第百十七話
汚れのついた食器に水を当てながら、リシャは小さく溜息をついた。
油で汚れた食器はしっかり洗わなければ綺麗にならないというのに、それに集中することが出来ない。
ずっと、一人の女の子が気になっているからだ。今だって、頭に浮かんでいる少女。
真っ白な長い髪と紅い瞳を持った、妖精の様な少女。名前はヴァンという。
悪い人に狙われているらしい少女。それのせいで自分の家族を奪った少女。
違う。
小さく俯こうとして、やめた。もう俯くのは、やめた。でも、食器を洗うには視線を落とさないといけない。あぁ、だからこれは俯いてるわけではない。
こうして、逃げる。自分でも分かっている。違う、と考えて、別のことに意識を向けて、その先を考えないように、逃げている。
本当は、分かっている。
頭では分かっているのだ。その先の、考えたいこと。思いたいこと。――ヴァンが自分に、話したいこと。
だけれど、逃げている。まっすぐ向き合うことを、恐れている。
自分よりあの女の子のほうが、向き合うことを怖がっているのが分かっているのに。
でも、それでもヴァンは自分と話したいと思ってくれてる。向き合おうと頑張ってくれてる。
たった一人で。
だからこそ、恐い。
また、理不尽な責めを、言ってしまいそうで。
また、傷つけてしまいそうで。
逃げることで傷つけているのに、それでも、逃げてしまう。
ヴァン、弱くてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
思うのは簡単なのに。
伝えるのはこんなに恐い。
どうして、ヴァンみたいにがんばれないの?
「・・・・・・」
リシャの隣に立つレリアは、スープの鍋に器具を突っ込みぐるぐると回している。
横目で見れば、洗い物をしているはずの少女の手は動いていない。ヴァンのことでも考えてるのだろうか。
助言の一つでもしてやりたい。考え、頭を横に振る。
もう助けるのは終わり。あとはリシャが自分でたどり着かなければ、と思い直す。
ヴァンも頑張って、リシャも頑張って、二人で頑張らないと。
でも、少しだけ。ほんの少しだけ。
軽口の一つでも言って、沈んだ心をちょっとだけ浮かせるくらいは、許してもらえるはずだ。
「リシャちゃん、ずっとそうやってると手がふやけちゃうわよ?」
なるべく自然に話しかけたつもりだったが、失敗に終わったらしい。
思ったより深く考え込んでいたらしいリシャは、体を強く震わせて食器を床に落としてしまった。甲高い音が響いて、皿が砕け散る。
「あっ、あ、ご、ごめん、なさい」
慌てた様子で座り込み、砕けた皿の破片を掴む。
「いっ、た・・・・・・」
「あぁ、ほら、慌てないで。大丈夫?」
あまりにも慌てすぎて指を切ってしまったようだ。
レリアはリシャと同じように膝を曲げ、紅い雫が垂れる指を掴む。そのまま口に含んで血を吸った。
「んっ・・・・・・」
痛むのか、少女が目を細めて顔を歪ませる。
小さな水音を鳴らし、レリアはリシャの指を口から解放した。透明の糸の橋ができる。
「私が片付けておくから、手当てをしてきなさい。居間の棚にあるから」
また血がにじんできた指を見て、レリアが皿の欠片を一つずつ拾っていく。
「は、い」
言われたことに素直に従って、リシャは立ち上がった。その頬が少し赤みを帯びていたのは、やはりまだ他人として見られているからだろうか。
リシャが台所から出て行ったのを見送って、小さく溜息をつく。
「・・・・・・はぁー・・・・・・ちょっと失敗しちゃったかしら。でも、放っておけないんだもの」
誰に対する言い訳でもなく、レリアは呟く。
二人だけに頑張らせるだけじゃなく、自分もリシャに母親、とまでは思わせられなくとも、家族として接してもらえるよう頑張らなくては。
もうあの子は娘なわけだし。
そこで、はたと気づく。
「あら、そういえばまだあの子に娘になる返事をもらってないわね」
どうやらまずはそこから済まさないといけないようだ。
むしろ、それを忘れていたことに苦笑する。どうやら自分は思ったより動揺していたらしい。
あの人に再会したことに。
そしてまた、溜息を一つ落とす。娘とあの人が出会っていたとは思わなかった。しかも共に旅をしている。
一度も、隠し事をしたことのないあの人に、唯一、隠していること。
でも、あの人には記憶はないし、今更話すのもどうかと思う。
娘とも幸せに生きてきた自信だってあるし、その娘も母親しかいないことを不満に思ってることはない、はずだ。
何より、話すことであの人の人生を歪ませるのはしたくない。
あの人のことだ。話せばきっと・・・・・・。
「・・・・・・はぁ・・・・・・だから、向こうから気づいてくれるのに期待していたのだけれど」
そこで言葉を切り目を伏せて、ずるい、わね。と続ける。
皿の破片を目の前に持ち上げ、自嘲気味に微笑むレリア。
突然、その金色の瞳を、大きく見開かせた。
勢い良く立ち上がり、家の玄関の方へ顔を向ける。表情は青ざめ、驚愕の色を持っていた。
「な、ぜ、降りて・・・・・・!?」
震える声で落とし、駆ける。
台所から飛び出すと、居間に居たリシャが驚きの顔で見つめてきた。手には包帯を持っていて、それを指に巻き終えた後のようだ。
「レ、レリアさん?」
声をかけられるも、金髪金目の魔女は返事を返すことなく走る。
玄関の扉を壊す勢いで叩き開け、家からも飛び出した。背後から再度名前を呼ぶ声が聞こえる。
首だけで振り返り、大声で返した。
「リシャちゃん! 家に居なさいっ、良いわね、絶対に外へ出ちゃ駄目よ! その建物は他より丈夫だから!!」
要点だけ伝え、さらに走る。向かうは、あの人たちが行った、西の大型魔獣除け。
「迂闊だわ・・・・・・! もっと警戒網を広げておくべきだったわねっ」
悔しそうに口の中で転がして、また口を開く。
魔の言霊を紡ぐために。
地響きを鳴らす森を、ヴァンは見上げた。何かが近づいてきている。
とても巨大で、とても強大で、とても重圧な、何かが。
「これは・・・・・・まさか・・・・・・」
そんなヴァンの隣で、ラルウァが信じられないといった表情で呟く。
一際大きな振動が地面に伝わった。そして、静寂。
それを合図に、ラルウァが弾かれたように叫んだ。
「S級と戦ったことのない者は逃げろ!! 雑魚を相手にするなッ、町の住人に知らせて避難しろッ!!」
先ほどまで感じていた地響きに勝るとも劣らない声量は、大気をビリビリと響かせて周囲の人間に届く。
声を聞いた人間は、混乱しているのか呆然とラルウァを見るだけで動かない。
そして、先に動いたのは皮肉にも言葉の通じない魔獣どもであった。
四肢で駆ける魔獣、地を這う魔獣、胴体だけの魔獣、二足で立つ大きな魔獣、全ての魔獣が弱弱しい音を吐きながら散り散りになって逃げていく。
今戦っていた人間など眼中にないかのように、逃げ惑う。遠く離れてやっと森の中へ入っていった。
その光景が、人間たちの行動をさらに遅らせる。
「クソが! さっさと逃げろと言っているだろうが・・・・・・!」
吐き捨てるように言うラルウァは、周囲を見渡すとまた大声を上げた。
「ヘリオスッ、ウラカーンッ、でかいのがくるぞ。セレーネッ! お前らは上級の準備に入れ!! 急げッ、もう来る。ヴァン、構えろ!」
何故、とは返さず、皆その言葉を即座に受け入れる。理由は森から感じられる威圧感だけで十分だった。
再度、地響き。そして、咆哮。
連続で響く振動。それは止むことなく、姿を現した。
森を抉り、木々を駆逐して現れたそれは。
「・・・・・・竜・・・・・・」
見たことも無いほど巨大で、見たことも無いほど強大で、見たことも無いほどの重圧な、何かは。
竜と呼ばれる魔獣だった。
誰かの悲鳴。逃げる人間。
逃がさぬとばかりに、竜の走る速度は落ちない。森から飛び出した超大な魔獣は、町を潰す勢いで四肢を持って大地に穴を開ける。
「フラァァン!!」
三度目のラルウァの怒声で、ヴァンは我に返った。
後方を向けば、フランがリャルトーの弓を構えて叫び返している。
「おうともっ!!」
名を呼ばれただけの声で、フランはすべきことを理解した。
左手に握る秘弓に右手を添えて、思い切り引っ張る。真っ赤に輝く魔力の矢に命を下した。
「彼奴を止めい! 『バライナ』ァァ!」
瞬間、魔矢は巨大になる。一気に大型魔獣除けよりも大きくなった魔矢を、しかし、さらに大きな竜に向けて放った。
轟、と空気を切り裂き突き進む。仲間たちの頭上を豪速で飛び、巨矢は巨竜の胸に直撃した。
その巨矢は今までと同じように、魔獣を切り裂こうとする。が、巨竜は人がするように二本脚で踏ん張ると、空いた日本の前足で『バライナ』を抱きしめ、否、抱き潰した。
大きな魔力は衝撃となり、マナへと還っていく。
「バケモンめ・・・・・・」
ぎりっと歯をかみ締めるフラン。
「ですが、これであの竜は私たちを無視できないでしょう」
「そうね、ここで止めるわよ」
自分たちは最後の壁と言うように、瓦礫の上に立つアリアとセレーネ。
フランは「うむ」と頷くと、同じように二人に並ぶ。
冷たい汗が、頬を伝った。
「ヴァン、呑まれるな。しっかり見据えて、対処しろ」
立ち止まってこちらを見下ろしてくる竜を見据え、ラルウァが言う。
ヴァンもその竜から視線を外せず、声は出さずに首を縦に動かした。
ここで、やっと竜が等身大に見える。
全身は黒の鱗に覆われ、人のように立ってもその姿はやはり『竜が後ろ足で立ち上がってる』姿にしか見えない。
どんな攻撃をされても対処できるように、両足に力を込めた。
そして気づく。竜の背中から、短い何かが見えているのが。
「・・・・・・?」
じっと凝視し、竜が身じろぎしたのを機会にしっかりと見た。
それは、根元の当たりで引きちぎられたような、傷。その不自然な盛り上がりは、この竜が元々一対の翼を持っていたことを表していた。
良く見れば、竜は片目が潰されていて、王者のようであっただろう二本の角は長さが違う。折られているのだ。
さらに視線を動かせば、所々に切り傷のようなものがあり、そこから血を流していた。
「・・・・・・師匠」
「分かっている。だが、こいつが町を襲うつもりなら、戦わなければならないのだ。――たとえ、手負いでもな」
やはりラルウァも気づいていた。
しかし、何故この竜は怪我を。まるで誰かと戦ったかのような。それに、何故竜が外殻から降りて――。
思考するヴァンだが、それは中断させられる。
竜の咆哮が、体を突き抜けて響いた。
「来るぞ、ヴァン。考えるのは後だ!」
「はいっ、師匠!」
思考を止め、魔装に魔力を込める。
本来なら戦うことなど無かったはずの、哀しき敵と向かい合って。
読んで頂きありがとうございます。
地響きの正体は竜さんでした。いやー、今回はなんだか読み疲れそうな感じですねー。頭が痛くなりそうな・・・。
というわけで、リシャちゃんとレリアさんの心象描写からはいってみましたー、ちゃんちゃん。
そんでもって意外にも慌てるシッショさん。次回から死闘が始まりそうですね!(ワクワク