宇宙からやってきた花
トウヤ・ベルヘックは深い睡眠から頬を濡らす水滴の感触で目を覚ました。
頬を濡らすとは言っても、感傷に浸る涙のわけもなく、目を開けた瞬間に落ちてくる水滴がスローモーションのように映った。
彼は頬を垂れる水滴を拭うと、ベッドサイドのテーブルに無造作に置かれた年代物のアナログな腕時計で時間を確認する。
辛うじて早朝であった。
左手首に腕時計をはめ、のそのそと起き上がってシャワールームを目指す足取りは重い。
しとっと音を立ててベッドに染みを作る水滴に視線を天井へと向ければ、
「ちっ……雨漏りか」
悪態をついて尻頬を掻き、一糸まとわぬままにキッチンへと寄り道をする。
歩くたびに柱時計の振り子よろしく内腿を小気味よくペタンペタンと打つ音を聞きながら、13を数えた時にトウヤはキッチンにたどり着く。
キッチンテーブルの上には皿ひとつ乗ってはいない。ここ数日部屋に帰ってきた記憶はどうだったろうと思い返しても、記憶があるのは昨晩だけだ。当然この部屋で食事をしたのは記憶にない過去のことである。
この部屋に帰らなかったのは、別段忙しいからというわけでもなかった。
非合法ではあるが仕事中に、彼が起こしたアクシデント──宇宙移民が強力な電磁を浴びて発情してしまう身体的特徴<マグネット・ラブ・シンドローム>によって、トウヤに言い寄るようになってしまった宇宙移民の警官から何日も逃げ続けなければいけなかったからだ。
思い出しただけでも気が重くなる。
「何か残ってないかな?」
気を取り直して冷蔵庫の扉を開けて中をのぞき見る。
見事なまでのがらんどうの中央に白い大きなボトルが鎮座している。
たぶん牛乳だ。
半分飲みかけ。
蓋もしてあったし大丈夫だろうと、取り出してテーブルに置いた。
洗い終わった食器を入れるカゴに無造作に詰め込まれた食器の山から、背の高いガラスのコップを選んで目の前にかざせば案の定曇っていた。
水道の蛇口を捻って出る冷たい水を使い、素手でコップを洗ってすすぐ。
女性が想像する独身男性の適当なだらしのなさを地で行くスタイルだ。
いざ、ボトルからコップに乳白色の液体が注がれる。
トプトプトプっと音を立てて七分目までを満たした牛乳を、上から横からと観察する。匂いを嗅いでみたが、異臭はない。
飲んでも大丈夫だろうとは思ったが、トウヤは念のため消費期限を確認するために濡れた手でボトルを掴む。やはり、ボトルは手から滑り落ちて床に牛乳を撒き散らした。
「くっそ」
悪態をつきながら、そこらの椅子にかけてあった白いシャツを掴んで床とボトルを拭きあげた。
ふとシャツを見れば、そこに黒いものが付着している。
もしやと思って牛乳のボトルを見れば、消費期限の日付の印字がなくなっていた。
万事休すだ。
まいったなーという素振りで、彼はシャツとボトルを床に放って、いそいそと牛乳のべったりついた手を洗った。
ドンドンドン!
けたたましく玄関ドアをたたく音が響く。
濡れた手をぴっぴっと振るって、トウヤはめんどくさそうに玄関に向かった。
「早朝からどこのどいつだよ?」
ひとりごちれば、ドアの向こうから女の声がする。
「開けろ! デトロイト市警だ!」
聞き覚えのある声で発せられた、祖父の時代から残るゲーム由来の使い古されたギャグに思わずトウヤは噴き出した。
連日この女から逃げていたというのに、あまりの馬鹿馬鹿しさにドアを開けて応対することにした。
「よくここがわかったな?」
「本物の警官ですから、任せてください」
明るく赤く長い髪をゆるく首の後ろで結わえた、一見十代にも見間違う童顔の女が笑顔で答えた。正規の警官の制服を着てはいるが、まるでコスプレのように大きな乳房が左胸につけた警察バッヂを押し出していた。
「で、何のようだ?」
トウヤはあえてぶっきらぼうに、その宇宙移民の女に問い質す。
宇宙移民の女は全体的にぐっしょりと濡れそぼって、後ろに回した左手に何か隠しているような素振りだ。
「うふふ。なんと、聞いてください」
にんまりと微笑んで、彼女はばっと左手を前に差し出してきた。
トウヤは思わず上体をのけぞって身構えたが、そこには薄赤紫色に咲いた花が束になっていた。
「アジサイです。ここにくる途中に道を教えてくれたおばあさんに分けていただいたのです」
嬉しそうに言う女に、トウヤは少しこそばゆさを感じた。
「わたしはこの花にとても思い入れがあるのです。中に入っても?」
「あぁ」
トウヤは毒気を抜かれた返事をして、宇宙移民の女警官を部屋に招きいれた。
女警官はきょろきょろを部屋の中を眺めながら彼の背後をついてゆく。
職業柄なのだろうが、トウヤは居心地の悪さを感じながら先導した。
彼はリビングを抜けてキッチンへと向かう。
「トウヤ・ベルヘックさん。どちらへ?」
女警官に名前までばれているのは想定内だが、フルネームで呼びつけられるとは思わなかった。
「俺の部屋で、俺がどこに行こうと、干渉される筋合いはないと思うがね?」
「だって、わたし、お客ですよ?」
「『招かれざる』って言葉を覚えたほうがいい」
女警官は口を尖らせて頬を膨らます。
トウヤはその様子に案外かわいらしいもんだなと感じたが、せっかくのアジサイを生けるものを探すのが礼儀だとキッチンに歩を進めた。
女警官は気を取り直してトウヤの背中に話しかける。
「アジサイって面白い花なんですよ。知ってます?」
「知ってる」
キッチンの食器棚や収納を物色しながらトウヤは気のない返事をする。
「まぁ、聞いてくださいよ。土の中の水素イオン指数によって色が変わる性質があってですね」
「知ってる」
「赤くなったり青くなったりと楽しめるんですよ」
「知ってる」
「アジサイの別名はご存知ですか?」
「知ってる」
「わたしあなたのことが好きなんですよ?」
「知ってる」
「もう、電磁の影響はないんですよ?」
「知ってる」
彼女が患った<マグネット・ラブ・シンドローム>は数日の間お互いの距離を置くことで解消されることは調べて知っていた。
だからこそトウヤは彼女の追跡から逃げ回っていた。
「わたし、トウヤのことを好きになってしまったんです」
宇宙移民の女警官は真剣な眼差しで彼の背中を見つめる。
トウヤは振り返って彼女の金色に輝く瞳を見つめ返した。
「だが俺は、あんたのことを何一つ知らない。名前すらね」
「いいえ、あなたは知ってるわ」
彼女は言って、手に持った花束を目の前に突き出した。
「きれいな花でしょ? これはわたし」
「……オタクサ?」
「そう、地球の人間の発音ではね」
彼女が地球の公用語のひとつである日本語で流暢にトウヤとの会話をこなしていたことに、彼はやっと気がついた。
オタクサは微笑んで頬を染めていた。
トウヤが彼女の名を知ったことを嬉しそうに恥ずかしそうに。
「わたし、あなたのことを好きになってしまったんです」
「だが、あれは事故だろ? それにあんたは宇宙移民で……」
上ずった声でなおも食い下がるトウヤ。
オタクサは、すっと彼に近づいてアジサイの影から上目遣いでトウヤを見あげる。
「ねぇ、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、トゥルートからフロンクへゆく路で、谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ」
演じるようにオタクサは言葉を紡いだ。
トウヤは完全にしてやられた気分だった。
彼女は古い映画のキャッチコピーで有名になった西條八十の詩をもじって、彼女もまた人間なのだと証明してきたのだ。
トウヤはオタクサの手から薄赤紫色に咲いたアジサイの花束をそっと受け取ると、傍らの牛乳の入ったコップに生ける。
「君の想いに応えるよ、オタクサ」
トウヤは彼女を抱き寄せて、ゆっくりと唇を重ねた。
長い長いキスのあと、絡めた舌が離れるとオタクサはトロリとした表情で困惑気味に呟いた。
「わたしも服を脱いだほうがよいのでしょうか?」
彼女の視線は終始素っ裸だったトウヤのそそり立つものへと注がれていた。
コップに生けられたアジサイは次第に青く色づいていった。