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妃殿下が帰って来た。
その報せは瞬く間に宮廷中に広まったので、午後の登殿時間になれば貴族たちがご機嫌伺いにやって来るだろう。妃殿下付き侍女の私にしてみると、今日くらいは休ませて差し上げたいと思うけれど。
帰って来て初めて私とアンジェリカが目にした妃殿下は、出発した時よりも顔色がよくなっているように見えた。湖の輝きを映した瞳と、薔薇色の頬、優雅な微笑み。深紅のドレスを身に纏った妃殿下は、贔屓目に見ても艶やかな薔薇のように美しい。
「クロード様。お帰りなさいませ」
揃って出迎えた私とアンジェリカの頬にキスをして、妃殿下はにっこり笑った。どこか浮かれているように見えるのは、気のせいだろうか。嘆きの海に沈んでいた妃殿下の姿が、まるで夢だったかのようだ。
けれど、そんな妃殿下の姿が嬉しい半面、手放しでは喜べないのも事実だった。あの報せを聞いてしまったら、妃殿下はきっとまた悲しんでしまう。
「ただいま。クレア、アンジェリカ。またあなたたちに会えて嬉しいわ」
「勿体ないお言葉でございます」
「何か変わったことは?」
「ええと、特には……。ね、クレア」
「早急にお知らせすべき事はありません」
「そう。ならいいわ。荷物の片づけをお願いね」
楽しそうに笑った妃殿下は、マリアンヌ様と一緒に部屋を出て行った。殿下や王妃様たちに、帰還の挨拶に行くのだろう。それを見送ると、アンジェリカが側に寄って来て耳打ちをする。さっきも不安そうな顔をしていたけれど、妃殿下はさっきの笑顔を見るに、気が付いてはいなかったようだ。
「あの話、クロード様にはしない方がいいわよね?」
「当たり前でしょう。いずれ知る事になるにしても、まだ早いわ。あんなにお元気そうなのに」
「そうよね。クロード様が明るく笑っているの、久しぶりに見たわ」
妃殿下の笑顔の為に。その私たちの思いは変わらない。何があっても、私たちは妃殿下の味方である事を決めた。相変わらずお父様からは、早く戻ってきて結婚しろ、という手紙が来るけれど、今もこれから先も、妃殿下の側を離れたくはない。
少し人よりも冷めている、と思っていた自分がそんな風に思えるなんて、自分でも驚きだ。最初は逃げだったのに、今はもう心の底から、妃殿下にお仕えしたいと思っている。
「妃殿下は、アストラで楽しく過ごせていたのでしょうね。療養に行って正解だったのだわ」
「私もそう思う。あちらにはご両親もご兄弟もいらっしゃるもの。お土産話を聞かせて頂けるかしら」
「聞いてみたらどう? しばらくは、楽しい思い出を語って頂いた方がいいかもしれないわ。そういう話をするのは、アンジェリカの方が適任ね。その前に殿下が、妃を迎える話しなんてしなければいいけれど……」
「さすがに戻って来てからすぐはしないと思うわ。殿下はお優しいし」
「なら問題は、王妃様かしらね」
こんな事を言ってはいけないけれど、王妃様は少しばかり妃殿下に対して当たりが強い。妃殿下がいない間も、孫の顔が早く見たいと零していたらしい。それに最近はどうやら、迎える予定のご令嬢と連絡を取っているようでもある。
妃殿下の帰還を促したのは殿下のようだけれど、これはもしかして、妃殿下にとっては良くない事なのではないだろうか。何故なら妃殿下は、一つの秘密を抱えている。
それが、殿下に露見してしまったのだとしたら。妃殿下は猫を飼っている、というあの噂は、殿下がシャルル様の兄君であるアーレイ子爵に対して、意味ありげに零した言葉がきっかけらしい。つまり殿下は、その頃から二人の関係を疑っていた事になる。
まぁ、頻繁に会うようになった時は、分からない方がおかしい、と私も思ってはいた。それでも、決定的な証拠は私たちが徹底していたため、見つかっていない筈だけれど。
「クレア? どうかしたの?」
「……殿下はどうして、シャルル様も一緒に行かせたのかしら」
実は、前からそれが気になっていたのだ。その頃にはすでに疑っていたはずなのに、どうして一緒に行かせたのか。確か、信頼しているから、と言っていたような気がするけれど、何か別の意味もあったのかもしれない。たとえば。
「この部屋を掃除する使用人は、決まっているわよね?」
「ええ。どうしたのクレア。そんな当たり前の事を聞くなんて」
「じゃあもう一つ。妃殿下がいない間、寝室へ入った?」
「いいえ。掃除は使用人の仕事だし、主がいない寝室に用事なんて無いわ」
シャルル様が来た翌日はマリアンヌ様がどうにかしていたようなので、私たちは知らない。でももし何か見落としがあって、それを使用人の誰かが見つけていたら。その人物が口を滑らせないでいられるのは、どれくらいだろう。
それに思い当ってしまって、心臓が早鐘を打つ。
「ねえ、アンジェリカ。あなただったら、疑わしい二人を遠ざけた後どうする?」
「それってクロード様とシャルル様の事よね。難しいけれど、そうね……。取りあえず、見覚えの無い物が無いか探すわ。それこそ、今クレアが言った寝室なんて怪しいわね。だってクロード様は大切なものはいつも……、あ」
アンジェリカも気が付いたらしい。一気に顔が青ざめる。
「待ってクレア。もし殿下が使用人に命じていたら……。ああでも、きっと大丈夫なはずよ。そうでしょ。マリアンヌ様だっていたもの。クロード様だってそう簡単には」
「でも、シャルル様の方は分からないわよ。ほら、連絡用に使っていたイヤリングとか、明らかに女物だもの」
「だけどシャルル様も、そんな分かりやすい場所にはしまわないでしょ? きっと一緒に持って行くわ。だから大丈夫よ。ね?」
明らかに泣きそうな顔でアンジェリカが言ったのと同時に、「大変よ!」という切羽詰まった声が割り込んで来た。ノックもせずに扉を開けたのは、王妃様付きとはいえ、年が近く比較的仲のいい侍女の一人。
時々王妃様の様子を教えてくれるので、助かっていた。そんな彼女がこんなに慌ててくるというのは、非常に珍しい。
「早く来て!!」
有無を言わさず半ば引っ立てられるように向かった先は、宮殿の広間だった。そこにはすでに多くの人間が集まっている。そして、首を伸ばしてようやく見えたのは、貴族たちに囲まれた妃殿下と殿下が向かい合っている姿。
二人の表情を見れば、再会を喜んでいるとはとても言えない。どうやら、悪い予感が当たってしまったようだ、と悟った。




