エベリンが微笑みながらその様子を目で追った。その微笑みは母の微笑みだった。
なんだか、また俺の視界がぼやけてきた。鼻水も出てきて、喉の奥からまた勝手に声も出そうになる…。
キャッシー様がくるくると回りながら、俺達の側に来た。
「ウィリアムさん、エベリンさん、ティモシーをよろしくお願いしますね。ティモシー、今夜はここでお二人と過ごしなさい。
明日はみんなに挨拶しなくっちゃね。また明日の朝会いましょうね。
おやすみなさい!」
ピンピンピンという羽音と共にキャッシー様は飛んで行った。
その夜はたくさん話して、3人で眠った。
ちっちゃなティモシーを潰さない様に、箱の中にタオルを敷いてベッドの代わりにした。ティモシーは興奮しているのか、ずっとピン、ピン、ピンという羽音がしていた。
ティモシーが寝てから、俺とエベリンはリビングでワインを開けて飲んだ。
全部思い出したのかい、と聞くとエベリンは頷いた。
「あの事故の時、ティモシーは私を守ってくれたのよ。あんな小さな5歳の子が、私に覆い被さって…。お母さんの事は僕が守る、って言ったの。
そして最後に、私の手を握って…。
『お母さん、生きていて。僕はまたお父さんとお母さんに会いに来るから。必ず戻ってくるから。だから待っててね』
そう言った時にティモシーの体が光って、何かがティモシーの体から抜け出して…空の彼方まで飛んでいった…。
本当にあった事なのか、夢だったのか、よくわからないけど…」
エベリンはワインを一口飲んだ。
「私、こんな話をしても、きっと誰も信じてくれないって、勝手に思い込んでたの。だから、全部、自分の中に押し込めて、1人でどんどん辛くなってた。辛くなりすぎて、他の事までわからなくなっちゃって…。もう、何をどうすればいいのか本当にわからなくなって。
だから、いつの間にか15年経ったってだんな様から聞いた時、なんて事だろうって思ったの。15年もの間、ずっと何してたんだろうって。
こんなんじゃ、ティモシーも悲しむって、やっと気が付いて…。楽しかった頃に戻りたいって心の底から思ったの。
笑っていた頃に戻りたいって。
若くなったはじめの頃は、ティモシーの事も事故の事も忘れて、だんな様と2人で毎日楽しかった。
でも、カーディナルのお客様達といると、少しづつだったけど、私には辛かったことがあったんだって思い出していたの。詳しい事は思い出せなかったけれどね」
俺はエベリンの手を握った。
「だんな様に初めからお話していればよかったのにね。辛いことや悲しい事、ティモシーの最後の事、全部話せばよかったのにね。
話せなくって、黙っててごめんなさい。15年間、ごめんなさい。」
俺は泣きそうだった。
「そうか…。そうだったんだね。
話してくれてありがとう。
ずっと話を聞いてあげられなかった俺がごめんなさい、って言わなくちゃな。エベリン、15年分のごめんを受け取って欲しい。
これからはちゃんと話せる2人でいたい。エベリンとティモシーの事をちゃんと受け止められる男でいたい。
60歳になってそんな事言うなんて、未熟者すぎて自分で笑っちゃうけど…」
エベリンはちゃんと俺の目を見ていた。
「だんな様、これからティモシーと3人で楽しい事をたくさんしましょうね。15年分の楽しい事!」
「エベリン、こんなおっさんのそばにこれからもいてくれるかな?」
「もちろんです、だんな様。だって、私、だんな様が大好きなの!」
俺はエベリンを抱きしめた。
「愛してるよ。エベリン」
次の日、ティモシーは朝からずっと仲間の妖精達と飛び回っていた。
キャッシー様は少し鼻声になっていた。
「妖精達は帰りたくても帰る場所がない子がほとんどなんですよ。だから、皆、ティモシーがここに残るのが寂しいですし、少し羨ましいのです」
ぐすんと鼻を鳴らして、パンパンと手を叩いて皆を集めるとキャッシー様は皆に言った。
「さあさあ。みんな、時間ですよ」
そう言われて皆が並んだ。皆、顔がくちゃくちゃになる程泣いていた。
「ティモシーはここに残りますけど、月に1回は妖精の国にに帰ってきますよ。妖精のパウダーをもらわなくっちゃなりませんからね。その時にまた皆で遊べます。だから、そんなに泣かないの!」
ティモシーは俺の肩に座って羽音だか鼻水の音だかわからない音をたてていた。
俺も皆に言った。
「またティモシーに会いにここに来てくださいね。いつでも大歓迎です。待ってますから!」
妖精達は一斉にピンピンピンと羽音をたてて飛び回り、俺とエベリンの周りに集まった。
ティモシーも皆と飛び回って戻ってきた。
妖精達は口々に俺とエベリンに尋ねた。
「ほんとうに?」
「本当のほんとうに?」
「来ていいの?」
「みんなで来ていいの?」
「嘘じゃないよね?」
「来ちゃうよ!」
「ああ。嘘なんかじゃないよ。本当に本当だ。
いつでも来て欲しい。待ってるから。
なあ、ティモシー!」
ティモシーはビュインと勢いよく空に向かって翔び、急降下してきた。
「みんな、遊びに来て。待ってる」
それを聞いて皆は、わーいと言いながら、いつまでも手を振り続けて帰っていった。
ティモシーは 'カーディナル' の人気者になった。元気の薄いお方がいらっしゃると、金色に光る元気パウダーをふりふりした。
妖精達もよく遊びに来て 'カーディナル' のお手伝いをしてくれる様になった。そして、何人かはカーディナルに住み着いてしまった。でも、それはそれでとても楽しくて、幸せを感じる事だった。
マシュー国王陛下もランドン宰相殿も妖精達の事を大変喜んで下さった。
マシュー国王陛下はわざわざティモシーと妖精達に会いに来て、妖精達のために温泉付きの小さな館を作ってくださった。妖精達は大喜びで、ますます遊びにくる様になった。
ある時、俺はエベリンに聞いてみた。
「エベリン、元の姿に戻りたくないの?」
えっ?とエベリンは言った。
「元に戻るなんて、そんなの嫌です。私はまだまだだんな様に甘えていたいです。だって、まだ15年分甘えていません!この姿の方が甘えやすいから、このままでいたいです」
そう言って、エベリンは俺に抱きついてキスをした。
エベリンと妖精のティモシーと仲間達そして俺で、今日もお客様をカーディナルにお迎えする。
「カーディナルへようこそ!」
今日はどんな出会いが待っているのだろう?