第八十五話
「ヴァン、足の調子はどう?」
「ん、動かすと少し痛むが大したことは無い」
借りた部屋の椅子に座って本を読みながら聞くアリアに、ベッドの上で足伸ばして座るヴァンが答える。
「そっか。して欲しいことあったら言ってね」
アリアが返し、また静かに本の文字を目で追い始めた。
ヴァンはアリアから目を外し、自分の右足を見る。右足は両側から形の整った添え木に挟まれて、その添え木ごと包帯で巻かれていた。
医者からは、折れた骨は綺麗に並んでいるから治りが早いはずだと言われたが、おそらくそれはアリアが慎重に治癒術をかけてくれたおかげだろう。
もしアリアの治癒術が無ければ、折れた骨は肉に刺さったまま菌を取り込み完治するのにかなりの時間を有したはずだ。
改めて感謝の念を覚えたヴァンはアリアに視線を向けるが、アリアはヴァンの視線に気づかず本に目を落としたままだ。
じっとアリアの顔を見つめて思う。やはり綺麗な顔をしている。波打つ金髪はクセを持っているのに絡まっておらず、新緑より明るい碧眼に良く似合っていて、程よい白さをもつ肌は真っ白な服と黒いスカートを上品なものにしていた。
アリアの細い指が本の項を捲り、紙同士がすれる音だけが部屋に響く。
あぁ、そういえばあの指で髪を梳いてもらったときがあったな。
ぼんやりと本を持つアリアの指を眺めながら、その時の気持ちよさを思い出す。フランやセレーネたちと一緒に居るようになって以降、アリアはヴァンの髪に触れていない。髪だけじゃなく、肩にも頭にも手にも足にも、どこにも触れてくれない。今だって、ベッドから離れた椅子に座って・・・・・・。
「・・・・・・っ」
そこまで考え慌てて首を横に振った。
俺は本当にどうしたんだ! これじゃあまるで触って欲しいと思ってるみたいじゃないか!
心の中で叫んでいると、ヴァンの奇行に気づいたアリアが声をかけてきた。
「ヴァン、どうしたの?」
不思議そうな表情でたずねてくるアリアに、ヴァンはぎこちない笑みを浮かべる。
「あ、あぁ、いやなんでもない。それにしても、遅いな、師匠たち」
「・・・・・・そうね。探すのに時間がかかっているかもね」
ごまかすようなヴァンの言葉に、アリアが窓の外を見ながら同意した。
今この部屋には二人しかおらず、共に居る仲間たちの顔ぶれは無い。
昨日、体力の限界まで動きまくったヘリオスとウラカーンは案の定今朝から疲労で動けず、男性陣の部屋のベッドでうんうん唸っていて、セレーネとフラン、ラルウァは疲労回復に良い食材や、ヴァンの骨折に効く薬などを買いに町へ繰り出している。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
またアリアが本に視線を戻して項を捲り、ヴァンはそのアリアを静かに見つめた。
「・・・・・・ねぇ、ヴァン」
「な、なんだ?」
本から目を離さずにアリアが口を開く。
「昨日、秘宝吸収のときに私を見てたけど、どうして?」
「え? ・・・・・・あ、いや、それは・・・・・・」
いきなりの問いと、気づかれているとは思ってなかったこともあって、ヴァンは言葉に詰まる。
ヴァンが答えられずにいると、アリアは椅子から立ち上がりベッドに歩み寄った。
ヴァンの心臓が少し高鳴る。
その変化を知ってかしらずかアリアは、ぼすっとベッドに腰掛けた。ベッドの足がきしみ、ヴァンの体が反動で上下に少し揺れる。
「二人っきりって、久しぶりね」
「・・・・・・そう・・・・・・だな」
すぐ側で座るアリアの香りがヴァンの方へ漂い、さらにヴァンの心音を早くさせた。
「・・・・・・」
なんとなく視界が物寂しくなり、横目でアリアを見るヴァン。アリアはまっすぐ前を見ていて、ヴァンの視線に気づかない。
目を少し下に向けると、アリアがベッドにつく、細くて白い指が並ぶ右手が見えた。
あぁ、細くて綺麗で・・・・・・触ったら冷たいんだろうか、温かいんだろうか。もうずっと触れてなくて、柔らかかったのか骨ばっていたのか。どれもこれも忘れてしまった。
ヴァンの中で、何かの衝動が大きくなっていくのが分かる。それは以前の温かさを思い出したいが為か、確かめたいが為か。
一つの言葉が、頭に思い浮かんだ。
触りたい。
そう思ってしまうと、ヴァンは衝動が急激に大きくなったのを感じ、頭の中がかすむような感覚を覚えて、しかし、それでも触りたいということだけははっきりと意識している。
だけれど、見つかってしまうのが怖くて、ヴァンはゆっくりと慎重にアリアの手へ自分の左手を寄せていく。
慎重に慎重に・・・・・・。ベッドのシーツにしわを作りながらヴァンの左手が動く。もうヴァンの目には獲物であるアリアの右手しか見えてなかった。
もう少しで、触れる。
と、いうところで、アリアの指がかすかに動く。反射的にヴァンも動きを止めて、徐々に視線を上げていくと、アリアの視線がぶつかる。
「・・・・・・」
視界に入るアリアの表情は、期待やら嬉しさやら喜びやら、とりあえずあらゆる『嬉』の感情が前面にこれでもかと出ているものだった。
瞬間、頭の中にかかっていた靄が一気に晴れ、体中が燃えたように熱くなり、心臓がはちきれんばかりに高鳴る。
「っ!」
見られていたという恥かしさに、ヴァンは慌てて左手を引っ込め、顔を思い切りそらす。
本当ならベッドから飛び降りて部屋の扉に突撃し、ここから逃亡したいほどであったのだが、右足が動いてくれないのでそれも叶わない。
目をそらしてもアリアがこちらを見ているのが分かる。それを少しでも軽減するべく、ヴァンは両手で顔を覆った。
「ヴァン・・・・・・」
「あっ」
ベッドがきしみ、アリアがヴァンの両足をまたいで前に回る。
そのままヴァンの両手を掴み、無理矢理開かせていった。
「顔、真っ赤」
顔を覗き込まれたヴァンが、限界まで俯いてアリアの視界から逃げるよう身をよじる。
「み、るな・・・・・・」
羞恥の中、なんとかそれだけ搾り出すが、自分で出したと思えないほど弱弱しい声だった。
「・・・・・・ねぇ、ヴァン、私に触れたいって、思った? ずっと見てたよね、私の手、とか」
「・・・・・・・・・・・・」
考えていたことを当てられ、顔をますます赤くする。俯いているヴァンは、アリアが今どんな表情をしているのか分からない。
それでも、小さく、こくんとヴァンは頷く。
「私・・・・・・これからも、ヴァンに触って良いって、こと?」
「え?」
聞き返しながらヴァンが顔を上げる。
尋ねられた言葉を聞き返したわけじゃない。ただ、切ないと言っている様な気がしたから、思わず顔を上げたのだ。
俯いていて分からなかったアリアの表情を見て、ヴァンは息を呑む。
アリアは今にも泣きそうな顔をしていた。
何故そんな表情をするのか、理由が知りたかった。けれど、それより先にヴァンは、少女を泣かせたくないというのを、優先した。
「・・・・・・うん・・・・・・」
それでもやはり恥かしい。か細い声で返事を返すと、アリアは弾かれたようにヴァンに抱きつく。
「おわっ?」
右足が折れていて、いや、折れてなくとも見た目通りの筋力しかないヴァンに、自分より重いであろうアリアを支えられるはずも無く、首に腕を巻きつかれたまま押し倒された。
少女二人分の体重をうけてベッドが人の形にへこむ。
「・・・・・・ア」
「ずっと、触れたかった」
ヴァンの言葉を遮ってアリアが声を落とす。抱きつく少女の首元に顔をうずめているため、その声はくぐもっていた。
「手を繋ぎたかった。髪を撫でたかった。後ろから抱きたかった。前から抱きしめたかった。・・・・・・好きなのに、近くに居るのに、触れないの、もう嫌」
それはヴァンに伝えようとしているのではないのだろう。ただ独り言のように、溜め込んでいたのを吐き出すように、アリアは淡々と言葉にしていく。
「セレーネ、ヘリオス、師匠さん・・・・・・昨日はウラカーンまで・・・・・・羨ましかった。でも、私には、ヴァンに触れる理由が無かった。二人っきりのときは、考えたこと無かったのに。セレーネたちは姉と兄で、師匠さんはお父さんで師匠で・・・・・・私だけ他人・・・・・・」
「アリア・・・・・・」
くぐもった声は、次第に湿っていき最後には鼻もすすっている。
アリアがヴァンの首から腕を離して、小さな顔の両端のベッドに沈ませ、上からヴァンを覗き込む。
碧の瞳は潤い、揺れている。
「ねぇ、ヴァン・・・・・・私、なんにもないけど、触って良い? 触りたいだけなんだけど、ヴァンに触れたいの」
そこでヴァンは安心した。あぁ、この少女は俺を避けてたわけじゃないのか。と。
アリアにしてみれば真剣に考えて悩んだのだろうが、ヴァンはアリアの言葉を聞いて、嬉しくも思っている。
だけれど、触れるのに理由がいるというのには、少し笑ってしまう。
「・・・・・・ヴァン、私、真剣なんだけど。なんで笑ってるのかしら?」
先ほどまでの泣き顔はどこへ行ったのか、不満そうに頬を膨らませて唇を尖らせるアリア。
「あ、あぁ、すまん。でも、ははっ、アリア、お前って変なところ生真面目だな」
「・・・・・・どういう意味よ?」
せっかく今までの悲しみとか切なさとか、これからどうしたいかも告白したというのに。自分の下で寝転んでいる少女はあろうことか、変と言ってきた。
ひとしきり笑ったヴァンは、両手を持ち上げてアリアの両頬を包む。
「うん、すまん。俺もアリアに触れたいよ。だから、最近はずっと触れてくれなくて、さみしかった。なんか、遠慮されてるようで・・・・・・いつもみたいに接してくれないから、避けられてるかと思ってた」
さっきまでは恥かしいとさえ思っていたのに、ヴァンの口からは流れるように『触って欲しい』という気持ちが出てくる。
「そ、そんなこと」
否定しようとするアリアにヴァンは、右手の人差し指を頬から唇に当てることで黙らせた。
「だから、本当はアリアも俺に触れたいんだってわかって、嬉しいよ」
言い終わると同時に、ヴァンはアリアの唇から指を離す。
「・・・・・・ヴァン」
熱に浮かされたように呟くアリア。呼ばれたヴァンは顔を少し赤くして身をよじった。
「やっぱり、恥かしいな。触りたいとか触って欲しいとかって言うのは・・・・・・・・・・・・ところで、そろそろどいてくれないか?」
話している間、ずっと馬乗りの状態のアリアの両肩に、ヴァンが手を当てる。
言われて、改めてアリアは自分の状態と下で横になっているヴァンを眺めた。
「ねぇ、ヴァン。これからも触れて良いって言ったわよね?」
「え? ・・・・・・ま、まぁ・・・・・・」
言葉を無視されて逆に聞かれ、顔の赤みを増やしつつも頷く。
「じゃぁ、私は今まで触れなかったことに対して、何かしら補填が必要だと思わない?」
「・・・・・・へ? それってどういう意」
ヴァンの言葉を遮って、アリアが素早く顔と体を落とし、ヴァンに密着させた。
「んむっ!?」
目を見開くヴァンの唇に、アリアの唇が零距離だ。
「んっ、んんー!」
ヴァンは両手でアリアの体を押し返そうとするが、密着されたせいで全く力が入らない。
自分の胸がアリアの豊満な胸に押しつぶされ、唇を強く押し付けられる。
「んー! ん、んん・・・・・・」
全身に押し当てられる柔らかさに、ヴァンの体から力が抜けていく。と、思いきや、ヴァンの顔が段々と青くなってきた。
「んっ・・・・・・ふぁ・・・・・・あれ? ヴァン?」
たっぷりとヴァンの唇と体の柔らかさを堪能したアリアが、顔を上げて今しがた襲った相手を見る。
視線の先には、目を虚ろにさせて赤いやら青いやら意味不明な・・・・・・つまり、とても顔色の悪いヴァンがいた。
「え!? ちょ、ちょっと、ヴァン、あなたまさか息止めてたわけ!?」
慌ててヴァンを上体を起き上がらせ、両肩を掴んで激しく揺らす。
「嫌ー! ファーストキスで愛する人を殺したなんてのは、触れないことの数倍嫌ー!!」
アリアの悲痛な叫びが部屋中に響き、揺すられるヴァンの首がかっくんかっくんと前後に動かされる。
その後、何とかヴァンの意識を回復させることに成功したアリアは、セレーネたちが戻ってくるまでの間、複雑な雰囲気に耐えるという試練を受けることとなった。
読んで頂きありがとうございます。
とうとう、とうとう奪いましたよ。アリアさん。
心象描写の伏線は全然置きませんでしたが、まぁ今回は頑張っているアリアにご褒美ということで・・・。
そういえば、ファーストキスはレモン味ってどこからきたんでしょうねぇ?